ことり

閏月

One

一回でいいから、あの青い空を自由に飛んでみたかった。

白い羽を大きく広げて。どこまでもどこまでも行きたかった。

自分が存在する痛みと自由を感じてみたかった。


この願いは、きっと、叶わないことを知っている。


_________とある小鳥の願い


***


「ねえ私、この子がいい!」

ペットショップで、少女が母親に言いました。

「この子?小鳥だけど、猫とか犬とかじゃなくていいの?」

「うんっ。この子がいい!だって、すごく綺麗だもの。」

少女は、鳥籠の中の真っ白な小鳥を見つめて言いました。


こうして、小鳥は少女の小鳥となったのです。


少女は月色の、まるでおとぎ話にでてくるような綺麗な鳥籠を買いました。

そこに小さなあの子を入れるのです。きっとどんなに素敵でしょう。

少女は嬉しくなりました。るんるんらんらん。両親が少し呆れるほど、少女ははしゃいでいました。対する小鳥は何も分からず、ただきょとんとしていました。

自分はどこにいくんだろう?」くるくるあたりを見回すけれど、答えはどこにもありません。やがて、小鳥と家族は大きな白い家へと入っていきました。そこが小鳥の住処となりました。それからの日々はとても穏やかで暖かでした。綺麗な月色の鳥籠の中で小さなブランコで揺れ、美味しい餌を食み少女の指にくちばしを撫でられる。そこはまるでアルバムの中の写真のようでした。水がここちよく揺蕩っているような、それでいて雲がねむっているような。その家はきっと、誰もが願う幸せで満ちていました。誰もが描いた幸福な家でした。

明るい少女に優しい母、少し不器用だけれども愛情深い父親。そして白くてかわいい小鳥。ありふれた不幸と幸福が、あたりまえの喜怒哀楽が、日常の中で降り積もっていき、万華鏡のようにくるくる回る。少女は気づいていなかったけれど、きっと、少女と小鳥が住む家は世界で一番やさしくてまあるい場所でした。

 けれども人は、いつだって”幸せ”に失くしてから気づくのです。

 その日がどしゃぶりの雨だったのは、何かの因果だったのでしょうか。


 少女の両親が死んだのです。


事故でした。少女が留守番をしている時、でかけていたふたりは他の車とぶつかったのです。ずっと同じ幸せを、世界は与えてはくれませんでした。

葬儀はまたも雨の日に執り行われました。少女は真っ黒なワンピースを着て、これはなんだっけとぼんやり考えていました。少女の両親は親戚と縁を切っていたらしく、親族で来ていたのは叔父たったひとりだけでした。その叔父にさえも、少女は会ったことがありませんでした。それなのに、「オトナノジジョウ」という理由で叔父さんは家にあるものをどんどん知らない人のトラックの中に詰め込んでゆきます。(それは家具などを売買する業者さんのトラックでした。)お父さんが買ってくれた木彫りの置物も、お母さんが好きだった古い砂時計も。椅子も、花瓶も、スプーンも、レース編みの棒も、みんなみんな家から消えてしまいました。最後に残ったのは、少女がずっと抱えていた月色の鳥籠とそこにいる白い小鳥だけ。叔父さんが「それもこちらに、」と言って手を鳥籠に伸ばしましたが、少女は首を横に振り、さらに強く鳥籠を抱きしめました。叔父さんは眉をひそめましたが、それでも少女は鳥籠を手放そうとはしませんでした。

みんなみんな消えてしまった。思い出のカケラたち。大切だったもの。そういうものたちが知らない理由で、知らない大人達の手で、ぜんぜん知らないところに行くのです。でもせめてこの小鳥だけは、ぜったいに手放したくありませんでした。

たからもの。これは私のたからもの。うばわないで、さわらないで。さわっていいのは、お父さんとお母さんだけよ。

少女にとってその小鳥は、お父さんとお母さんからの最後のプレゼントでした。それと同時に、壊れてしまった幸せの象徴でもありました。小鳥を撫でるたび、幸せだったあの頃の記憶が思い浮かぶのです。お父さんと、お母さんのささやかな笑顔も。もう失くなってしまったあたたかな記憶に、触れられるのです。手放せる筈が、ありませんでした。

叔父は何度か少女をなだめようとしましたが、少女が手をゆるめない姿を見て、やがて諦めたように溜息をつきました。チチチ、と小鳥が鳴きました。「だいじょうぶ?」とでも聞くように、首をかしげて少女の瞳をみつめます。 少女はそんな小鳥を見て、ふふっと微かな笑い声を吐き出しました。透明な雫が頬をつたいながら、少女は痛みをこらえるように微笑みました。それは、少女の両親が亡くなってから初めて見せた、少女の笑顔でした。

