伝える 〜南山・表山・団子山・大福山・難台山・吾国山・加賀田山・館岸山・愛宕山〜
早里 懐
第1話
「相手に対して直して欲しいところがあれば諦めずに根気強く伝えることが大事である」
以前、私はこんなネット記事を読んだことがある。
とある一般的な家庭の話だ。
ある夫婦は子供達がなかなかお風呂に入らないため、毎日のように早くお風呂に入るように声を掛けていた。
それでも子供たちはテレビやゲームに夢中になり、なかなかお風呂に入ろうとしない。
夫婦で話し合いを行ったところ、自分達が口うるさく風呂に入れと言っていることが逆効果になっているのではないかという結論に至った。
それは、勉強しろと言われると逆にしたくなくなる理論と一緒であると考えたのだ。
よって、翌日からは早くお風呂に入って欲しい気持ちを抑えて、あえて何も言わずに様子を見ることにしたそうだ。
その結果がどうなったのかというと…。
更に入るのが遅くなった。
とのことだ…。
まさに衝撃的な結末であった。
私はこのネット記事を読んで、なぜこのような神も仏もない世の無情を表すような内容の記事をネットにアップしたのか不思議であった。
しかし、このネット記事を私なりに解釈した結果「相手に対して直して欲しいところがあれば諦めずに根気強く伝えることが大事である」との考えに行き着いたのだ。
実は、なにを隠そう私も妻に直してもらいたいところがある。
妻とは長年連れ添っているとはいえ、こういったことはどんな仲であれ、なかなか言いにくいものだ。
しかし、そうも言ってはいられない。
この山行が終わって一回り成長した暁にはしっかりと勇気を持って妻に伝えようと思っている。
これは子供達が我が家を巣立つまで関わってくる問題だ。
このままではあまりにも不憫だ。
真摯に落ち着いて話をすればきっとわかってもらえるはずだ…。
今日も一人での山行だ。
妻に対してどのように伝えるべきか考えるため長い縦走路を歩く必要があった。
よって、笠間アルプスを歩くことにした。
笠間アルプスとは茨城県のJR岩間駅と福原駅を結ぶように連なる山々の総称である。
私はあたご天狗の森駐車場に車を停めて笠間アルプスの縦走をスタートした。
前情報によるとアップダウンが激しいコースとのことで覚悟して臨んだ。
まず目指すのは南山だ。
始めはなだらかな樹林帯歩きだ。
アップダウンがいつ襲ってくるのか分からず恐る恐る歩いていると、それはすぐにやってきた。
南山の取り付きから頂上まで距離は短いながらも急登だ。
まだまだ笠間アルプスの序盤であるが、太ももに乳酸が溜まっていく。
南山の頂上からは少し寄り道して、表山に向かった。
それにしてもこの山域は猪の巣窟であるかの如く、コース上の至る所に掘り返した後がある。
猪との予期せぬ出会いは避けたい。
鈴を鳴らしながら五感を研ぎ澄ませて歩いた。
表山は三角点や頂上の標識が無い。
更には眺望も無いためすぐに来た道を引き返した。
次に目指すのは団子山だ。
アップダウンは更に激しくなってきた。
眺望があれば頑張れるのだが、右も左も樹木が密集しているためただの修行だ。
私は脇目も振れずに一心不乱にアップダウンを繰り返した。
しばらくすると団子山の頂上に着いたが団子山も残念ながら眺望が無い。
素通りだ。
そのまま大福山に向かった。
大福山も…。
眺望が無い。
よって、素通りだ。
団子や大福など甘い字面に惑わされていたが、この甘味山達は急登続きで眺望がない。
相当ビターな山だ。
その後は笠間アルプス最高峰の難台山に足を進めた。
この時点で私は足腰の疲れから現実逃避をしたかったが、笠間アルプスのアップダウンがついに本気を出してきた。
今日は歩き始めてから偽ピークを何回見ただろうか、その度に心が折られそうになった。
しかし、私は普段から牛乳をたくさん飲んでカルシウムを多く摂取している。
よって、なんとか心を折られずに済んだ。
