第10話 別れ。そして邂逅。

「雨月っ……!」

 紫陽は手を伸ばそうとした。が、輝夜の氷の様な手がそれを遮る。

「黙って見ておれ」

 ぴしゃりと冷たく言い放つ輝夜の雰囲気に押され、紫陽は口を閉じた。

「じゃ、始めようか」

 焔の一言を機に、場の空気が変わる。肌に突き刺さるような刺々しさ。

 ぼっという音と共に、焔の両手に炎が宿る。そしてそのまま明に殴りかかった。

「ゆっくり雨月を嬲りたいからね……!」

「……そうはいきませんよ」

 すっと身をかわすと、明は雨月に向かって刀を振る。

「侍の精神は一対一じゃないのかよ」

 焔がむすっとした表情で口を開く。しかし明は気にもせず、雨月と対峙する。

「片牙で短い生を過ごすより、一息に今、終わらせて上げましょう」

 雨月はすっと目を閉じる。次に開いた時、瞳は紫色に輝いていた。

「動くな」

 明は目を隠す間も無く、雨月の目を真正面から見てしまう。ぴたり、と明の動きが止まった。

「でかした、雨月」

 明の背後から、焔が笑む。そして炎をまとった拳が明に向かって繰り出され……

「残念ですが効きません」

 すっと半身を逸らして焔の攻撃を避ける。拳は、明の左を掠めた。チリッと、数本の髪と包帯が焦げる。そしてはらりと包帯が解けて現れたのは……

「そこまでして僕たちを滅ぼしたいわけ?」

 焔が歪な笑みを浮かべる。明の左目は、黄土色に染まっていた。

「うそ……明さんも吸血鬼に……?」

 紫陽は口元に手を当て、震える声で呟く。そんな紫陽を横目に見て、輝夜は口を開いた。

「吸血鬼にはしておらぬ。ただ、少しだけ力を与えてやっただけよ。奴の熱気に当てられてな」

 そう言って「くっくっ」と笑う。

「もう一族に戻れなくなっても、私はお前たちと始祖を倒します」

 目にも止まらぬ速さで、明が刀を横なぎに払う。

「くっ……!」

 焔の腹部に赤い線が走った。武士の切腹の様に真一文字に。

 両拳の炎が消え、焔はがっくり膝をつく。しかしそれでも明を睨み付けた。

「力が出せないでしょう。無理に使えば死期を早めるだけですよ」

「さて」と明は雨月に向き直る。

「次は貴方です。手こずらせないで下さいね」

 雨月は黙って眉を寄せた。そこへ明の刀。袈裟形に振り下ろされたそれは空を切る。

「変化の術ですか」

 蝙蝠となって浮かぶ雨月に視線を向け、苦々しく明は呟いた。対して雨月は、羽を動かし紫陽に近付く。が、輝夜がすっと紫陽の前に立ち、進路を塞いだ。

「逃げるのか? 雨月。全てを捨てて」

「……違う」

 輝夜の脇を通り抜け、雨月は紫陽の肩にとまった。

「守るんだ」

 蝙蝠の姿から人へと戻る。それは紫陽を抱き締める形。

「守って紫陽を逃がすのか」

 輝夜は目を細めて微笑む。まるで、成長した子を見つめる母の様である。だが、紅い唇は残酷な言葉を紡ぎ出した。

「しかしお前の命はもう短い」

 ぐっと紫陽を抱き締める腕に力がこもる。

「変化するだけでも辛くなっているのであろう?」

 紫陽は、雨月の顔を見ようと身じろぐ。しかしそうさせまいと、より強く抱き寄せられ、雨月の肩に顔を埋める形になってしまう。

「それでも、今度こそ守りたい」

「残念ですが、それは私が引き継がせていただきます」

 衝撃。雨月が歯を食いしばる音。そして鼻が嗅ぎ取ったのは血の匂い……

「う、雨月。体を離して」

 紫陽の声が震える。

 まさか。まさか……!

