第9話 三つ巴
「紫陽、あんたどうしたの?」
半籬の中に座っている椿が素っ頓狂な声を出した。それもそのはず。走ってきた紫陽は、着物も髪も乱れてしまっている。
「女将がかんかんに怒ってたよ。下手すると仕置き部屋行きかも……って紫陽!?」
「雨月っ!」
椿を無視し、紫陽花は中に走り込むと大声で名を呼んだ。
「お前、今まで何してたんだい!」
女将が眉を吊り上げて怒鳴る。しかし紫陽は「すみません女将」と早口で言うと、二階へと駆け上がった。
「雨月、いる!?」
ばしんと襖を開け放つ。しかし中には誰の姿もない。
「良かった……」
安堵とともに力が抜け、紫陽はその場にへなへなと座り込む。
「紫陽、話を聞かせてもらおうかね」
女将の怒気を含んだ声が上がってくる。紫陽はそれを背中に聞きながら、思い出したように口を開いた。
「髪結いの明さんは来ましたか?」
「いきなり何言ってんだい? もちろん来たよ。それより紫陽……」
「今から来ても上げないで下さい!」
ばっと振り返りそう告げる紫陽の剣幕に、女将は一瞬たじろぐ。が、すぐに眉を寄せ腕を組む。
「何があったんだい。いつも真面目なあんたが……」
「それは……」
紫陽が、どう説明したものかと目を泳がせた時だった。
「女将いる~?」
階下から、焔の間延びした声が響いてきた。それを耳にした紫陽は、女将が振り向くよりも早く横をすり抜け、階段の上に立った。
「焔、雨月はっ!?」
「紫陽ちゃん、酷い恰好だね~」
にこにこと笑む焔のもとへ、紫陽は階段を駆け下りると詰め寄る。
「ねえ、雨月がどこにいるか分かる?」
「知らないよ。もう川路に狩られちゃったんじゃない? まだ来ていないならさ」
紫陽は焔を睨む。しかし焔はそんな紫陽の両手を取ると真剣な顔つきで口を開く。
「もし雨月がいなくなったら、僕のものになって下さい」
「それはまだ無理な話だ」
「雨月っ!」
紫陽は焔の手を振り払うと、雨月に走り寄る。
「雨月、大丈夫だった?」
「……何かあったのか?」
今までの事を説明しようと、紫陽が口を開きかける。しかし焔がそれを遮った。
「こんな大衆の前で話す必要はないでしょ。聞かれたくもないしね」
そう言う焔の目が紅く光ったと思うと、女将を始め下男や椿、驟雨楼の人たちが次々と倒れていく。
「何をしたの!?」
「眠らせただけだよ。ああそうだ。そこのお兄さんたち、この娘たちを部屋まで連れてって」
偶然外を通りかかっていた体格の良い男二人に向かって焔が頼む。すると男たちは虚ろな目になって店の中へと入ってきた。
「これでよし……と。さ、三人で話し合おうじゃないか」
二人を振り返り、焔はにいっと笑む。紫陽はぎゅっと雨月の手を握った。一瞬雨月は目を見開いたが、黙ってそっと握り返した。
「で、明っていう髪結いが俺を?」
雨月はいつものように、障子に背を預けて気だるそうにしている。
「今夜行くって言ってたから……」
「もう雨月は狩られちゃってると思ってたのに」
ちえっと舌打ちし、焔は寝転がると頭の後ろで手を組む。しばらく唇を尖らせていたが、何か思いついたようにがばっと起き上がり雨月を見た。
「そうだ。僕たち二人で返り討ちにしようよ」
「駄目っ!」
「どうして? 紫陽ちゃん。やらなければこっちが狩られるんだ」
焔の笑みを消した瞳に見詰められ、紫陽は言葉に詰まる。確かに焔の言っている事は正しい。しかし雨月はもちろん、明も昔からの馴染みで大切である。
「……俺は別にいい」
雨月がぼそりと呟いた。
「いいのっ!? じゃあ作戦でも……」
