灯火

フィッシュ

第1話

Ⅰ.

 窓を通して微かに聞こえてくる車の走行音が、妙に心地良い午前11時。パソコンのキーボードを打つ手は止まることを知らず、カタカタと小気味良い音を奏でる。大学進学を機に上京してから三週間、徐々にこの生活にも慣れてきた。

 最初は自分が一人暮らしなんて絶対に無理だと思っていた。自由という言葉は好きだし魅力的だと思うけれど、ご飯も掃除も洗濯も全部自分でやらないといけないだなんて。しかも、慣れない大学生活でどれだけ疲れていても、という条件付き。

 それでも、てっきりスーパーで買った出来合いの物ばかりになると思っていた食卓には手作りの料理が並んでいることが多いし、掃除や洗濯だって今のところは溜め込まずに済んでいる。一人暮らしって意外と楽勝? なんて考えていたらすぐに牙を剥くのが奴らだから、あまり調子に乗らないでおくのが吉だろう。


「くぅ……んん~っ」


 キーボードから指を離して一息入れようと伸びをすると、凝り固まった筋肉がほぐれていくのを感じる。大量に出された課題も一段落したので、おやつタイムと洒落込もうではないか。今日の、というかいつも通り飲み物はブラックコーヒーで。子ども舌な私だけど、何故かコーヒーはブラックしか飲めないという変わった味覚。

 コーヒーのお供は、確か戸棚にあったはずの甘いチョコクッキー。疲労が溜まった重い腰を上げ、キッチンに向かう。ご飯の時間も近いけれど、軽くお腹に入れるくらいならいいでしょう。幼少期の実家と違って、食事の前におやつを食べても怒る人は誰も居ないのだから。


 ピンポーン。


 コーヒーを淹れるために棚からサイフォンを取り出すと同時にインターホンが鳴った。勉強漬け大学生の憩いの時間を邪魔しおって、とか平日のこんな時間に一体誰が何の用? とか色々思うことはあるけれど、待たせても申し訳ないのでサイフォンを流し台の上に置いて玄関に向かう。

 そこで「女の一人暮らしはなにかと物騒なんだから来客が誰なのかは確認するんだよ」と、実家に居る母の言葉を思い出す。はいはい、ちゃんと確認しますよっと。

 踵を返して来た道を戻り、モニターで扉の外に居るであろう人物を確認する。そこには、大人びた雰囲気を醸し出している美人さんが立っていた。

 とりあえず悪い人では無さそうなので慌てて玄関の扉を開く。


「あっ……こんにちは」

「こんにちは」


 落ち着いた雰囲気とは裏腹に、どこか緊張した面持ちの美人さん。肌が真っ白で、何処かにぶつけたらすぐに折れてしまいそうなほどに華奢な体躯。髪の毛の一部が色落ちしていて、以前はブリーチして色を入れていたんだろうなというのが窺える。


「えと、隣に引っ越してきた薮内です。これ、良かったら召し上がってください」

「わざわざご丁寧にありがとうございます」


 いや本当にそうよ。一昔前ならまだしも、今の物騒な世の中でお隣さんに挨拶するとは。しかも女性の一人暮らしでしょ? 挨拶しない派の方が多数な気がするけど……礼儀正しい人なんだなぁ。

 あと、何故だろう。この人とは仲良くなりたいなって思ったんだ。自分のことだけど、この感情に行き着いた理由は分からなくて。これが私とお隣さんの、不思議に満ちた出逢いだった──。


II.

 薮内さんとの出逢いから一ヶ月。お隣さんで挨拶を交わしたとはいえあれっきりだろうなと予想していたけれど、意外にも関係は続いて。関係と言っても、通学や帰宅時にばったり遭遇したら挨拶をするだけの簡単なもの。

 それでも、上京したばかりで友達もあまりできなくて、周囲に頼れる大人なんて居ない私にとっては大変喜ばしいことで。

 顔を合わせたら挨拶を交わす関係になってから分かったこと。薮内さんは一見すると真面目なお姉さんのような雰囲気の人だけど、実は結構やんちゃっぽい人だということ。休日は真っ赤なネイルを塗っているし、色落ちした箇所についてそれとなく聞いてみたら以前はイヤリングカラーとして赤色を入れていとのこと。

 私が勝手に思い描いていた人物像とはかけ離れていて、かなり意外に思ったのは記憶に新しい。

 失望なんかはしていない。勝手に想像して勝手に失望するのは失礼だし、そういうギャップ的なものがある方が魅力的に映るというもの。


「く、熊谷さん……」

「はい?」


 噂をすればなんとやら。お隣さん改め薮内さんに声を掛けられたのだけど、様子が何やらおかしい。何かに怯えているように震えていて、腰が引けている。


「何かあったんですか!?」


 この怯え様からして何かあったに違いないけれど、一応聞いておく。女性の一人暮らしだし、薮内さんって美人さんだから狙われてもおかしくないから……まさか不審者?

