底知れぬ愛情と悪意

とうげんきょう

一 舞踏会の煌めき

「私と一緒に踊っていただけませんか、『アーレット帝国皇女・エルメス』」




 最初、彼女は自分が聞き間違えたのだと思った。わざわざ舞踏会に出てまで、自分と踊りたい男は一人もいないことを知っていたからである。顔の左半分を抑えながら、皇女は視線を落とした。しかし、




「あなたです。皇女・エルメス。あなたと踊りたいのです」




 男は更に強い口調で彼女に迫った。どうして私に、そんな言葉が頭を駆け巡る。顔を隠したまま視線を上げると、一人の礼儀正しい男が立っていた。タキシードにはシワが一つもなく、目鼻がしっかりしていながら軍隊に所属しているのかと思うほど、顔の輪郭がはっきりしている。




「踊りたいから踊るのです。皇女・エルメス。そこに




 男の目が、皇女の顔に被せられた手を貫く。左手に隠れた肌の、頬にできた溶岩のような腫瘍がひりひりと痛む。男の眼光は、舞踏室のシャンデリアよりも煌めいていて、天井に描かれた聖母と天使よりも美しく見えた。




「さあ、私の手を取って」




 男の煌めきを見ていると、こちらも心に灯した炎が燃え盛る。男は柔らかな笑みを浮かべて彼女を見ている。ふふ、二人が微笑みを零すのはほぼ同時だった。言葉を交わす必要もない。皇女は角砂糖のように甘い感情を抱きながら、彼の手を取った。微笑みながら彼女の顔を見る男に対して、皇女はつい無意識に左を向いて顔の左半分を隠した。






    *






 彼女は生まれながらにして人に嫌われる運命にあった。産声を上げた瞬間、後継ぎに歓喜した皇帝を待ち受けていたのは、顔の左半分を覆う大きな腫瘍だった。




「これは到底……治るものではないでしょう」




 侍医にそう診断された時、皇帝は失意の底にあった。初めての子供が醜い腫瘍を抱えている。国の象徴となるには、彼女はとても分不相応だった。その結果、皇帝は彼女を嫌った。呪いの結果だと考えた皇帝は、近くで彼女を育てることはなかった。


 次に同年代の子らに嫌われた。彼女を形容する巨大な腫瘍は、同年代の子たちにとっては悪魔の子どもだと噂され、蔑まれた。共に遊ぼうと皇女が近寄ったとしても、彼女たちは何もなかったかのようにそこから立ち去るのであった。


 その次に、侍女に嫌われた。昼食や朝食はおろか、三食抜かれることさえもあった。そこに深い意味はなかった。ただ、醜悪な皇女を見ていると深い憎悪を感じるだけだった。


 ある日何気なく、六歳だった皇女は積み木で遊んでいた。すると突然、横から黒いヒールが飛んできた。




「汚らわしい。早く片付けなさい。『呪われた子・エルメス』要領を得ないのろまな子め」




 怯えた目で侍女の方を見上げると、彼女は憎悪と暴力に満ちた瞳で皇女を見下していた。周りに助けを求めようとも、皇女の味方をしようとする者は一人もいなかった。敵だらけの城内で皇女は、何年も何十年も侍女に苦しめられ続けていた……。






   *






「どうかしたのですか」




 甘い蜜のように溶ける声が、皇女の鼓膜を通り抜けた。その言葉に現実へと引き戻される。視界の限りで狂い咲き誇る、花弁を幾多にも重ねた紅色の薔薇や早朝の露のような群青色のブルーベル。壁には紫色の桔梗紋や金色の蛇が舞う国旗がかけられている。目を閉じると、どこかから漆を塗ったような美しいヴァイオリンの音やピアノの音が耳を撫でていた。


 舞踏会。そうか、私は舞踏会にいるのか。彼女は息を飲んだ。




「ええ……ここは舞踏会です。決して過去を思い出す場ではありません。……少なくとも、悲しい過去をお持ちの方は」




 男の瞳孔は、五線譜の音色に揺らされながら猫のように拡大している。美しく織りなす交響曲に耳を傾けながら、男は踊りに任せてそっとその手を背中に回す。初めて触れる男の手、まるで自分の身体が侵食されていくような感覚に皇女の身体は強張った。しかし、男に敵意がないことが分かると、その緊張は徐々に解かれていった。




「そうです……怖がらなくてもよいのです。今は、あなたの敵はどこにもおりませんから」




 愛を囁くようなその声に、頬が赤くなり信頼したいと思ってしまう。目を閉じれば浮かんでくるはずの侍女の憤慨が、段々と男の微笑に変化していく。この際いっそ、全てを捨てて託してしまいたいとさえ思った。皇女の視界には、男の微笑が一杯に映っていた。




「全てをあなたに授けて……私は逃げ出してしまいたいわ」




 皇女は感情に任せて不満を呟く。それに対して、男は優しく背中をさすって答えた。




「一夜の夢、私もそう思っています……」




 舞踏会が終わり、二人が時間に引き裂かれるまで、二人は蜜月な微笑みを交わし合った。


 舞踏室を出ると、皇女は侍女の手に連れられて馬車に押し込められる。「行きなさい」酷く冷徹な声で侍女は従者に命令する。舞踏会の何千もの鮮やかな燈火ともしびが小さくなっていくのを見ると――皇女は、雨が降ればいいと思った。そうすれば永遠に、あの館で雨宿りができるから。




「人数合わせの癖にずいぶんと楽しそうですね。呪われた子・エルメス」




 夜の暗闇を詰め込んだような氷の声が、皇女の孤独を刺激する。空を埋め尽くした一面の闇に、皇女は心臓が千切れそうなほどの悲しみを抱いた。あの楽しかった時間はもう来ない。その事実が、この冷たい現実を伝えて悲しくなる。




「そうやって被害者面しているのが気に入らないのですよ! 呪われた子・エルメス」




 突然、隣に座る侍女が嫌味のように吐き捨てると皇女の足をヒールで強く踏みつけた。激痛。彼女の全身に衝撃が走る。声が喉まで登って、すぐそこまで出ようとした瞬間、侍女に無理矢理口を抑えつけられる。「夜は、民に迷惑ですよ」穏やかな声と共に、悪意の眼差しでヒールをねじる。骨が折れるような激痛、反抗することもできずにただ痛みを受け入れる。勇気と恐怖を持って顔を上げると、侍女が傲慢な瞳でほくそ笑んでいた。その漆黒の瞳には侍女のヒールが皇女の足を踏みつける様子が反射され……侍女が勝ち誇った笑い声をあげる。驕慢。コウモリも眠る静寂な夜、鬱屈とした林の中に彼女の笑い声が響いていた。






   *






 舞踏会の一件があって以降、侍女の暴虐は更に悪化した。三か月が経っても、彼女は底を尽きない憎悪と共に皇女をいたぶりつづけていた。ある時には皇女を殴りつけ、またある時には皇女の腹を蹴った。あくまでも服に隠れる箇所を、侍女は延々と狙い続けた。




「呪われた子・エルメス。あなたが生きているから、この国は悪魔の国に堕ちてしまう」




 それはもはや復讐のようだった。何に怒っているかすらも分からなくなってくるほどに、侍女は執着的に彼女の腹を蹴る。足がクッションのように腹に食い込むと、胃の中のものがこみ上げる。黄土色。嗅ぐだけで鼻をつまみたくなるようなにおいが通り過ぎる。焼けたような味と液体が口の中を転がって、自尊心が徹底的に破壊され尽くす。口を押える彼女を見て、侍女は満足そうに薄ら笑いを浮かべる。そしてもう一撃――足を振りかぶり、腹部――特に胃へと狙いを澄ました右足が最高潮に達したその時、




「エリザベス侍女。皇帝・ロッキード様がお呼びです」




 前触れもなく扉が開かれると、飾り物のように分厚い銀色の甲冑をつけた騎士が現れた。皇女を一瞥することもなく、その身体は侍女の方に向いている。




「皇帝様ですか。こんな時に一体何の御用事で……」




 侍女は急に冬の風が当たったように真顔になると、足を下げて皇女を見た。




「悪運だけは強いですね。呪われた子・エルメス。次は覚悟しなさい」




 彼女はそう残すと、黒いコートに身体を翻して部屋を後にした。護衛の騎士が何人も彼女の後ろをついていったが、なぜか報告した騎士だけがその場に残り続けていた。


 悪魔が後にした部屋に、騎士と皇女だけが残されている。


 まず彼女は侍女の去った場所に咳き込むと共に、口に含んでいたものを吐き出した。目を逸らしたくなる悪臭と腐った果汁を飲み込んだような後味が皇女の五感を支配する。王族の気品と矜持が塵と化し、彼女はその場に倒れこむ。