「ねえおまえ、これからどうする?」

これからどうしようか、どうやって生きていこうか。もしも叶うのならば_________いっしょに、いてくれるだろうか。共に生きてくれはしないだろうか。

少女は心の中で尋ねました。小鳥はチチチ、と鳴きました。それが答えである かのように。

少女は泣きたいのか笑いたいのか分からないまま、鳥籠を力いっぱい抱きしめました。

ふたりぼっちの世界で、雨が音をたてて弾けていました。


***


それからの少女の生活は、悪夢のような凄惨さで満ちていました。

少女は叔父さんの家で二、三週間過ごしたあと、また別の家に預けられたのです。そこで幾らか過ごしたあとはまた別の家へ。短いときは一ヶ月に満たず、長いときは半年くらいの期間で少女は親戚をたらい回しにされました。最初は同情的だった人もいたけれど、そのうち異分子である少女を疎ましく思い、邪険に扱いました。食事が用意されないのはまだまし、暴力が振るわれることさえありました。


「いつまでうちに面倒を見させるつもり?」

「仕方がないでしょう!?私のとこは家計がきついんです!」

「うちだって同じよ!!」

そんな大人達の言い争いの声を、少女はよく物陰に隠れて耳を塞ぎながらやり過ごしていました。


「ねえ、どうして私だけなの?」

少女はよく小鳥に尋ねるようになりました。

どうして?どうしてこんなことに。

学校の授業参観に誰も来てくれない惨めさを。昼休み親に作ってもらった弁当を食べるクラスメイト達への羨みを。私は、少し前まで知らずに済んでいたのに。どうしてこんなにも私だけ。

小鳥はいつものようにチチチと鳴きます。少女を慰めるように。その鳴き声を聴いたときだけ、少女の心は休まりました。小鳥は少女に許された、たったひとつの寄る辺でした。餌代がかかるから、鳴き声がうるさいから捨てなさいと脅されても蹴られても殴られても、少女は決して小鳥を手放しませんでした。この小鳥まで失ってしまったら、今度こそ自分の心は完全に壊れてしまうと少女は理解していました。きっとぼろぼろになって、心根から折れてしまう。立ち直れなくなってしまう。少女にとってこのとき小鳥は、自分の命と等価値でした。

_____お願い、お願いよ。一緒にいてね。ずっといっしょに。

少女は縋るように毎日鳥籠を抱きしめました。小鳥は少女の願いに気づいていました。


けれども小鳥はいつのまにか、別の願いに胸を焦がすようになりました。___それは、少女の願いと相反するものでした。

きっかけは叔父の家から別の預けられる家へと向かう道中、上を見上げたことでした。


小鳥はそのとき、鮮烈な青を目にしました。

それは”空”でした。

目に染みるほどの群青、端には淡く紫がかかり小さな白い一番星が輝いていました。

小鳥はそれまで数えるほどにしか空を見たことがありませんでした。そしてこんなにも、鮮やかに色彩が目に焼きつくような空は見たことがありませんでした。目にした瞬間、小鳥は強烈にそこに惹かれました。懐かしいような、それでいて胸が震えるほどの切なさに襲われました。小鳥は初めて自分が”鳥”だということを思い出したのです。

____あぁ、飛びたい。

小さな翼を大きく広げて。どこまでもどこまでも飛んでいきたい。際限なく境界がないあの美しい空間へいきたい。小鳥は、今まで一度も感じたことのない衝動に小さな心臓がひきちぎられそうになりました。

けれども。けれども自分が飛んでいってしまったら、少女はどうなってしまうのだろう。

唇を必死に噛みしめて、泣くのを我慢する女の子は。理不尽な世界に押しつぶされそうになって、それでも負けたくないと静かに叫ぶ少女は自分がいなくても平気だろうか。

答えはとっくに分かっていました。少女が小さな小さな自分にしか縋りつけないことを、小鳥は知っていました。小鳥は、自分までもが少女から飛び去ってしまったら、少女はきっと壊れてしまうと思いました。泣いて、泣いて、泣けなくなって。きっと空っぽになってしまうと思いました。小鳥は静かに、目を閉じました。

______だったら今は、いっしょにいよう。

いつか、少女がひとりぼっちで泣かなくなる日まで。誰かと幸せになれる日まで。

その日までずっと一緒にいようと決めました。



それでも少女と小鳥の願いは、あの綺麗な空の向こう側にいるはずの神様には届きませんでした。

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