(2)夢ですら幸せなものばかりじゃない
雨が降っている。
雨の降っている音がする。
横殴りの風が僕たちに雨を叩きつけーーとはならなかった。透明な窓ガラスに一粒一粒が当たり、パンと円形に弾けた雨は重力に逆らってむしろ浮遊する。
まるで球体のバリアの中にいるかのような錯覚。
時が止まったような光景の中心にいたのは、白シャツにジーンズのカジュアルな格好をしたお姉さんだった。
「あたしが奢るからさ」
「・・・・・・別に甲斐性を見せて欲しかった訳じゃないですよ」
人生初、大人の女性からのお誘いを、僕はよりにもよって地上4階相当の高さで受けた。ほんの数秒前まで僕は自分の意志で屋上から飛び降り、その結末を迎えるだけの存在だった。
しかし今はこうして会話すら出来ている。
重力よりも不確かで、それ以上に抱擁感のある無重力に包まれながら。
これは夢のようだけど、紛れもない現実なのだ。
僕は落胆するように息を吐いた。
「あの。僕って助かるんでしょうか」
「勿論!」
ムカついて顔を逸らしていなければ、屈託の無い笑顔だっただろう。
言うやいなや魔女は僕の肩を抱き寄せ、深海の底に沈んでいくようにゆっくり地上へ落ちていく。
「待っててね」耳元で優しく声を掛けられた。
浮遊感とはまた違うむず痒さに全身が痙攣する。
「うぐ、ちょっと暴れない。コラ!」
背丈も力も、魔女の方が大きい。浮遊感の解除とともに僕はバンザイの体勢で持ち上げられ、気分はネットで見た「伸びる猫」って感じ。
僕の自死ーーもとい自殺は、完璧に阻止されてしまったのだ。
「どう?空に浮かんだ心地は。地球は青かった?」
魔女の足下には傘が一本落ちている。それを拾い上げて差すと、何食わぬ顔で僕をその中へと招いた。
「あ、ひょっとして荷物とか屋上にある?」
「え、・・・・・・ええ、まあ」
「じゃあ取ってくるよ、ちょっと待ってて」
差していた傘を僕に手渡し、空いた手のひらを地面に向ける。その場で小さく跳ねるような動作はジャンプと呼べない僅かな跳躍の筈なのに、重力が魔女を引きずり降ろす事は叶わない。
映画のヒーローが空を飛ぶ場面とも、鳥の飛行やスペースシャトルの発射とも違う。見えないはしごが彼女を足下から押し上げるように宙へと浮かび、みるみる建物の屋上へと上っていった。
(能力持ちだ)
いっそ激しい嫉妬が僕の全身を焦がしてくれれば良かったのに、すっかり強くなった雨と未遂に終わった情緒に引き裂かれて燻る。
絶望した先で、最後の逃避にも失敗した僕の惨めな気持ちなんて誰にも分かるまい。
もう何の気力も起きなかった。傘すら重く、立つのも苦しい。
どうにでもなってしまえと、雨をどんどん受け入れて水流の出来た側溝めがけて思い切り座った。
制服のズボンが瞬く間に濡れる。これで立ち上がったら盛大に漏らしたみたいに見えるが、今更どうでもいい。
地べたに座り込んで聞く大雨の音は、これまでと違った音がする。
酔いが覚めた事で、ふとした現実を噛みしめる事になった。
時刻は午前9時。もう朝のHRを終えて、僕の悪事が知られてしまった頃だろう。
「ど、どうしたの?」
居酒屋の暖簾をかき分けるみたいに、魔女が僕の持っていた傘を上げてのぞき込んできた。手にはさっきまで僕が持っていた学生鞄がある。
「もしかして貧血?偶然の事故であって、あたしが心配してるような感じじゃない?」
「いえ。完全に自発的に、自殺しようとしました」
「・・・・・・どうして?」
「将来がもう、お先真っ暗だからです」
僕が絶望し始めたのは、ほんの一週間前。不覚にも何人かにその弱みを吐露してしまった事がある。将来が分からなくなった、絶望した。
誰もが口を揃えて同じ言葉を言う。「そんな事ない」とか、「まだ若いから」とか。そう返ってくる事は分かり切っていた。だから「不覚」だった。誰にも分かるはずがないのに。
どうせこの人も同じだ。浮くことが出来る力なんて大層悩みの無さそうな力だ。
僕たちを日常に縛り付ける重力から開放される力。この人の考え方が僕にはとても出来ない事が容易に想像が付く。きっとこの人はいい加減で、無計画で、漂流されるままに楽しめてしまうような性格なんだろう。