「やっとエリザベスが出ていった……」




 彼女が消えて真っ先に感じるのは、嬉しさでもなく生存できる安堵だった。ぽつんと二人が残る大きな部屋に、皇女の吐息が響く。今日も何とか一日を乗り切ることができた。そう確信した時初めて、彼女は歓喜と疲労を味わうことができる。


 その横で、甲冑をつけた騎士が丁寧に床に散らばった液を片付けていた。彼に余分なことをさせた、その罪悪感が襲い始めると、騎士は兜を脱いで一礼した。


 その声は、どこかで聞いたことがある声だった。




「お久しぶりです。皇女・エルメス」




 どうして、いつしかよぎったその言葉が、彼を前にして再び蘇る。そしてあの時見聞きした世界の色鮮やかさが、再び脳裏によぎって息を飲む。「あなたは……」




「ええ、覚えてらっしゃいますか。『アーレット帝国皇女・エルメス』」




 舞踏会で踊ったあの男が、皇女の部屋で微笑んでいた。


 なぜここに、彼女がそう呟く前に、男は皇女の前に跪く。あの時と変わらない――例えるなら色を失った世界がぱっと色気づくような微笑みを向けて、男は口を開いた。




「あなたがここで不遇を買っていると聞きまして、居城から忍び込ませていただきました」




「土産です」男はそう言いながら、皇女の前に右手を差し伸べる。痛みを我慢しながら彼女が手を差し伸べると、いたずらに微笑んで指を鳴らした。次の瞬間には一本の薔薇が右手に握られていた。まるで魔法のよう、彼女は目を大きく見開いた。




「素敵な薔薇……」


「まるであなたのように美しい。・エルメス


「いいえ、私はこの薔薇のようには美しくない。なぜなら……」




 彼女が腫瘍を触れ、顔を歪ませた時、男は実直な瞳を真っすぐ向けた。




「そんなわけがない」




 目を大きく見開いた皇女へ、男は突然彼女の身体を抱きしめた――


 殴打された痛みが皇女の身体を走る。しかし、それは蹴られた痛みに比べるととても微小なものだった。痛みが走る。しかし、それよりも、もっと激しい感情の揺れ動きを感じる。男の分厚い胸板に密着した皇女の心臓は、赤い情熱がほとばしるように充実していた。生きている、そんな感想を抱くことができるほど、彼女は感動した目を男に向けた。




「あなたは美しい。それはどんな花々にも劣らない」


「なぜ、どうして私に執着するのですか」




 男の両手に包まれながら、彼女は一つの疑問を口にした。彼女の顔を見て、男は笑い、




「あなたには、他の誰にもない魅力が存在するから」




 と答えた。彼女が首を傾げていると、微笑んだ男にそっと身体を離される。殴られた痛みで寒々しくすら感じるというのに、なぜか心が温かく、まだ動くことができそうな勇気を抱く。もう少しあなたのことを感じたかった、皇女はそう思いながら男の瞳を見る。男も「冗談ではありません。あなたは、唯一無二の魅力を持つ方です」そんな言葉と共に、皇女をじっと見つめていた。私の魅力、皇女は暗唱する。腫瘍だらけの醜い自分に、一体何の魅力があるというのか?




「あるのです。他の誰にも負けない、あなただけの宝が」




 もう少し詳しく、彼の言葉を聞きたかった。手を差し伸べようとしたその時、扉の向こうから集団が急いで階段を上る音が聞こえた。




「もう戻ってきたか……侍女が上がって来ます。それでは、また。可哀想な皇女・エルメス」




 男はそう告げると、皇女に微笑んで部屋の窓から軽快に飛び去った。


 隙間風が吹く。レースのカーテンが揺れていた。扉が開かれる音が聞こえた。




「この城に侵入する、不届きものはいなかったですか?」




 鬼気迫った様子で尋ねる侍女に、皇女は意気を込めて答えた。



「そんな人、知りませんわ。私は少なくとも見たことがない……」



 彼女の手が震えるような答えの後、侍女は首を傾げて踵を返した。「どこへ行ったというのかしら」そう呟きながら、彼女は再び部屋を後にした。


 扉が強く締められて、静寂が再度訪れる。心臓の拍動、微かに匂う余韻の味に、皇女は思わず微笑んだ。彼からくれた一本の薔薇を鼻に近づけながら、その甘い香りの中に彼との甘美的な記憶を託す。皇女の純粋な胸の中には、彼の柔らかな吐息と微笑みが渦巻いていた。

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