Three

しばらく経ったある日のこと。

少女はめずらしく自分の家のポストに手紙が入っているのを見つけました。

手紙の差出人は、あの叔父さんの息子でした。お断りの言葉を考えながら少女は封を切り、手紙を読み始めました。

その内容は______


『君の両親の、形見を渡したい』


息が、止まりました。

______形見?でも、あの家のものは全部、叔父さんが売り払ったはず。

___本当に?

もし、嘘ではないのなら。本当に形見があるのなら。

(確かめたい)

確かめにいきたい。少女は細かく震える手指を抑えながらそう思いました。

こんなにも心が揺れ動いたのはいつ以来でしょう。風も吹かない静かな、でも冷たい湖のような少女の心に、ひさしぶりにさざ波がたちました。



次の日、少女はさっそく手紙に記載されていた息子さんの家へと向かいました。

少女を迎い入れた息子さんは、少し驚いた様子でした。

「もしかして、ご迷惑でしたか?」

「いえ、そんなことは・・・。思ったより早かったから、驚いただけですよ」

息子さんは少女をリビングに通し、少女の両親の形見というものを見せてくれました。

白い、モダンなオルゴールでした。蓋には、小鳥が彫られていました。

何の着色もされていないので、オルゴール自体と同じく、彫られた小鳥の色は白です。

「・・・・このオルゴールは、君の両親の車の中にあったらしいんです。あの激しい事故でも奇跡的に壊れていませんでした。箱にいれてあったから、買ったばっかりだったんでしょう。・・・おそらく、君へのプレゼントだったんじゃないかと。・・・父はそう言っていた」

少女は、恐る恐るその長方形のオルゴールに手をのばしました。オルゴールは手動式で、外側に小さなねじがついています。蓋の小鳥は、少女の飼っている小鳥にそっくりでした。息がうまく吸えなくなりました。震える手で、ゆっくり、ゆっくりとねじを巻きます。巻き終えた後、オルゴールから音楽が流れてきました。

「________________」

涙が、頬を伝いました。美しい音でした。

_____小鳥のさえずりのような、やさしい音色でした。

息子さんがおろおろしているのが視界の端に映りました。でも、止まりません。止めることができません。

_____最後に泣いたのは、いつだっけ?

オルゴールはまだ美しく穏やかな音を奏でます。春風のようなメロディでした。幼い子供が野原で走り回っていると、ふと草むらの影に四葉のクローバーをみつけたような。仄かな幸福が伝わってくるような音楽でした。少なくとも、少女にはそう聴こえました。

こういう日々が欲しかった。____地獄を積み上げるような日々ではなくて。悪夢を作り上げるような日々でもなくて。

こういう幸せが欲しかった。____三人と一匹でいたあの頃のような。ありがとう、おやすみ、おはよう、さようなら、ごめんなさい、愛しているよ。愛しているよ。そんな風に、そんな言葉を大切な人達と繰り返せる幸せが欲しかった。

こういう愛が、欲しかった。愛したかった愛されたかった。陽だまりのように、春風のように。誰かを、自分を傷つけるようなものじゃなくて。

_____いつだって、本当はこんな幸せな夢を求めていた。帰ってくるとき、待っている人のことを考えて喜ばせようとするささやかな優しさが。おかえりと言われたとき、何の疑問も不安も挟めずに、ただいまと返せる日々がずっとずっと欲しかった。泣き叫びたいくらいに。でも叶わないって、諦めて。求め続けるのは、辛いから。このオルゴールはどこで買ったのだろう。アンティーク店で、ひっそりとまるで捨てられたように置かれていたのをふたりは見つけたのだろうか?