途中で獅子ヶ鼻、天狗の奥庭、屏風岩などを鑑賞して気を紛らわせながら歩いたことでなんとか難台山まで辿り着いた。
難台山は少しばかり眺望があった。
私は筑波山を眺めながら軽食を済ませた。
暫く休憩した後に吾国山に向かった。
ここからは下り坂だ。
下りといってもとても急であるため、太ももに相当な負荷が掛かった。
急坂を足元に注意しながらゆっくりと下り道祖神峠に辿り着いた。
ここから吾国山にアタックする。
始めは緩やかなハイキングコースであるため油断したが、直ぐに急登が現れた。
ここまでくると相当な汗をかいた。
私の髪の毛の先っちょはすでにクルンクルンだ。
少し余談であるが、前回のエッセイに記した通り、二ッ箭山に登った後は先っちょの「っちょ」の存在理由に悩まされて睡眠時間を削られたが、筑波山で妻から発せられた先っちょという言葉の「っちょ」も端っこの「っこ」同様、方言であることがわかり、やっと十分な睡眠が取れるようになった。
余談は以上だ。
この時点で急登慣れした私は対処法としてジグザグ歩きを編み出していたため、なんとか頂上に到達することができた。
吾国山の頂上は眺望が良く、少し休憩してパワーを回復させた。
次に目指すは加賀田山だ。
加賀田山に向かう道も眺望はない。
いわゆる里山である。
ここまで来れば急登もないと勝手に思っていたが、加賀田山の山頂手前にラスボスが待ち構えていた。
下から見上げると壁だ。
ここでもジグザグ歩きを繰り出しなんとか急登を登りきり、加賀田山の山頂に着いた。
ここから館岸山までは下りだ。
急登地獄から解放された私の足取りはとても軽かった。
下山後は3kmほどのロード歩きになる。
最後の愛宕山の登りに備えて体力を温存するため、若干ペースを落として歩いた。
愛宕山の取り付きについた。
本日最後の登りだ。
私にはジグザグ歩きがある。
きっと乗り切れるはずだ。
ジグザグ歩きを駆使しながらしばらく登ると私は愕然とした。
愛宕山のラストは石段だった。
ジグザグ歩きができない…。
すでに両脚が使い物にならない私は手摺に全体重を預けながら登った。
愛宕神社に参拝し、下りの石段に癒されながら、あたご天狗の森駐車場に戻ってきた。
今日の山行も長かった。
私は満身創痍で帰宅した。
「ただいま」
玄関を開けると、頬にソファのシワの跡をくっきりとつけた状態の妻が出迎えてくれた。
私は妻が瞑想を終えたばかりだと察した。
…ということは、妻の意識は朦朧としている。
伝えるべきは今だ!
私の心の臓は今にも張り裂けんばかりの鼓動をかき鳴らした。
落ち着くんだ。
長い山行で考えたではないか。
まわりくどさは必要ない。
ストレートに伝えるんだ。
私は勇気を振り絞って声に出した。
「子供たちのお菓子を勝手に食べないでと根気強く言わないで欲しい…」
…言えた。
勇気を出して妻に直して欲しいところを伝えることができた。
私は恐る恐る妻の表情を確認した。
妻は考えている。
私の思いが伝わったのかもしれない。
今度から子供たちのお菓子を食べても怒られないかもしれない。
しかし、次の瞬間空気がピリついた。
私は普通に怒られた。
私の嘆願は木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。
神も仏もない無情の世の中だ。
私は自分で食べるお菓子は自分のお小遣いで買うことを心に決めた。
また、今度は折を見てそんなに怒らないでほしいと根気強く伝えようと思った。
伝える 〜南山・表山・団子山・大福山・難台山・吾国山・加賀田山・館岸山・愛宕山〜 早里 懐 @hayasato
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
綿毛の行方 〜日向山〜/早里 懐
★3 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます