第8話 夢と金色の月

 そこに立つ明は、いつも夕刻前に来てくれる明ではなかった。柔らかい笑みの代わりに鋭い視線。落ち着いた雰囲気ではなく、刺々しささえ感じさせる冷たさを醸し出している。

「ふーん……そっかぁ」

 舌で、血の付いた唇を舐め、焔は明を頭の先から足元まで見まわす。

「あんたがこれの贈り主だね」

「そうです。まさかこんなに早く再会出来るとは思っていませんでした」

 じゃりっと明が足を踏み出す。

「駄目……この人は……」

 炎を操れるのだ。近付いたら……と言いたいのだが、上手く言葉に出来ない。

「大丈夫ですよ」

 明は笑顔を向けると、紫陽の肩に優しく手を置く。

「吸血鬼を滅ぼすのが、私の仕事ですから」

「そっかそっかぁ~。だから知ってるんだ? 銀の事」

「代々受け継いできました。平安時代から」

「あーあ、僕にも雨月みたいな変化能力があればなぁ」

 焔は残念そうにそうぼやくと、のろのろと立ち上がった。

「僕の事、見逃してよ。そして記憶から消し去って」

 瞳が紅く光る。

 しかし明は、手で自身の目を隠すと一気に距離を詰める。そして懐から小刀を取り出し斬りつける。

 焔は舌打ちするとひらりと身を翻すが、からんと簪が手から落ちた。

「なかなかやるねぇ」

 斬られた肌をぺろりと舐める。すると傷はあっという間に消えてしまった。

「銀の刀を持ってこなかったのが残念です」

 簪を拾い上げながら、明が悔しそうに口にする。

「じゃあ、良い事を教えてあげるよ」

 焔の口が三日月に歪む。それを見て、紫陽は咄嗟に声を出した。

「駄目っ!」

 明と焔の視線が向けられる。

「……何か知っているんですか? 紫陽さん」

「知ってるよ。紫陽ちゃんは重要な事を」

 紫陽は体を動かそうとする。が、未だ体力が戻っていないのか、力が入らない。口を動かすだけで精一杯だ。

「焔、やめて……」

 しかし焔は笑んだまま明に告げる。

「紫陽ちゃんのところに、雨月っていう片牙が出入りしてるよ。しかも居続けで」

 明が目を見開くのを感じた。それに対して、紫陽はぎゅっと目を閉じる。

「だから先にそっちを狩った方が早いと思うよ? 銀じゃなくても簡単だからね」

 そう言い終わると同時に、茶屋の卓が一斉に燃え上がった。

「危ないっ!」

 明が間一髪で紫陽を抱き上げる。

「じゃーねー。雨月の次に僕を狩りに来なよ」

「待ってるからさ」と言い残し、焔は茶屋を出て行った。その姿が見えなくなると同時に火も消える。

 紫陽は明の腕の中で、焦げた臭いを感じていた。




「これを飲んで下さい。貧血が早く治ります」

 湯気が立つ湯呑が目の前に置かれる。

 紫陽は両手を添えて一口飲んだ。鉄じみた味が口内に広がる。

 あの後、明の長屋へと抱えられてきた。思っていたより吸血されていたらしく、紫陽はまともに立つ事も出来なかったのである。しばし横になった後、起き上がれるようになったので、薬湯が出された。

「……話をお聞きしてもよろしいですか?」

 湯呑が卓に置かれるのを待って、明が口を開いた。紫陽は顔を上げられず、ぎゅっと湯呑を握る手に力を込める。

「紫陽さん……。今は髪結いをしていますが、今までは様々な場所を転々としていました。

 紫陽が口を開かないのを見て取ると、明は自らの事について語り出した。

「平安時代、大江山の鬼を退治するために、安倍一族とともに吸血鬼研究を始めた川路一族。それが私の先祖です。何の手がかりも無い所からの研究だったので、両家とも多大な犠牲を出しましたが……」

