僕らの重心は傾いている

式根風座

(1)それは重力よりも不確かで、地平線より優しいもの

 自殺って言い方は納得がいかない。正しくは「自死」と呼ぶべきだ。

 僕が遺書にそう書いたのは、これが至って誰かの虐めによって生じた傷害事件では無いのだという事を後腐れのないよう遺しておく為だった。

 万が一、この激情が虐めによるものであったとしても、僕の意見は変わらない。なぜ人は自殺を選ぶのか。僕はデュルケームの問いに答える。

 「答え合わせ」だからだ。

 自分がもう死んでしまっている事、手遅れである事。それらに気づいてしまったから、結末の元へただ自分を迎えに行くだけなのだと。


 「忘れ物は無い?」

 「・・・・・・うん」

 「まだ小雨降ってるみたいだから、折りたたみ傘も入れておきなさい」

 「・・・・・・うん」

 体の中の動悸がズレている。心臓とは別に喉の奥に鈴を一個飲み込んでしまったみたいに、リリリンと。

 「行ってらっしゃい」

 いつもなら母さんの挨拶には振り返らず、口で返事だけして歩き出す。

 でも今日の僕は振り返った。

 「行ってきます」

 歩き出してから鍵の閉まる音がするまで、少し時間がかかった。

 季節はようやく秋になった。鳥も夜ではなく朝に鳴くようになる。風が吹けば涼しいけれど、まだ半袖の方が良い、そんな残暑の平日の朝だ。

 例えば自転車に子供を乗せて送迎にいくような主婦の人。

 例えばコンビニにトラックを停めて、朝食のカップラーメンを店の外で啜っている人。

 まだ湿気はじっとりと残り、微妙に汗ばんでいる。

 人によっては傘を差したり差さなかったりする程度の雨足。頭に当たる粒の大きさから、僕は差さなくてもいいやと思った。

 僕の名前は備海計人。中学三年生の15歳だ。

 隣では小学生の集団登校がゆっくりとした足取りで現れる。

 集団登校の子供達を引き連れる班長もまた小学六年生で、僕との差は3年しかない。班長が傘を差しているから、ほかの子供達も傘を差す。邪魔にならないよう、足早に彼らの横を通り過ぎながら、あの頃は何を考えていたっけとぼんやり考えていた。


 あの頃の僕は、世界を無条件に愛する事が出来ていた。

 それなのに僕は今、今日死ぬべきかどうかなんて事を考えている。潔癖症で神経質で、何事も上手く行かないなんて事を言う。

 学生鞄の内ポケットには、A4用紙一枚分の遺書が入っている。

 そうは言っても文字数的にはおそらく200字そこそこ、片面すら埋まっていないもので、添削すればSNS一回分の投稿で済む量だ。

 いや、こういうのって両面書く物なのか?とか、メモ用紙に遺書を書くのもロックだな、とかーー自分の事だというのも忘れて最初こそ少し楽しかったけれど、結局文字として遺った自分の情報量にため息が漏れる。

 僕にはそんなに悔いも未練も無かった。

 いや違う、未練はある。どこもかしこも未練だらけだ。でもそれはもう今となっては叶わない事だから。

 人は案外、敵からの罵詈雑言は耐えられるものだ。確かに人の悪意は痛くて怖い。でも本当に恐ろしいのは。

 自分のアイデンティティが、全てハリボテに過ぎなかったと突きつけられる瞬間だ。

 

 だから僕はこの行いを、自殺ではなく「自死」と呼ぶ。

 家族や友達と相談したらとか、声を掛けてくれる人もいるかもしれない。でも、そういう事じゃない。

 自分さえ敵に回ってしまったから、死ぬことしか選べないのだ。

 人は他人から逃れる事は出来ても、自分から逃れる事は出来ない。だから自分が敵になってしまった場合に、どうにもならない詰みになる。

 自分を傷つけなければ、自分を守れない。

 なにも矛盾は無い。自分の敵が自分だからだ。

 本当に恐ろしい物は目を逸らせないもので、自分自身に深く根を張って行く手を阻むもの。「そういう仕組み」に気づいたのが、1週間くらい前の事だった。

 今の僕は三匹の子豚、藁の家を造る長男だ。

 狼の鼻息に易々と吹き飛ばされたのは僕自身の存在意義。消えてしまった事を信じられなくて、さっき吹き飛んだ筈の藁の家をまた造る。

 それしか造れるものがなくて、それでもやっぱり吹き飛ばされる。その繰り返し。僕は今そのピリオドにいる。手遅れで、家無しの状態。


 視界の端に黒い影が鋭く光ったと思えば、「ギィィィ」とブレーキ音を鳴らした。なんとか急停止に成功した車のボンネットが僕の腰に当たるが、ボインと跳ねるような感触だった。

