後編

 撮影スタジオから外へ出た市川いちかわの目に飛び込んできたのは、カメラ、あるいはマイクを持った人の群れだった。


「市川監督、一言お願いします!」

「奥様のひとみさんと別居されたというのは本当ですか?」

「瞳さんはかつて市川監督から『主役に指名する代わりに、肉体関係を強要され、そして結婚せざるをえなかった』と先日の週刊誌で語られていました。これは事実でしょうか?」


 市川は記者たちの言葉に返事をすることなく、人波をかき分け、マネージャーの木部きべが運転する車に乗り込んだ。その間、記者たちの声も、フラッシュの光もやむことはなかった。


「監督、お疲れ様でした」

 木部が市川をねぎらう。


「ああ、まったくだ」

 市川は疲れた声で言ったが、その口元にわずかな笑みが浮かんでいることを木部は見逃さなかった。


「監督、何かいいことでもありましたか?」

 気になって思わず尋ねた。記者の言った通り、先日から市川と瞳は別居している。そして、先週には瞳が週刊誌に市川のスキャンダルを話した。


 昔から市川を知っている木部からすると、瞳の話は嘘八百だったが、世間がそう信じてくれるかどうかは微妙なところだ。何と言ったって瞳は天才女優なのだ。市川に脅された演技も、不本意な結婚生活を送ってきた不幸な女性という演技も、彼女にはお手の物だろう。


 長年連れ添った妻からこのような仕打ちを受けたにも関わらず、なぜ市川は笑っていられるのだろうか。


「いや、やはり瞳は素晴らしい女優だと思ってな」

 市川はそう言ってライターを手に取ると、タバコを口にくわえ火をつけた。そして幸せそうな表情でタバコを吸い始めた。


「それはどういう意味でしょうか?」

「あれは役作りさ」

「役作り?」


 戸惑う木部に対し、市川はニヤッとした笑みを浮かべる。

「今度の俺の書いた脚本は、瞳を徹底的に悪女に仕立てた。一見清楚だが、自分の欲のためなら、男を騙し裏切る魔女。そういう役回りだ。その役作りの結果、俺は瞳に裏切られた形になったわけだ」


「しかし、こんな大騒ぎになってしまっては……。それに週刊誌にあんな記事を書かせるなんて。このままじゃ監督の名誉にも傷がつきますよ」

「それがどうした?」


 木部はバックミラー越しに市川の顔を見た。何かに魅せられたように、目がらんらんと輝いている。

「俺の名誉なんてどうでもいい。最高の傑作を作るためには、あれくらい役になりきってもらわないと。俺も瞳も映画の奴隷なんだよ。ただどれだけこの身を捧げても、映画は必ずしも微笑んでくれるわけじゃないけどな」


 自嘲気味に市川は話すと、タバコを携帯用灰皿に押し込み目をつぶった。きっと彼の頭の中は、魔女となった瞳をどう撮影するか、そのことしか考えていないのだろう。


 木部はハンドルを握る手に思わず力を込めた。手にじっとりと嫌な汗をかいている。市川の狂気的な目が思い出され、思わず身を震わせた。

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映画の奴隷たち(ショートショート) くりごと さと @kurigotokatagi

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