「狩られてもいい」
『えっ?』
紫陽と焔、二人の声が重なる。予想外の返答に、ただ雨月を見詰めるしかできない。
「どうせ片牙の俺は死を待つのみだ。狩られるか自然に死ぬかのどっちかしかない。早いか遅いかの違いだ」
そういう雨月は、どこか遠い目をしている。
「雨月……」
紫陽はいざり寄ると、そっと雨月の手に手を重ねる。が、冷たい手はすっと離れていく。
「……何だよそれ」
焔が眉を寄せ、ぽつりと呟いた。
「あ、もしかして、あの商家の奥方の後追いとかやっちゃうつもり?」
努めて明るく声を出しているが、それは微かに震えている。
「ばっかだね~。せっかくの永遠の命を無駄にするなんて。それに……」
焔は目と口をぎゅっと閉じた後、怒気も露わに睨み付けた。
「過去に囚われて今を見ないなんて愚かだよ。紫陽ちゃんに想われているのにそれすらも無視するんだから。ねぇ雨月。なんなら僕が手を下してあげようか?」
ゆらりと焔の右手に炎が宿る。
「紫陽ちゃん、離れないと怪我しちゃうよ」
紫陽はゆっくりと首を横に振る。雨月の悲しみは夢の中で体感した。あれは簡単に忘れることは出来ないだろう。私が救い出せればいいのだが、雨月がそれを望んでいないのならばせめて一緒に……
覚悟を込めて、紫陽は焔の目を見つめた。
「美しい者同士が対峙するというのは見ごたえがあるものよ」
妖艶な声がしたと思ったら、焔の手から炎が消えた。
「久し振りだね、輝夜」
紫陽たちの方を向いたまま、焔が笑みを浮かべる。
室内に一陣の風が吹いたかと思うと、焔と紫陽たちの間に輝夜が立っていた。
「紫陽よ、お主は選んだのだな」
輝夜は紫陽に向かって微笑むと、雨月に視線を向ける。
「過去に囚われた振りで己を誤魔化すのはよせ。今の心に目を向けよ。お主の前には誰がおる」
「邪魔しないでよ輝夜。せっかく雨月を消せるんだから」
「邪魔はせぬよ。ただ三つ巴の方が面白かろうと思ってな」
「僕と雨月と紫陽ちゃん? それとも輝夜直々って事?」
にいっと輝夜の真紅の唇が弧を描いた。
「一輪の花を巡って争う三人が見たくて、こやつを招待したのよ」
チャキリと刀を抜く音。次いで刃が空を切った。
「まさか輝夜と川路の者が手を組んだとはね」
斬撃をかわした焔が、明と輝夜を交互に見ながら皮肉たっぷりに口にする。
「手を組んだのではない。観劇するならば少しでも面白う方が良かろう?」
「明……だっけ? あんたは宿敵の吸血鬼に手助けされてどうなの?」
左目に包帯を巻いた明は、焔の好奇の視線を受け流すと再び刀を構える。鋭い輝きを放つ、銀の刀であった。
「吸血鬼どもを滅ぼせるなら、なんだって利用します」
ギッと眉根を寄せ、明は全身から殺気を放つ。もはや完全に紫陽の知らない明である。紫陽は泣きそうな顔で明を見つめた。
しかし明は、そんな紫陽には目もくれずに吸血鬼だけを見ている。
「おいで紫陽。皆お主を賭けて争う。商品であるお主は我と共に高みの見物といこうぞ」
輝夜がそう言うと、紫陽の足が勝手に動き出した。
「え? どうして……?」
「『番い』だろうと何だろうと、我には関係無い」
すすっと輝夜の隣へと紫陽は立つ。輝夜は微笑むと紫陽の肩に手を置き、障子の方へと誘った。
「雨月。さあ前へ出て戦え」
輝夜の白い指が部屋の中央を指さす。雨月は逆らうかと思われたが、目を伏せるとすっと立ち上がり、一歩足を進めた。
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