 気づけば信号は赤、僕は思いっきり信号無視をしていたらしい。

 「危ないでしょ!どきなさい!」

 その金切り声は僕の耳を通り過ぎる。

 まったく不意を突かれた事で僕の体は完全に止まってしまう。足の芯まで熱を奪われたように動かない。

 「邪魔でしょう!早く!」

 そして今、ここにきて、僕は自分が手遅れだという事に改めて気づかされた訳である。一個人としては生きていても、僕の心は死んでいるのだ。

 3回目のクラクションで僕の体は動きを取り戻した。

 今更小走りで駆けていくのも変な話で、またボウと歩き出す。

 さっきの小学生達は僕を反面教師にしただろうか。

 大きなブレーキ音だ、通勤中の人たちが僕を見てヒソヒソ話をしているのだろうか。

 どうせなら轢いてくれれば良かった。その方が手間が省けたはずだ。


 視線を先にすると、最寄り駅へと繋がる道が見えてくる。道を少し右に逸れた先の歩道橋を渡れば、いつも通りの歩き慣れたルートだ。

 でも僕は歩道橋を渡らず、一度曲がった道を直進し続ける。

 国道に沿ったいくつものチェーン店・・・・・・レンタカーやファストフードなどの前を通り過ぎて、とにかく直進。

 ふと周りを見渡すと、周りにいるのは赤ちゃんを連れた母親や杖を突いて歩くお爺さんなどだった。電車駅への道を少しズレているから、その分私服の通行人の比率が増えたのだろう。その後も道成りに進んでいき、段々と人目に付かなくなっていく。


 そこは家から徒歩20分強、本来の最寄り駅からは一駅先の隣町に位置する場所。

 一目見た時、そこは丁度良いだろうなと思った建物。

 黄色く変色したクリーム色と、古めかしいレンガ色の二色に塗られた廃ビルだ。住人が居なくなって20年は経っていそうな雰囲気の5階建て。

 電車に揺られている時は、いつもこの建物の背中側が見えている。

 わずかに原型を留めた1階の看板やスカスカの郵便受け。そもそもビルの三階部分までが木に覆われている為に入り口付近は朝っぱらでも薄暗い。

 一応近くにコインパーキングがあるとはいえ、建物自体が倒壊しそうな雰囲気があるからか地元の人は全くこの道を使わないのだ。

 