「雨月っ!」

 焔の叫びが聞こえた。

「雨月よ……」

 輝夜の静かな声。

 明の激しい息遣い。

 紫陽は、恐る恐る雨月の背中に手を伸ばした。指先にぬるりとした感触。思わずびくりと手を引く。

「すぐ塵になると思いましたが……結構しぶといですね」

 明が再び刀を構える気配がした。

「嫌っ……!」

 紫陽は、力の限り雨月の腕から逃れた。そして目にしたのは、背が赤く染まった雨月のシャツと。刀を上段に構えた明の姿。

 咄嗟に紫陽は、雨月の背を守る様に立った。

「どいて下さい」

 明の冷たい言葉に、紫陽は両手を広げぶんぶんと首を振る。

「紫陽さんも死にたいのですか?」

 ギッと明の目が険しくなり、刀を握る手に力が込められた。

「死にたくない。雨月と生きていきたいだけよ」

 紫陽は怯む事無く、真っ直ぐに明の目を見てそう言った時だった。

「きな臭いな」

 輝夜が、鼻に皺を寄せて口を開いた。

 そう言われれば、確かに鼻につく異臭が漂っている。

「……火の気配だ」

 出血のせいだろう。青白い顔で焔が呟く。

 それとともに、外から「火事だ!」と言う声が上がり始めた。

 紫陽は背後を振り返った。微かに赤く染まった夜空。どうやら一階が火元らしい。煙の量からして、まだそんなに延焼はしていないようだ。

「みんなを逃がさなくちゃ!」

 明の横を通り過ぎ、紫陽は襖に手を掛け、引き開けようとした。

「さようなら、雨月」

 ドスッという音。

 紫陽は振り返った。目を見開く。

「人とは、ここまで非情になれるものか」

 口から一筋の血を零し、輝夜が微笑む。その胸には刀。

「他の人を助けるよりも、己の目的優先とは……吸血鬼よりも化け物ぞ」

 輝夜が明に向かって手をかざす。すると掌から光が迸り、その光に打たれた明の体は後方に跳ね飛ばされた。

 輝夜は自身の胸元から刀を抜き取ると、ガランと放り投げる。

「何を呆けておる。皆を助けるのではないのか?」

 紫陽ははっと我に返り襖を開けた。途端に熱気と黒煙が紫陽を襲う。

「みんなっ! 椿っ!」

 咳込みながらも足を踏み出し、隣の襖を開ける。中には、すやすやと眠っている椿の姿。

「椿、起きてっ! 逃げなくちゃ!」

 揺さぶるが、一向に目を覚ます気配が無い。紫陽は向かいの襖を開けた。その部屋にも眠る遊女。椿と同じく、起きる気配が無い。

「どうして!? ねえ、起きて!」

「無駄だよ。僕の力で眠ってるからね」

「だったら早く起こして!」

 背後に立つ焔に、紫陽は半ば怒鳴るようにそう言う。しかし返答は素っ気なかった。

「無理。それだけの力が、今は無いから」

「そんな……じゃあ……っ!」

 紫陽は遊女の半身を抱き起し、そのまま立ち上がろうとするも、意識の無い人間の重みと着物の重さによろけてしまう。

「放っておけばいいじゃん。ここが燃えると、紫陽ちゃんは自由になるんだよ?」

「みんなを見捨てて得る自由なんていらないわ」

 その時、ごうっという音と共に、階段の方から火が走ってきた。

「きゃあっ!」

 尻もちをつきそうになった紫陽の体が、ふわっと軽くなる。

「雨月……」

 紫陽を抱きかかえた雨月は、静かに紫陽を見下ろしている。紫陽は開きかけた口を閉じた。雨月に助けを求めるなど、出来るはずがない。

「本当に遊女の鑑だな」

「ふっ」と雨月が笑む。

「雨月……駄目よ」

 その笑みの中に、覚悟を感じ取った紫陽は腕を掴む。

「雨月。力を使えばどうなるか、分かってるよね?」

 焔も眉を寄せて問う。その間にも、火は勢力を広げてくる。

「人の血を吸って生きてきた。その罪滅ぼしになるかは分からないが、最期は人を助けたい」

「雨月。私は最初から助けられてきたわ!」

 熱風が吹き付ける。紫陽の肌は、ヒリヒリと痛みを訴え始めている。

「与えられた運命を受け入れて、それを恥じる事無く生きている紫陽は美しい。手助けしたくなるほどに」

「雨月、僕は先に脱出させてもらうよ。二人仲良く心中でもしちゃいな」

 焔はそう言うと、ふらつく足取りで障子に近寄り、半ば倒れ込むように外へと身を躍らせた。外から野次馬の悲鳴が聞こえる。

 雨月の足も、障子に向かって動き出す。

「紫陽には生きていて欲しい。人間として、強く、前を向いて」

 今まで紫陽が見た事が無い、雨月の優しい笑み。

「雨月……好き。私は……っ」

 覚悟を決めた雨月は揺るがない。分かっているが、紫陽は告げる。その頬を一粒の涙が流れた。

 すっと雨月の瞳が紫に変わる。

「効かないんだから。私は雨月の『番』なんだから……」

 しかし、段々と紫陽の瞼は重くなってきた。

「どうして……?」

「輝夜から少しだけ力を貰った。さあ、おやすみ紫陽」

 紫陽の瞼が閉じる寸前、雨月の唇が紫陽のそれと重なった。

「俺も、いつしか紫陽に惹かれていた。一日中共にいられなかったのが残念だ」

 紫陽の視界も意識も、暗闇に包まれた。

「好きだ。来世で会おう」




 驟雨楼の火災は、不思議な事に一人の死者も出す事無く鎮火した。野次馬の話によると、紫色の光が驟雨楼全体を包んだかと思うと、じゅっという音と共に一瞬で火が消えたそうだ。