それに比べて僕は完璧主義者で、神経質で、達観してるなどという事をよく言われる。そもそも「達観してる」なんて人物評は皮肉に近いものだなと僕はいつも思っていたが、最近になって悪口なのだと確信した。
「君、驚かなかったよね。私が宙に浮いた時」
頷くのも面倒なくらいだったが、魔女はそれを肯定と受け取った。
「という事は
「・・・・・・
「うん。フランシス=ベーコンは知ってる?」
僕は少し動きを止め、教科書の内容を思い出した。
「4つの思いこみについて提唱した哲学者ですよね。洞窟のイドラとか、劇場のイドラとか」
「お、よく知ってるじゃん君。名前は?」
「備海です。備海計人」
「私は語世茅襟。出来れば茅襟さん、って呼んで」
差し伸べられた手を僕は握る気になれなかったが、不意に僕の背中を支えて押し上げる力が発生、勝手に僕の腰は浮き上がって気づけば普通に立っていた。
「孤独が君だけの物なのは分かるけどさ、やっぱり困った時は色んな人に頼って欲しいと思うよ」
そんな事を言う大人の茅襟さんは、無邪気な子供のような笑みを浮かべた。
僕は茅襟さんに手を引かれ、降りしきる雨の中を歩く。平日の午前9時に制服を着た僕は往来では非常に目立つ存在だが、隣に茅襟さんがいる事でなんとか日常の範囲に収まっている。
車を停めたというコインパーキングは駅前を横切った先にあり、気まずい沈黙は茅襟さんが一方的に話しかける事で埋められていた。
「4つのイドラの内の、洞窟のイドラ。個人の経験によって形成される思いこみの事だね。ベーコンはそういうのを自覚して思いこみを排斥しようねって言ってる訳だけど、私たちはそれを排除するばかりか、より強くして現実を歪ませているんだ」
なんとなくこの人は床屋をやっていそうなイメージが浮かぶ。美容院ではなく、床屋だ。美容院に行ったことは無いから適当だけど。
「そうやって生まれた力・・・・・・個人の性格に由来する考えが現実をゆがめる超能力として発現した例を、私たちは
私たち、という言葉に眉を潜める。
「茅襟さんは何かの秘密組織だったりするんですか」
「いやいや!そんな世界征服みたいな事は考えないよ。せいぜい世界平和くらい?」
ネットにも上がらず、地元の小さな噂話としてなぜか聞いたことのある都市伝説がある。それが現代の魔女、箒を持って宙に浮かぶ人影がいたというなんとも眉唾な物だった。
普通の人ならそんな安い噂話など気にも留めないだろうけど、僕は一度聞いたきりのそれがどうにも忘れられなかった。その秘密に心当たりがあったから。
いざ話をしてみるとこの人はとにかく明るかった。底抜けとまではいかないが、やはり僕とは色々根本が異なっていそうだ。
人が宙に浮かぶなんて殆どの人は信じないだろう。だがそれを差し引いても、この人は多分「見せる」。自分の
魔女といっても乗ってきた車は普通っぽいワゴンタイプで、促されるまま車の助手席に乗ると、茅襟さんはおもむろに財布を取り出した。
「・・・・・・何のつもりですか」
「え?運賃だよ。やっぱ帰ります!って思ったら使ってね」
「今から富士の樹海でも行くんですか」
「そんな事ないよ。ちゃんと町の中、公園の裏側にある隠れ家カフェ」
茅襟さんはポン、と五千円札を僕に渡してきた。ナンパもサボりも今まで経験したことが無くて少し感覚が麻痺していたが、考えてみればこれは誘拐同然。お金を渡された事で今の僕と、茅襟さんの立場・・・・・・僕を救う為に「不利な賭け」に出てくれている事に思い至る。
僕が同意しているからこそ、この時間は続いている。
まず最初にお金を渡してきたのはきっとそういう意味。僕がいつでも終わらせて良いという、決定権を委ねた形だ。
ズボンの中に入っていたハンカチを尻に敷く。渡されたタオルで頭を拭きながら、現実を押しのける非日常に心が傾く。
「あの、どうして僕を助けてくれたんですか」
なんとなく目を合わせるのが辛くて。もしくは助手席に座っているぶん周りから見られることを恐れて、タオルを抱くようにしてフガフガと言う。
「助けてないよ」
言っている意味が分からなくて僕は聞き返す。
「そうなんですか?」
「正確に言うと、君はまだ助かってない」
そりゃそうだろう。だって貴方は僕の邪魔をしただけだ。僕も諦めは悪い。睡眠薬なら確実に自殺できるかと考えていたりするのだ。邪魔しただけの自覚はあるんだなと思っていたら、茅襟さんは全く別の話を始める。
「どうしてヒーローが遅れてやってくるか、知ってる?」
「・・・・・・はい?」
赤信号で車が止まる。
ウィンカーの音がカッチッカッチッと沈黙の長さを刻む。
茅襟さんは口を頑として開かず、僕の答えを待っている。
そんなもの大層な理由なんて無いだろうに。
「その方が盛り上がるからじゃないですか」
「勿論、それはそうだけどね」
誤魔化せる雰囲気ではない。ほんの気まぐれで、真剣に考えてみる事にした。映画に出てくるヒーローも、漫画に出てくるヒーローも、絶体絶命のピンチって時に示し合わせたように来たりする。
作品によっては容赦なく間に合わなかったり、ホラー映画では全くと言っていいほどに役立たずな場合もある。それどころか襲われる方も余所をほっつき歩いたりするものだ。
時にパニックじゃ済まされない大ポカをやらかすホラー映画のキャラを見てバカだなって呆れたものだけど、自分から死を選んだ僕も同じだ。
学生鞄の中に入っていたスマホがブー、ブー、と震えた。
僕も茅襟さんも、その着信を無視する。
時間切れのようで、僕は顎を持たれ目を逸らせないようにされた。
「誰よりもまず、自分が最初に戦わないといけないからだよ」
他の人と目をマジマジと合わせたのは、今日が初めてだった。
車列が再び動き出し、茅襟さんは前に向き直ってアクセルを踏む。
信号が青に変わるまで、ウィンカーの音はきっかり7セット分。
優しくも厳しい言葉が僕の体を貫いた。
たとえ大怪獣が現れたとしても。挑むにしても逃げるにしても、見て見ぬ振りだけは絶対に出来ない。
自殺は、他の誰にも防げない。自分で自分自身を守るしかない。
それは僕にとって凄く余計なお世話で、そしてだからこそ聞き入ってしまった。言葉が出ないのに口をポカンと開いていた。閉じたままだと茅襟さんの言葉が頭の中で反響して、出て行かないような気がしたから。
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。いつまでもループして耳から離れず、試しに息を吐いてみる。
いつの間にか呼吸が途切れ途切れになっている事を自覚する。
みっともない声を上げているのを聞かれたくなくて、口の中にタオルを出来る限り詰めて、泣いた。
「未来が、見えていたんです」
車は目的地に着いたのか、エンジン音も止まっている。
でも茅襟さんは焦らずに僕の事を待ってくれていた。
「それが備海君の
「未来視って奴なんだと思います。もっと小さい頃から見えていたような思い出もありますけど、ハッキリ自覚したのは10歳の頃でした」
眠気に身を任せるような心地よい微睡みでもなく、不意に襲いかかるような不快感の立ちくらみでもない。ただ突然に視界が切り替わったような錯覚が始まり、未来が見える。テレビのチャンネルを変えたかのように。
物に対してではなく、どちらかといえば人に対して有効だった。単に物やペットに僕個人が興味を持てなかったからだろう。
見える内容も、どれくらい先の事なのかも、マチマチだった。
クラス委員を決める時、10分後には先生が僕の名前を呼んでいる未来を見た事がある。
他にも初恋をした小学6年生の時、その女の子が17歳っぽい見た目の頃に明らかに僕じゃない誰かと付き合っている未来を見た事もある。
おそらく未来視のルールは二つ。対象者と、見たい場面を想像する事。
例えばクラス委員に僕が選ばれた時は先生を対象に、正式に名前を呼んで任命する場面を見ようと想像した。見えるのはその決定的な場面のみで、事の真相はクラスメイトたちの他薦で押しつけられたわけだけど、先生が勝手に僕に任命した場合もあり得た。
どのような過程で結末に至るのかは分からず、とにかく結果だけを覗き見出来る。そしてそれは僕自身にも有効だ。
テストの点数は全科目最低でも9割、上位の成績をキープしていた。勿論僕が先の未来である、「自分のテストを見直している未来」を覗き見したからだ。僕が一度見た未来では点数が5割ちょっとでも、現実の僕は総合成績一桁の順位に早変わり。