『ねえ、見て。この蓋の鳥。あの子の小鳥にそっくりよ』

『本当だ。そうだ、これをあの子へのおみやげにしよう。今朝は連れて行ってもらえないことに、ずいぶん拗ねていたから』

『そうね、きっと喜ぶわ。機嫌も治るわよ』

いったいどちらが、言い出したんでしょう。でもどちらでも、ふたりとも、きっと少女のことを想っていたのです。喜ぶ声を、笑った顔を。

涙が、あとからあとから溢れていきます。胸が苦しくて、けれど、何故?息ができないほど苦しくてたまらないのに、心がいつもよりも軽いのは。少女はずっと、あの小鳥と鳥籠が両親からの最後のプレゼントだと思っていました。だけど違った、違ったのです。両親は、このオルゴールを家で待っていた少女に、贈るつもりだったのでしょう。そしてこの先もこれからもずっとずっと。少女の来年の誕生日も再来年のも。数え切れないほどの贈り物を、するつもりだったのでしょう。考えてみればとても当たり前なことだったのに、少女にはそれが奇跡みたいに思えました。それだけ自分を想ってくれていた人達がいたことが。自分を愛してくれる人達がいたことを、少女はようやく思い出しました。思い出して、やっとちいさく笑いました。百年ぶりみたいに。息子さんは、そんな少女の姿を静かに見ていました。


少女はオルゴールを大事に抱えて、息子さんの家をあとにしました。息子さんは、玄関の先まで見送ってくれました。少女は急いで帰ります。小鳥がいる家へと。はやく、はやくこのオルゴールの音を聴かせてあげたい。息が切れそうになるほど走って、部屋にたどり着きました。きらきらとした目で、少女は鳥籠の中の小鳥に話しかけました。

「ねえ、きいて!このオルゴール____」

あなたのさえずりみたいなの。とっても綺麗なのよ。

そんなふうに、言うつもりでした。小鳥の小さな体に巻かれた____少女が巻いた、その白い包帯をみるまでは。

「_____あ、」

少女は思い出しました。自分が小鳥にしてきたことの全てを。自分が作り出してきたこの惨状を。もう小鳥が、ずっと前から、少女に対してあの可愛らしい鳴き声を聴かせていなかったことを。____少女が、何より小鳥の”地獄”だったことを。

いいえ、本当はずっと、知っていたのです。分かっていたのです。ただ見ないふりをして、目をそらしていただけなのです。かつて少女を追い詰めた、あの大人達のように。

「・・・ごめ、ごめんなさい。ごめんなさいっ」

少女は再び涙を流しました。でも先程の涙とは違い、それはただただ少女の胸を苦しませるものでした。けれど、それは罰ですらないのです。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

少女は小鳥に謝り続けました。謝る以外が、できませんでした。あの息子さんが繰り返しすまないと言うのを見て、少女はどうしてこの人はこんな事を言うのだろうと思っていましたが、今はじめて少女は息子さんの気持ちが分かりました。

謝らなくては、いけないのです。謝らずには、いられないのです。

たとえそれが、何の償いにならないのだとしても。謝ったところで、もうどうにもならないと知っていても。____赦されないと、分かっているのだとしても。

謝らなければ。ごめんなさいと。せめて、せめて、そう言わなければ。

小鳥はきょとんとした瞳で、少女をみつめていました。その姿は皮肉にも、息子さんの話を聞いていたときの少女にそっくりでした。

「ごめんなさい。・・・ごめんなさい。私、あなたのこと____ちっともうまく、愛してあげられなかった」

ただ愚直に、まっすぐに、愛する方法を知らなかった。

愛したかった。愛してあげたかった。もっとやさしく、ひだまりみたいに。心も体も、美しい人になりたかった。魂の内側まで、正しさとやさしさとあたたかさで溢れている人でいたかった。あなたみたいに。いつか花屋で買った、あの綺麗な青い花みたいに。向けられた憎しみをやさしさで受け止めて、愛で返せたなら、なにか変わっていただろうか?

ああでも、そんな話は無意味だろう。「もしも」は存在しないのだから。

少女はもう壊してしまったのです。

幼かった少女が懸命に守った、幸せの象徴だったはずの小鳥を。

宝物のような思い出とともに、壊してしまったのです。



少女はしばらく泣いていましたが、握りしめていたオルゴールをコトン、とテーブルの上に置き、

「すぐに戻ってくるからね」

そう言って出かけて行きました。小鳥は黙って少女の後ろ姿を見つめていました。

 少女は商店街で小鳥用の包帯を、餌箱を、ブラシを、とにかく小鳥のためのものを買いあさりました。それが償いになるとは全く思っていませんでした。ただ、そうしなければならないという恐怖にも似た思いが、少女を突き動かしていました。