 だからこそ、平日の飛び降り自殺には丁度良い。


 斜向かいのパブは午前中だから息をしていない。

 店先の自販機で適当な飲み物を買おうと思った。

 自販機の一番下、缶コーヒーの欄はいつも季節ごとにパッケージを新たにする。

 新しく、更に美味しくなった・・・・・・なんてCMを。一々信じていたのも子供の頃だったっけ。


 辺りを見回してみても、やはり人がこちらに気づく気配は無い。

 さも自分の家であるかのように廃ビルの中に足を踏み入れる。

 ローファーが足音を奏でる。まるで洞窟の中みたいに反響する。

 僕の人生は上手く行っていた。誰よりも殊更に。

 その事には理由があって、でもそれは道理じゃ説明の付かないもので、分かり合える人がいたとしても今の僕にはもう出来ない。

 役立たずの電灯、階段の踊り場には緑のカーテンが降ろされ、日の光は入らない。

 僕以外にも此処に魅力を感じていた人がいたのか、階段の隅に目を凝らすと煙草の吸い殻が集まっている。

 諸先輩方には大変申し訳ないが、ここは使えなくなるだろう。

 足並みは逸る訳でもないが、ばれないようにコソコソと歩く訳でもなかった。


 二階に上り、景色が一段高くなる。

 そこはまだ現実の範疇。やはり近くを通る人はいない。さっきまで景色に溶け込むようだった雨足は少しずつ強くなっていた。

 スマホを開くと時刻は午前8時、完全な遅刻ペース。デジャヴのような違和感にふと足を止めたが、その原因は分からなくて再び動き出す。

 一段ずつ、上る。

 住人のいない廊下が視界の端にチラと映る度に、影が靡いて人が動いたように錯覚するが、そんな物は無かった。

 ふとした息苦しさに足が止まる。自分の動悸が別物のように蠢いているのもそうだが。

 見上げると屋上へと繋がる扉があった。ここが空気の行き止まり。5階の屋上へと僕はたどり着いたのだ。


 目の奥が、喉が、焼けるように渇いている。

 自分が冷静ではないと、俯瞰から見下ろすもう一人の自分がいる。


 思えば屋上に着くなんて事が滅多に無かったと思う。実家は一軒家だし、学校の屋上は結構人気なものでむしろ一人になりづらいから。

 コンクリートの床と、網目状のフェンスと、ちょっとしたスペースの上にある給水タンク。

 非常用階段は見事に錆びていた。給水タンクの中もどうせあんな具合だろう。

 僕はふと、もしここで一夜を過ごしたらどうなるだろうと考えた。

 勿論天然のプラネタリウムとはいかない。ここら一帯が都会だなんて冗談でも言えないが、田んぼや畦道の続くような田舎でもない。

 リュックの中にカップラーメンやらお酒やら詰めて、星空を見た気分になって、ウィンドブレーカーを掛け布団代わりに雑魚寝する。

 自殺するより、よっぽど健全じゃないか。

 「だから違うんだって」

 雨はもう本降りと言って良い強さになった。

 鼻で笑って、柵の上に足を掛ける。

 耳がキーンとして、夢見心地のようにフワフワして、けれど怖くない。

 腕は震えていない。膝も笑っていない。

 だってそうだ、僕は自分に見切りをつけている。


 自殺は逃げなんかじゃなくて、自分という敵に勝つための作戦なんだ。

 僕は戦う、僕は勝つ。僕は・・・・・・。

 自分を、殺す。

 「・・・・・・ごめん、やっぱり違くないや」

 雨足が強くなったのもそうだが、風も吹き荒ぶようになったらしい。僕の背中を後押ししてくれる。

 涼しい風が何処からともなく胸中を突き貫く郷愁の感触、秋風のもたらすそれが、センチメンタルな僕の心情と混ざり合って固まった。

 もし僕が地縛霊になったら、その時は次の人たちにメッセージを遺そうと思う。飛び降りるなら秋が良いと。

 フェンスの出っ張りが足裏の真ん中を通り過ぎ、固い踵に当たる。

 世界は傾き、地面が僕を迎え入れる。

 一瞬は重力から解き放たれるも、やはり重力からは逃れられなかった。


 夢見心地は一瞬にして過ぎ去り、全身が冴え渡る。滞っていた熱が四肢の隅々へと引き延ばされて行き渡っていく。

 加速度的に落ちていく身体が、雨粒すらも追い越す。

 指先に血が溜まったような痺れ、ジンジンとしたむず痒さ。

 血液も意識も全身に拡散された事で脈拍と熱が乱高下。緊張の反動か、またしても夢見心地に引き戻されて目を閉じる。

 僕は今、確かに空を飛んでいる。

 ぐらり、と全身が揺れる。地上にいないのに、おかしな感じだ。包まれるような無重力感に、微睡みのような甘い感覚に、全身を委ねてーー。


 ーーねえ。

 異変を感じたのは、その時だった。


 声が、聞こえた。耳元で囁くような声が、静まった世界を押し退けて。

 僕は最初それが走馬燈の類なのかと思った。誰の声なのか覚えが無い。

 「一緒にお茶しない?」

 これはひょっとして、ナンパってやつなんだろうか。ワードチョイスが少し古い気もする。いや、僕は現代版も全く知らないけれど。

 というか人生で初めての経験だ。これがもし走馬燈なら僕は覚えている筈だった。恋愛経験は全く無いのに、大人の女性に声を掛けられた経験なんて。

 ・・・・・・というか遅いな。小学生の頃、クラスメイトが車に轢かれていかにもな包帯を頭に巻いて登校してきた事がある。彼が言うには轢かれた直後の気分は意識と眠気が均等に入り交じった状態なのだとか。

 視界がボヤケて、凄く気持ち悪くて、でも吐きそうなのとは違って、眠くないのに力だけが脱けていく、そんな感じだと。


 でも今の僕にはそんな気分がまるでない。無重力に包まれる心地よい感触だけが、いつまでも残っている。 

 「もしかして君、気絶してる?」

 幻聴は僕の思い出を続々と更新する。

 それどころか僕の手のひらに優しく指を絡ませる。

 その感触に思わず目を開く。視線の先には、白いYシャツがしっとりと濡れて透ける肌の色。

 「ーーーっ」

 条件反射的に目を逸らすと、全てが停止していた。

 地上4階、およそ12メートルの高さ。電線に止まる烏と同じような目線に僕たちは浮かんでいた。

 雨すらも重力に沿った滴ではなく、丸い粒状のままに滞空している。

 屋上から落ちていく筈だった僕は、地面と平行な姿勢で止まっていた。スカイダイビングでパラシュートを開く前のような姿勢だ。


 僕はこの日を迎えるまでに偶然、現代の魔女と呼ばれる都市伝説を耳にしたことがある。

 だから顔を上げた先にいるこの人が「魔女」だと、直ぐに分かった。

 白いYシャツに拘りの伺える青の色落ちジーンズ。飾り気のないヘアゴムで纏めたポニーテール。いわゆる格好良い系の人で多分、20代後半。大学生とも違う大人の雰囲気を醸し出していて、中学三年生の僕にとってはあまりにも遠い存在。

 そんな魔女が当然と言わんばかりに、空中に「浮遊」していた。


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