Two

少女の地獄はしました。


少女が十二、三歳になった頃でしょうか。その頃にはもう少女は、親戚というのも憚られるようなほとんど他人の家を転々としていました。

少女は、性的にも暴力をふるわれるようになりました。

初め、少女は何をされているのかがまったく分かりませんでした。

ただその訳の分からない時間が、吐き気がするほど気持ち悪く感じられました。

背中にゾッと悪寒が走って、鳥肌が立ち、ぎゅっと目をつむってただただその醜悪な時間を過ぎ去るのを待つしかありませんでした。

少女は、助けを求めるという方法を知りませんでした。

だって、いなかったのです。助けてくれる人間なんて、まわりには誰ひとりも。単純に気づいていない人、気づいていて見なかったふりをする人。あぁここで何かを叫んだとして、誰か聴いてくれるでしょうか。何か変わってくれるでしょうか。

少女は黙って耐えるしかありませんでした。他に、どうすることができたでしょう。少女は最初は泣き叫びましたが、うるさいと殴られてからは歯をくいしばって泣き声を押し殺しました。

 そうして、少女の心はどんどん壊れていきました。擦り切れて、擦り切れて、ばらばらになって。少女の精神は、もうとっくに限界を超えていました。



だからでしょうか。

少女は、小鳥を傷つけはじめました。



きっかけは、なんだったでしょう。

はじまりは、いつだったでしょう。

少女はあんなに大事にしていた小鳥を、幸せの象徴だったはずのものを、ゆっくりと壊していきました。首を絞め、羽に爪を立て、死なない程度に傷をつけました。どうして少女がこんなことをするのか、小鳥はまったく分かりませんでした。__あるいは、もしかしたら少女は、小鳥にも自分と同じようになってほしいと思ったのかもしれません。自分と同じくらい傷ついてほしいと願ったのかもしれません。仲間がほしかったかもしれません。けれどそんなこと、小鳥に理解できるはずがありません。

____なぜ?なぜ僕を傷つけるの?

いたいよくるしいやめて、たすけて、たすけてお願い。

小鳥がどんなに騒いでも鳴いても、少女はやめようとしませんでした。まるでなにかに取り憑かれたように。奇しくもその光景は、暴力を受けている時の少女にあまりにもそっくりでした。

小鳥は逃げたいと思いました。やめてと叫びました。たすけてと懇願しました。少女を憎みました恨みました。少女が、小鳥を傷つけるたびに。

だけど、少女はその行為が終わるたび、小鳥に泣きながら謝るのです。ごめんなさい、ごめんなさいと。ぼろぼろぼろぼろ涙を流しながら。まるで小鳥よりも辛そうに。

_______ごめんなさい。あなたを、傷つけてしまった。

小鳥はそのたびに何も言えずに少女をみつめました。やがて小鳥は、鳴かなくなりました。

白くつやめくふわふわの羽はがさつき色褪せてゆきました。小さな光が瞬いていたつぶらな瞳は虚ろになってゆきました。たとえ終わったあとにどれほど謝ろうとも、少女の行為は止まりませんでした。小鳥はいつからか諦めていきました。助けてと泣き叫ぶのをやめた、少女のように。


そうやって、時は過ぎてゆきました。


***


少女が少女と呼べる歳ではなくなった頃。ようやく、少女はひとりで生活することができるようになりました。だけど何故でしょう。あれほど焦がれていた自由であったはずなのに、少女の心は少しも揺らぎませんでした。もう、なにも感じませんでした。ようやくあの地獄から解放されるというのに。きっと遅かったのでしょう。失ったものが多すぎて、いつのまにか空いた心の穴は大きすぎました。少女はそっと小鳥をみつめました。



小さなアパートの一室に、ひとりと一羽は引っ越しました。小さくもかわいらしい部屋でした。少女は鳥籠をリビングにあるアーチ型の窓のそばに掛けました。白い格子がまるで牢屋の鉄格子みたいだと、小鳥は思いました。