ふと、少女は売り物の、空の色よりも濃い青色の便箋に目をとめました。いつか買った、あの花の色に少し似ていました。そして、息子さんの言葉を思い出しました。

「返事はゆっくりで構わないから____」

少女は、両親の形見を受け取るまでずっと断ろうと考えていました。でも、今は。少女は群青の便箋を買いました。これで返事を書きましょう。「お世話になります」と。幸せになるためではなく、逃げないために。

そんな事を考えて歩いていると、

「きゃあああああっ」

「・・・え?」

ドスッ。

誰かの、甲高い悲鳴が聞こえました。次に感じたのは、気を失ってしまいそうなほどの、鈍い痛みです。少女は、体に大きな穴が空いたように錯覚しました。何がおきたのか分からぬまま、少女は意識を失くしました。


最期に見えたのは、どこまでもどこまでも澄んだ、美しい青空でした。



結局、ひとりぼっちの少女は、ひとりぼっちのままで死にました。

誰かをちゃんと愛することなく、「誰でも良かった」と言う通り魔に殺されて。


***


少女が死んで、幾日経ったでしょうか。小鳥は何日も餌を食べられないままでした。鳥籠の中の水も、すぐにつきました。気が狂いそうなほどお腹がすいて、体を動かせませんでした。餌をくれる少女がいないから。どこに行ったのでしょう。

『すぐに戻ってくるからね』

そう言ったのに。

 小鳥は意識が朦朧としてきました。もはや鳴くこともできず、仰向けになって空を眺めていました。ちいさな窓から見える綿あめみたいな白い雲。どこまでも遠く、澄んだ青い青い空。もうすぐ自分は死ぬのだろう。そんなふうに思いながら。

_______あぁ結局、届かなかったな。

小鳥は最期まで、そんなことを思ってしまいます。懲りもせずに。

飛びたかった。飛びたかった。全部の色を詰め込んだみたいなあの空に、この白い翼を広げて。どこまでもどこまでも飛んでゆきたかった。いつか少女が歌っていた歌のように。心の底から。胸がちぎれそうになるほど。

結局、叶わないまま終わってしまう。きっと無理だろうと諦めた、あの日のとおりに。

どんな願いひとつも叶わなかった。空を飛びたいという願いも、少女に幸せになってほしいという願いも、この痛みを、地獄を取り去ってほしいという願いも。

____一瞬で死にたいという願いさえも。

けれど、青い空と流れる雲を見ているうちに、小鳥はまあいいか、と思いました。

許すことは出来ないけれど。何度も憎んで、何度も恨んで、きっと死にたくなるくらい全部を呪って。とても痛くて苦しくて、世界なんて滅んでしまえばいいと何回も思ったけれど。

『・・・・ごめんなさい』

あぁそれなら。君も苦しんだというのなら。



 最後の最後で、僕はこの想いを空に放そう。

愛も憎しみも幸せも恐怖も痛みも哀しさも。いままで抱えてきたもの全部、この青く澄みきった空に溶かそう。きっと蒔いた想いは種となり羽となって、風に運ばれ宙を舞うのです。____生まれてからずっと、飛べなかった小鳥の代わりに。

それならそれでいいと、小鳥はようやく思うことができたのです。最期になって。

 小鳥の体はどんどん軽くなり、意識も朧げになってゆきました。薄く目を開いて、最後に。


________きれい。



小鳥は終わる瞬間まで、美しく澄んだ空の青さをみつめていました。


***


男の人が、歩いていました。その人は、少女の叔父の息子さんでした。少女が死んだことをまだ知らないその人が道を歩いていると____

「・・・風船?」

晴れた青空に、白い風船青い風船がひとつずつ、一緒になってゆっくり登ってゆくのが見えました。遠い遠い空の上へと。雲の色よりやわらかくて、空の青より深い色でした。そのふたつの風船が、紐で結ばれてもいないのに一緒になって飛んでゆくのです。どこか幻想的な風景でした。

「・・・・きれいだなぁ」



それは誰かが、あたりまえに思うこと。

そして一羽と一人が、最後に想えたささやかな幸せ。



チチチチチ。クスクス。

どこからか、鳥の歌うような鳴き声と弾むような女の子の笑い声が聞こえていました。




とある少女と小鳥のおはなし

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ことり 閏月 @uruuduki

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