 流石に私も物理で応戦するとなるとそこまで頼りにならないとは思うけど、念のため臨戦体制を取る。拳を固く握り締めて、ジャブを数回繰り返す。


「人じゃなくて、その……虫が」

「虫?」

「う、うん……熊谷さんって虫平気な人だったりしない?」

「むっしーですか? 好きですよ」

「本当!?」


 助けて欲しいんです、と強く握った拳を透明感のある真っ白な両手で優しく包み込まれる。いきなり両手を包み込まれたことに対する驚きだとか、ほんのりと温かい体温だとか、細長い指の感触だとか。色々ドキッとしてしまう要素はあったけれど、そんな場合ではない。

 曰く、部屋に虫が出たけど薮内さんは虫が苦手なので部屋の外に逃げ出してきたらしく。私がそろそろ帰ってくる時間だということを思い出して、藁にもすがる思いで私の帰宅を待っていたんだそう。


「じゃあ……お邪魔して、いいんですよね?」

「うん、お願い!」


 一刻も早くあの憎き虫を摘み出してほしい、みたいな顔をしていたのでドアノブを掴んでガチャリと音がするまで上げる。

 ドアノブを引いて扉を開いた途端、おおよそ自分の家からはしないであろう甘い匂いが香ってきた。香水とか柔軟剤の匂いなのかな、良い匂いだ。

 あまりジロジロと人の部屋を見るもんじゃないと理解しているものの、部屋をくまなく探さないと虫も見つからない訳で。自分の部屋には一生飾られることがないであろうお洒落なインテリアだとか、化粧品の山を眺めていると。


「わお」


 目の前にその子は現れた。緑の体色に、黄緑と透明のコントラストが綺麗な羽を持っているこの子は……カゲロウですね。

 空気がゆらゆらと揺らめいて見えることを陽炎と呼ぶ。飛んでる姿が陽炎のように見えたからカゲロウと呼ばれるようになったとか、儚いものの例えにされる陽炎が儚い命を持つこの虫の名に転用されたとか。

 真相のところは知らないけれど、どちらにせよこの虫には儚いイメージが付き纏っている。それもそのはず。カゲロウというのは成虫になったら口が退化して餌を食べられず、たったの数時間で命を落としてしまう生き物なのだから。


「ごめんよー、薮内さんの平穏のために野生にお帰り」


 右手で羽の部分を摘んで持ち上げ、左手で窓の鍵を開ける。ベランダに出て気持ちの良い夜風を浴びながら、手すりの部分にそっと乗せてあげる。

 薮内さん的には投げ捨ててほしかったかもしれないけど、数時間で亡くなってしまう命にそんな乱暴なことをしたくなかった。一応私の部屋寄りに置いといたので、また入ってきたとしても今度は私の部屋に来るはず。


「終わりましたよ」

「ありがとう、本当に助かったよ……!」

「お役に立てて光栄です、では私はこれで──」

「あ、ちょっと待って」


 カゲロウを触った手で何処にも触れないように気を付けながら立ち去ろうとすると、薮内さんに呼び止められた。


◇◇◇


「寛いでいいからね」

「あ、はい……」


 ……どうして私は薮内さんのお宅でお茶をご馳走になっているのだろうか。いや、理由は分かっている。虫の恐怖から薮内さんを救い出したからだ。ただそれだけなのにお茶までご馳走になってしまっていいのかな、と思っているだけだ。

 女の子、というより大人の女性らしい部屋。オシャレに疎い私でも名前を知っているような有名ブランドの化粧品やバッグ、棚の上にはフレグランススティックなんかも置かれていて、自分がここに居るのは場違いなんじゃないかとすら思えてくる。