 紫陽はというと、何も覚えていなかった。二階から落とされたらしい。では、落とした人物は? と問うと、皆知らないと首を振るばかり。ただ男の様な人影が見えたからとだけ。

 鎮火後、中に踏み込んだ人が語るには、奇跡としか言いようがないらしい。建物は燃えているが、人は全くの無傷だったからである。皆、焼け焦げた部屋ですうすうと寝息を立てていたらしい。目が覚めた皆も、紫陽と同じく何も覚えていなかった。ただ二階の一室には大量の血痕と銀の刀、そしてこの驟雨楼に髪結いとして来ている男が倒れていた。男は目覚めると、何も言わずに立ち去ってしまった。左目を酷く気にしながら。

 驟雨楼は建て直しの為、しばしの間休業となった。遊女たちは長屋へ居を移し、ある者は何十年振りかの、またある者は初めての休暇を送っている。

 そんなある日、椿が息せき切って紫陽の長屋に駆け込んできた。

「紫陽! もう聞いた?」

「何?」

 椿は両膝に手を置き、息を整えてから口を開く。

「私たち、自由になるのよ!」

「え?」

 いきなりの事に、紫陽はポカンと間抜けな表情をしてしまう。

「なんでも、びっくりするほどの美女がふらりとやってきて、『これで驟雨楼の遊女全員を買いたい』って金をどんって」

「女の人が? 珍しいわね」

「そうでしょ~? でもどうやら普通の人じゃないらしいわよ。瞳の色が金色だったとか、胸元に凄い傷跡があったとか……」

「ま、私が見たわけじゃないんだけどね~」と、椿は頭を掻く。

「でもいきなりの事でどうしたらいいのか、正直分かんないんだよね。ここを出て行っても、手に職があるわけじゃないし、どうしよう……」

 その時、一人の男が「すいません」とやって来た。見知らぬ顔である。しかし椿の顔はぱっと明るくなった。そして男の名らしきものを呼ぶ。

「どうしたのさ。今は昼で……あ、遊女じゃなくなったし。何の用?」

「迎えに来ました」

 男は頬を染めながらも、椿の目をしっかりと見つめて言う。

「え? でもあんたが金を払ったんじゃないでしょ?」

「ええ……ですが……」

 先程、黒い着物を身に着けた女がやってきて、「好きな女は自由になったから迎えに行け」と言ったそうだ。

「これからは、私と生きていきましょう」

 男がおずおずと差し出した手を、椿はぎゅっと握り返す。

「何も出来ないけど……よろしくっ!」

 椿はにかっと笑んだ。

 ちくんっ

 紫陽の首筋が痛んだ。思わず手をやる。そこには、虫刺されにしては少し大きく、えぐれたような跡が一つ。

「良かったじゃない、椿。幸せにね」

 紫陽は微笑む。

「ありがとう。紫陽、あんたも幸せに」

 椿は紫陽に抱き着きそう言うと、男と手を繋ぎ去って行った。

 その背を見送りながら、そっと指先で首の傷に触れる。この傷を見る度、触れる度、紫陽の胸は何故か切なく締め付けられる。いつついたのか分からない傷なのに……

 紫陽は外に出た。他の遊女たちの長屋も何だか騒々しい。荷物をまとめている者、椿の様に男が迎えに来ている者様々だ。

「あ、紫陽。物売りが来てるって。行かない?」

 一人の元遊女が巾着を手に、声を掛けてきた。特に用もない紫陽は頷く。




 路上に広げられた、珍しい洋小物の数々。

「うわ~! 素敵!」

 元遊女が紫陽を置いて駆け寄っていく。紫陽は苦笑しながら歩を進める。

 ずくんっ!

 首の傷が、今までにないほど痛み出した。熱も持ち始める。

「大丈夫か?」

 ふらついた紫陽の体を男が支えた。

「すみません。大丈夫です……」

 紫陽はゆっくり目を上げた。

 珍しい黒のズボンに、水色の生地に赤や緑の花が描かれた、これまた珍しい派手なシャツ。

 そして吸い込まれそうな瞳の色は……

「雨月……」

 紫がかった黒い瞳を見詰めた紫陽の口から、自然と零れた単語。

「どうして俺の名を?」

「さあ、どうしてか分からないけど……」

 つっと涙が流れた。

 それは悲しみの涙ではなく、不思議と温かく、嬉しいような微笑みたくなるような涙だった。

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雨月物語 かるら @chiaki0811

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