覗き見した未来はどうやら現時点の仮定らしく、自分を対象にした未来を軌道修正する事は幾度と無く成功している。
もしかしたら初恋の場合もこうして上書き出来たかもしれないが、他者の未来の書き換えに成功した試しは無かった。あるいは年月が経ちすぎていると、その修正も困難になるのかもしれない。
結局何が駄目だったのかは僕にも分からないまま、もうそれを確かめる事すら出来なくなった。
「・・・・・・見えていた、って事は」
「見えなくなったんですよ。僕にはもう未来が」
お先真っ暗っていうのは言葉通りの意味だ。こんな事を誰も真面目に聞かないし、信じない。実は昔から未来が見えていたんですけど、それが見えなくなりましたなんて。
それがようやく今日、僕は茅襟さんに恐怖の正体を打ち明けている。
(結局僕は孤独に震えていただけか)
僕は生まれて初めて、自分の事を話しているような気がした。
「少なくともあたしは聞いたことが無い。それまでの
「そうなんですか?」
「案外年を重ねても、元々の性格は10代の頃のままだったりするものだよ。今のは常連さんの受け売りだけどね、同じ理屈で
「・・・・・・常連?」
諸々の気色悪い感情を振り切って、今の僕は落ち着いていた。嘔吐するまでが気持ち悪いのと同じで、一度泣いてしまえばむしろスッキリした気分になっている。
茅襟さんが車を降りたのに釣られて、僕も降りた。
車が止まっているのは公園の裏側に並ぶ建物の一つ。砂利の敷き詰められた駐車場にワゴンを止め、隣にはコンクリート調の建物が建っていた。
建物全体は横に長く、コンクリートの冷たい質感の壁とガラス張りの冷たい印象から、黒い木材とツタ植物でアクセントを加えた目に優しい店内が見える。扉には柔らかな質感の黄色で「Paraglagh」と店名が印字されていた。
パラグラフ。文章の段落を意味する英単語を、一段落と掛けたらしい。
「あたしね、実はここの店長なんだ」
茅襟さんは素っ気なく人差し指で自分の店とやらを指している。
「てことはカフェの店長だったんですか」
「うん。客があんまり来ないから休んでばっかりなんだけどね」
茅襟さんがまた財布を弄り出す。またお金くれたりしないだろうか。
「店までの道のり、覚えた?」
「・・・・・・全く見てないです」
「大丈夫だよ。えーっとね」
時刻は昼前、午前10時そこら。
公園の更に向こうは団地があって、子連れの親が話し込んでいる。
スマホにまたしても着信が入った。5度目からはもう数えていない。
「もう落ち着いたでしょ。今なら電話に出てもいいんじゃない?」
僕は頷く。母親からしたらたまったものじゃないだろうけど、今までのタイミングじゃ駄目だった。息を整えているところに「ちょっと待って」茅襟さんが肩を叩いてくる。
「茅襟さんの名前は出しませんよ。僕がほっつき歩いてた事にします」
「ああ、それを聞いて安心した・・・・・・じゃなくてね」
突然握手をされたと思えば、手の中に名刺が握られている。
「コレ、裏っかわに地図書いてあるから。これを頼りに来て」
「ホームページは無いんですか」
「あまり多くの人が来るよりも、備海君みたいな人に来て欲しいから」
頭の中で原稿を書く。母親に対しての謝罪と、魔が差したけど今は大丈夫という旨のメッセージ。どんな「魔物」だったのかも誤魔化さないと。
茅襟さんはというとワゴン車にもたれ掛かって、僕を見守っている。
「あの!」
そんなに声を上げなくても聞こえるだろう。自分で自分にツッコんだ。
だけどさっきまで死ぬところだったのだから、色んな事がどうでもいいと思えてきた。
「バイト、募集してますか」
今までにない高揚感に、僕は浮き足立つ。
達観してると色んな人に言われ続けてきた僕だったけれど。今は凄く恥ずかしい。顔も相当に真っ赤になっているに違いない。
「高校生になったらおいで」だって茅襟さんが、今までと比較にならないくらい笑っているんだから。
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