 明はごとりと小刀を卓に置く。黒塗りの柄と鞘を持つ簡素な小刀。しかし音からして、そこそこの重量を持っているようだ。

「代々受け継がれてきた銀の小刀です」

 そう言いながら、すらりと鞘から抜き放つ。差し込む日光を反射して、銀の刀身がきらりと光った。

「……どうしてここに?」

 紫陽はのろのろと口を開いた。

「遊女が干からびた死体となって発見されていると聞いて。まだ襲われていない場所にいれば会えるかと。思惑通り、焔という吸血鬼に出会えたわけですが……」

 明の視線が刺さる。

「その首の傷、片牙の雨月という吸血鬼に噛まれた跡なんですね?」

 紫陽は無言で頷いた。こうなれば隠していても仕方がない。

「片牙とは珍しい……」

 そっと明の指が首筋に触れた。紫陽の体がびくっと反応する。

「片牙なら放っておいてもじきに弱っていくのですが……」

「なら……っ」

 勢いよく顔を上げた紫陽を眩暈が襲う。

「まだ本調子ではないんです。大人しくしていて下さい」

 優しく気遣われるが、紫陽は一度強く目を閉じ、再び明を見つめ口を開く。

「なら明さんが手に掛けなくてもいいでしょう?」

「片牙になってもある程度の力は使えます。人に害をなす力が。違いますか?」

「助けてもらったわ!」

 我知らず声が大きくなる。確かに雨月は力を使える。しかし人に害をなす力かと言えばそうではないと紫陽は思う。

 雨月は蝙蝠に変化する。紫の瞳で人を魅了する。焔の炎を消せる。しかしどの力も紫陽を助けてくれた。

 紫陽はその事を明に述べる。明は黙って耳を傾けていたが、紫陽が話し終えると静かに口を開く。

「今はそうだとしても昔は? 片牙になる前はどうでしょう。私たちよりも遙かに長い時を生きている彼は、一度も人を殺さなかったと言えるでしょうか」

「それは……」

 焔は言っていた。一人吸えば二か月はもつと……

「人間は牛や豚などの家畜を食べて命を繋ぎます。吸血鬼は人間の血を吸って生きながらえるのです」

「雨月の昔は知らない。今は吸えないわ」

「では、その首の噛み跡はどう説明するのですか?」

「焔の炎から守ってくれたの。それで力を使い過ぎて……」

「襲われた……と?」

 そう言われてしまうと、紫陽は何も言えなかった。他に言いようがない。

「紫陽さん、貴女が遊女の仕事を全うしているように、私も自分の仕事をこなします」

 真っ直ぐに見つめられ、紫陽はぎゅっと唇を引き結んだ。

「送っていきます……と言いたいところですが、『居続け』として買われたのなら帰す訳にはいきません」

「……どうするのです?」

「貴女の代わりに私が行きましょう。貴女はここにいて下さい」

「今、明さんが言ったではないですか。私は遊女の仕事を全うしていると。だから今夜も雨月を招き入れます」

 紫陽は明から目を逸らすことなく、はっきりと告げた。

「そうおっしゃるだろうと思っていました」

 明が苦笑する。その姿が奇妙に歪んだ。

「明さん……? 何を……」

 瞼が落ちてくる。

「薬湯の中に眠り薬を少々。目が覚めたら次の朝ですよ」

「では、おやすみなさい」という明の言葉は、紫陽の耳には入ってこなかった。




 夢を見た。


 狩衣を着て、腰に刀を下げた二人の男。一人は焔だ。満面の笑みでもう一人に話しかけている。その人は、焔に負けないぐらいの笑顔で笑っていた。

 まだ何も変わらなかった頃。平穏な日々。



 ざざっと場面が切り替わる。

 今度は木々に囲まれた暗い場所に横たわっていた。うっそうと茂っている枝葉の隙間から、赤く濁った満月が覗いている。横たわる人物は、虚ろな瞳で月を見つめるだけである。

 その口元には、微かに血を拭ったような跡が残っていた。



 また場面が変わる。

 馬のいななきが聞こえた。そして蹄の音。

