映画の奴隷たち(ショートショート)

くりごと さと

前編

 カタン、と音が聞こえて、市川亮いちかわりょうは目を覚ました。目の前には真っ暗になったパソコンの画面。音がした方には湯気の立つ白いマグカップが置かれている。コーヒーの香りが市川の鼻をくすぐった。


「お仕事の方は順調ですか?」


 妻であるひとみの声がした。年齢は50代半ばだが、肌は若々しく張りがありずいぶん若く見える。首元や手のしわに気づかなければ、きっとだれもが20歳は、彼女の年齢を若く見積もるだろう。


 そんな瞳が顔を上げた市川に対し、愛おしいものを見るように、優しい視線を向けている。


「いや、ちょっと迷ってるところだ」


 返事をしながら市川はコーヒーをすすった。熱すぎず、かといってぬるいわけでもない。理想的な温度だった。瞳が入れてくれるコーヒーはいつだって完璧だ。


「いつも、ありがとう。本当に感謝してるよ」


「え? どうしたの急に? あなた、もしかしてもうすぐ死ぬの?」


 瞳は冗談めかした口調で言った。


「まさか。少なくともこの映画を撮り終わるまでは死ねないな。なんてったって、30年ぶりの俺と君との共作なんだから」


「そうですよね。楽しみにしてます」


 瞳が書斎から出て行き、市川はまたパソコンの画面に向き直った。


 市川は自ら脚本、演出もこなす世界的な映画監督だ。30年前にはアカデミー賞の海外作品部門にノミネートされた。その作品に主演したのが、当時は女優だった瞳だった。


 作中では、権力者に媚びず、一方で弱い者にはどこまでも優しく接し、夫への献身的な愛を貫く看護師を演じた。その瞳の演技は素晴らしかったが、実際の性格も申し分なかった。まるで役柄そのままに瞳は若いスタッフにも分け隔てなく接し、ピリピリしがちな撮影現場の雰囲気を和らげてくれた。


 さらに役になりきるため、瞳は看護師の国家試験のテキストを自腹で買って読み込み、カメラに映らない部分をわざと火傷し、病院に行って実際の看護師の立ち居振る舞いを観察することまでやってのけた。


 瞳の役作りへのこだわりは時に常軌を逸しているようにも思えたが、どこまでも真剣な表情に市川は自分の立場を忘れ、惹かれてしまったのだ。


 撮影が終わったとき市川は瞳に交際を申し込んだ。そして晴れて結婚し、子宝にも恵まれた。しかし市川にとって意外だったのが、瞳が子育てを理由に、女優業を引退すると宣言したことだ。


 市川は「君みたいな天才女優が、もう演技をしないなんてもったいない。俺も家事や子育てを分担するから、仕事を続けてほしい」と何度も説得を試みたのだが、瞳は折れなかった。


「私は亮さんを支えたいんです。自分の演技も名声もどうでもいいんです」


 映画の役柄そのままの献身的な言葉に、市川はあきらめざるを得なかった。


 あれから長い時間が経ち、子どもたちも立派に成長し一人立ちした。今ならきっと瞳も女優業を再開してくれるに違いない。市川は渋る瞳をなんとか説き伏せ、30年ぶりに瞳を主役にした映画を撮影するために、脚本を書いている途中だった。


 そして市川はある野心的な試みを抱いていた。世間、特に瞳の現役時代を知る世代は、瞳に対し清純派のイメージを抱いている。そのイメージを利用してやろうと。

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