ひとりで暮らし始めたからといって、少女を取り巻く環境が劇的に変化したというわけではありませんでした。親もいなく、まともな生活すらさせてもらえなかった少女は、あたりまえのように外の人間関係でも孤立しました。少女とまわりとの齟齬は、埋めようもないほどになっていたのです。まわりと同じことができず、うまく言葉が返せなくて。いじめ、嫌がらせ、暴力。それらは始まってしまうとあっという間で、けして終わりはしませんでした。同じように少女は小鳥を傷つけることをやめませんでした。地獄、地獄、ずっと地獄。ひとり暮らしイコール少し自由な時間が増えただけ。でも前よりはマシでした。夜に深く眠れるようになったから。少女は一見穏やかでした。少女は小鳥を傷つけるとき以外は優しくしました。おいしい餌を用意し、毎日鳥籠を掃除し、ケガをさせたあとは丁寧に手当てをしました。少女は小鳥を殺しませんでした。死なさずに、でも生かさずに。小鳥は月色の牢獄の中で諦めていました。望むことを、やめました。けれどいつだって、小鳥は傷ついていました。

____同じ鳥なら、鶏に生まれたかった。

一瞬でオーブンで焼かれて死ねたのなら、きっとどんなに楽だろう。生きることも死ぬこともできず、ただ痛みを繰り返すだけのこの生をやめたい。あぁ彼らのように死ねたら。

 やさしい地獄、穏やかな悪夢。ここだけが、ちっとも時間が進みません。小鳥は静かに慟哭していました。ひょっとしたら、少女も。静謐に満ちた苦しみと、染みついて離れない痛みだけが、この部屋を流れていました。




小鳥は、小さな窓から見る空だけが、支えとなっていました。

空一面がオレンジ色に染まる夕焼け、同じ色の雲。やがて黄金に輝く太陽が沈むと深い群青が顔を出します。橙と溶け合って、一部は濃い紫。よく晴れた冬の空は黒に近い藍色を背景に宝石のように満天の星が散らばります。白銀、赤、青。星があまりみえない夜も小鳥は好きでした。月がぼんやりと淡く光って、よく目を凝らすと虹色の光輪がみえます。他にも、たくさん、たくさん。美しい空、流麗な景色。例えば、夜明けのとき、薄くたなびく雲と空が淡いピンク色に染まること。例えば、どこまでも澄んだ、これ以上ないほどの青空にうず高く積み上がる真っ白な雲。空はいつも移り変わってゆきました。そしてそのどれもが美しく、尊いもののように小鳥にはみえました。小鳥はそれらをみるときだけ、瞳に光が戻りました。生きていることを思い出しました。もうこのボロボロの翼で、空を飛ぶことはきっと叶わないけど。それでも、叶わないことを知っていても、否、知っているからこそ。なおいっそう小鳥は痛いほどの切なさに胸を焼かれました。言いようのない静かな熱が、小さな心臓を焦がし続けました。

_______あぁ飛びたい、飛びたい、でも叶わない。

諦めるしかないのだろう、たとえどれほど辛くとも。ああそれでも、叶わなくとも夢見ていたい。そう願うのは我儘だろうか。

憧憬と、焦燥と、絶望と。でもその空から目をそらすことだけは出来ませんでした。飛ぶことが叶わないのだとしても、最期の一瞬まで目に焼きつけていたいのです。

どこまでも美しく残酷な空の景色が、今の小鳥のすべてでした。


***


ある日のことです。少女が街を歩いていると、男の人に呼び止められました。

「ちょっと待ってください!あなたはもしかして✕✕さんかい?」

名前を呼ばれたので、少女は少し驚きながら振り返りました。眼鏡をかけた、痩せた二十代くらいの男の人でした。

会ったことのない人でした。

「あなたは誰ですか?」

「僕は、君の叔父の息子です」

___叔父?私の?

少女は少しだけ疑問に思い、だけどすぐに思い出しました。あの男の人。父と母の葬式で、小鳥を少女から奪おうとした人。そして、少女を地獄に放り出した人。少女は男の人をまっすぐにみつめました。よく見たら、似ている気がしました。気の所為です、きっと。だって少女は、いまのいままで叔父の存在すら忘れていたのですから。

男の人は心を落ち着かせるように深呼吸をしてから、切り出しました。

「まず謝らなければならないことがあります。本当に、本当にすまなかった」

叔父の息子さんは、椅子に座るなり頭を下げ、話し始めました。

叔父のこと____つまりは、彼は父親のこと。そして少女の父親のこと。叔父と少女の父の実家はとても格式高い家で、少女の父はほとんど家出のような形で実家を出たこと。そのせいで、叔父は少女の父が継ぐはずだった家督を継がなければならなくなり、親から決められた相手と結婚しなければならなかったこと。そのために、つきあっていた人とも別れたと。

「父は____とても君の父親のことを恨んでいました。母に言っていたのを聞いたことがあるんです。何回も。だから、君の両親の葬式のとき、君に冷たく接したのだとしたら、それが理由です。君自身に責任はありません。1ミリたりとも」