 彼は一人の侍の傍らに腰を落としていた。いや、侍ではない。甲冑を身に着けた女である。

「……そこまでして、好いた男のために生きて幸せか?」

 彼が静かに口を開く。それを聞いた女は、微かに口元に笑みを浮かべる。

「好きな男とともに、戦場を駆け抜けて、背を預けて……普通の女なら得られない幸せを得られたわ」

「ならせめて苦しまないように……」

 彼の瞳が紫色に変わる。それを見た女は、一度びくんと大きく体を震わせると、ゆっくり瞼を閉じた。

「……幸せなまま息を引き取れて羨ましいよ」

 彼は眉を寄せ、ぽつりと口にした。




 ざざっ。

 今度は暗闇しか見えない。暗闇の中に血の臭い。

 鼓動が早鐘を打っている。自然と呼吸が荒くなる。

 紫陽は彼と一体になっていた。彼の目線で周囲を見ている。目につく襖を手あたり次第に開けていくが、探している人はいない。ただ使用人や女中が転がっている。

 彼は駆け寄るが、ぴたりと足を止める。そしてぎゅっと拳を握ると、強く目を閉じる。音がしそうなほど歯が噛み締められた。

 しかしすぐに目を開け、くるりと背を向けて次の部屋を目指す。

 そしてついに一番濃い血の臭いの部屋。彼は躊躇なく引き開けた。

 息を飲む。

 血だまりの中に横たわる女。刀傷からはまだ血が流れている。

 だっ、と彼は駆け寄ると、汚れる事も気にせずに抱き寄せた。

「……!」

 彼が女のものらしき名を叫ぶ。強く体を揺さぶるが、ただ垂れたままの手が揺れるだけだ。息をしていないのが明らかに分かる。

 しかし彼は納得していない。したくもない。

 そうして彼は首筋に顔を埋め口を開いた。女を生き返らせたいがために……




「何を泣いておる?」

 ふいに紫陽は現実に戻された。

 目の前には黄金色に輝く満月が二つ。

 まだ覚醒していない頭のまま見ていると、ふいに三日月に変わった。

「悲しい夢でも見ておったのか? 美しい顔が台無しだ」

 やっと紫陽は気が付いた。満月かと思ったのは瞳だった。

 金色の瞳に漆黒の髪。肌は抜けるように白い。対して弧を描く唇は真紅。

「大江山の鬼……」

 雨月が話してくれた人物。雨月と焔を吸血鬼に変えた女性。

「おや、昔の名を知っててくれるなんて嬉しいねぇ」

「でも今は本名で呼んで欲しいねぇ」と妖艶に笑む。

「我は輝夜。お主は?」

「紫陽……」

 自然と口が動き名を答える。抗い難い美しさ。紫陽は輝夜の雰囲気に飲まれていた。

「紫陽か。名も美しいな」

 輝夜は手を伸ばすと紫陽の顎を持ち上げる。雨月よりも冷たい指。

「片牙に噛まれたか……ふむ」

 しげしげと首筋を眺めた後、輝夜はすっと手を放した。

「雨月か……」

 声に、少しだけ哀愁が混じったように紫陽は感じた。

「分かるのですか?」

「我が変化させたからな。それぐらいは分かる。手首は焔だろ?」

 紫陽は頷く。すると輝夜はくすりと笑んだ。

「相変わらず焔は負けず嫌いだな。雨月が気に入ったものを奪いたいのか」

「焔は嫌いです」

 きっぱりと紫陽が告げると、鈴が転がるような笑い声が上がった。

「では、雨月の事は好きか?」

「……」

 紫陽は俯き黙り込む。

「遊女だろうと吸血鬼だろうと、恋する気持ちは自由だ。身分に囚われていては、どうすることも出来ぬ」

 輝夜は遠い目をしてそう言った。まるで、今ここにいない誰かに向かって言っているように。

「さあ、駆けろ紫陽。雨月の元へ。お主の戦場へ」

 金の瞳が真っ直ぐ紫陽を見つめる。紫陽は駆け出した。外はもう薄暗くなっている。まだ雨月が来ていなければいいが……

「『番い』……か。帝よ、早くお主を見つけねばな」

 小さくなっていく紫陽の背を見つめながら、輝夜はしみじみと呟いた。


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