それから、息子さんは叔父はもう死んでいると少女に伝えました。

「父は、三年前に死にました。末期のがんだったんです。死ぬ一週間くらい前、君のことを初めて聞きました。僕も母もそれまで君のことを知らなくて。それから、ずっと君を探していました」

____どうして?

「父は__父さんは、申し訳ないことをした、と言っていたんです。何も知らない、何の罪もない幼い子供を自分たちのしがらみにまきこんでしまった、と。父は悔やんでいました。だからどうしたと、そう言われてしまえば何も言えません。君の環境も、生い立ちも調べていくうちに分かっていきました。・・・父は、とてもひどいことを、君にしていたんですね」

まるで、自分が罪を犯したような顔を、どうして、この人はするのでしょう。

「だから____だから、償いたい。償わせてほしい、謝らせてほしい____父さんのぶんまで」

少女は、息子さんの目を見ました。優しい目でした。きっと、良い人なんでしょう。そして自分の父親のことが、とても好きなんでしょう。だからこうして少女を探したのです。

この人に、負うべき咎はひとつもないのに。

きっと善人なんでしょう。きっと家族思いの好青年なんでしょう。身内の不祥事を、身内の為に、そしてみずしらずの少女の為に、肩代わりしようとするくらいには。

_____でもだからって、それで少女の過去が変わるでしょうか。

「それで、あなたはどうしたいんですか?」

少女は尋ねました。息子さんは答えました。処刑台に向かう罪人のような面持ちで。

「君に償いたいんです。君の生活費も学費も全部、払わせてください。母は、君さえ良かったら養子にしたいと言っています。どうか、考えてはもらえないでしょうか」

少女は、何を言っているんだろうこの人は、と思いました。どうして彼がそんな顔でそんなことを言うのか、心の底から不思議でした。

叔父のことを思い出したときも、話を聞いたときも、少女の心はちっとも揺らされなかったのです。別に叔父を、憎んでも恨んでもいませんでした。少女を地獄に放り出した張本人ではあっても、地獄を作り出した張本人ではないからです。彼を憎まなければならないのなら、少女にあらゆる暴力を奮った人、それを見て見ぬ振りした人、少しずつ少女の地獄を作り出したたくさんの人たちを憎まなければなりません。恨まなければなりません。

それでも最初は、少女は叔父を恨みました。涙を流しながら、心が壊れそうになるほど憎みました。けれど膨大な苦痛の時間が、少女のそういった気持ちを、心をすり減らしてゆきました。少女は、もう疲れてしまったのです。憎むことも、恨むことも、怒ることも、悲しむことさえ。

少女は、ゆっくりと微笑みました。やさしく、けれどこれ以上入らせまいとするように。

息子さんはその微笑を見つめ、わずかに目を見開き、くちびるを噛んで、ちいさく溜息を吐き出しました。

「・・・・返事は、今でなくてもかまいません。ゆっくり考えてください」

そういって、息子さんは自分の住所と電話番号を伝え、伝票をもって少女の前から去ってゆきました。

遅かった。遅かったのです、何もかも。少女は、もう戻れないほどに壊れていました。失くしていました。

それなのに、いまさら、君はもう自由だよ、なんて。

幸福になってもいい、なんて。

______それがどれほど残酷なことか、彼には分からないのだろうか?

永遠に分からないままでいれたらいい。少女はせめて思いました。ひどくひさしぶりに自分を心配してくれた、彼のために。

あのひとの父親は、分かっていたはずだから。

だからきっと、悔やむだけで何もしなかったのです。


少女はその帰りに、花屋の店先に揺れていたある花に足を止めました。

青い青い花でした。この世の美しさをぎゅっと集めて凍らせたような。

とてもとても綺麗だったので、少女はその花を一輪買うことにしました。

家に帰ると少女はグラスにトポトポとお水をついで、そこに花をいれました。

そして小さな窓のそばのテーブルにコトンっと置きました。鳥籠の、すぐそばに。

その行為に、なにかの意味があったのかは分かりません。

ただ綺麗でした。少女には、それだけで十分でした。



それから、またあの穏やかで静謐で、けれどもむごい時間が少女と小鳥を包みました。小鳥は空を夢見て。少女は現実から目をそらして。時間が止まったような日々が、再び訪れていました。甘くて痛くて切なくて哀しくて、どうしようもないほど愚かな時間。

きっと神様はもう自分を助けてはくれないことを、少女はよく知っていました。

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