「改めて、ありがとう」

「そんな……虫を逃しただけですよ」

「私にとっては〝だけ〟じゃないの」


 なんか、照れ臭い。自分のしたことでお礼を言われるって、やっぱり良い気分になる。


「大学では虫の勉強してたりするの?」

「いえ、大学では舞台関係の勉強をしてます」

「へぇ……かっこいい」


 ただ単に昔から演じることも観ることも好きだったから大学でも勉強したいなって思っただけで、別段かっこよくはない気がする。けど、悪い気はしない。寧ろ嬉しい。


「ということは、虫は単純に好きなだけ?」

「そうですね、昔から」

「そっかー……若菜ちゃんって頼りになるんだね」

「…………え」


 自慢ではないが、私は周りに頼られることが多い。人からは根が真面目だから実は頼りになる、とか基本的にどんな事でも出来るから頼り甲斐がある、とか言われることが多くて。

 その言葉と期待に応えることに疲れて地元である埼玉を離れて一人で上京してきたんだけど……なんでだろう。薮内さんから言われると、すんなりと受け入れられる。


「……あれ? 名前言いましたっけ」

「この前お友達と一緒にいたでしょ? その時に聞こえちゃった」

「ああ、なるほど」


 あの二人はお友達というかなんというか……いや、そういうことにしておこう。一緒に帰るくらい仲が良いのは事実なんだし。


「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした……今更だけど、急にごめんね?」

「薮内さんとお話しできて楽しかったですし、気にしないください」

「ほんと? そう言ってもらえると嬉しいよ」


 入学から一ヶ月以上経って少しお友達は出来たけれど、頼れる大人が居ないことには変わりなくて。そんな中で薮内さんのような人が積極的に話しかけてくれるのは、こちらとしても有難いことだから。


「そうだ、最後に一つだけいい?」

「え? はい、なんですか?」

「……私の名前、茜っていうんだ」


 えっと、急に名乗られたけどどう反応すればいいんだ。薮内茜さんってこと、だよね。薮内さんは何かを期待するような視線をこっちに送ってきてるし……このタイミングでそんな視線を送ってくるってことは、もしかして。


「…………茜、さん?」

「うん! そっちの呼び方のほうが好きだな」

「私も、さっきの呼び方がいいです」

「わがままに付き合ってもらってごめんね? 若菜ちゃん」

「い、いや……」


 若菜ちゃん、なんて呼ばれ慣れているはずなのに。まるで走った後のように心臓が暴れているのは、どうしてなんだろう──。


III.

 ブーブー、と静かな室内に突如として鳴り響いた機械的なバイブ音。目を開けることなく音のする方向へ向かって手を伸ばすと、指先に硬い無機物が触れる。無機物を手に取り、スイッチを押して電源を入れると眼前がパッと明るくなり思わず顔を顰める。

 デカデカと画面に映し出された、5:00の文字。その下方に灰色で小さく表示されている『停止』の場所をタップして音と振動を止める。

 ベッドから起き上がり、伸びをして凝り固まった筋肉をほぐすついでに眠気を飛ばす。この二ヶ月の間にすっかり見慣れた青色のカーテンを開け、朝の日差しを全身に浴びる。

 朝はあまり食欲が湧かないので薄めのトーストを二枚焼くだけ。お腹の溜まりは良いとは言い難いけれど、何も食べないよりはマシ。お供の野菜ジュースだって本物の野菜と比べると劣るかも知れないけれど、何も摂取しないよりはマシの精神で飲んでいる。


「行ってきまーす」


 誰か同居人がいる訳ではないけれど、防犯のために挨拶をしなさいというのは父の教え。窓越しではなく直接日光を浴びて、早朝特有の澄んだ空気を吸って活力をチャージする。

 特にこの早朝特有の空気を吸うっていうのは一種のルーティンになっていて、何も無い日でも早起きして近所を散歩するのがマイブーム。


「あれ、若菜ちゃん? おはよう」

「茜さん! おはようございます、早いですね」

「若菜ちゃんこそ。休日でしょ?」

「バイト先で欠勤出て……急遽出勤です」


 大変だね、なんて労ってくれるのは嬉しい。実際、普段の夕勤と早朝勤務というのは店内の雰囲気も仕事内容も違う。それに常連さんの顔ぶれも違うし、一緒に働く人も違うからそこの辺りが大変なんだけど……それよりも。


「なんでそんなに薄着なんですか!」

「えぇ〜、なんで? ゴミ捨てるだけだしこれでもよくない?」


 確かに最近は朝でも暑くなってきているし、ゴミ捨てのためだけに着替えるのが面倒なのも分かる。だけど、ノースリーブにシャツを羽織るだけというのは如何なものか。


「せめて前閉じてください!」

「も〜、仕方ないなぁ」


 なんで私がわがまま言ったみたいな反応されなくちゃいけないんだ。前から思っていたけど、茜さんは警戒心が薄すぎる。女性の一人暮らしで隣人に挨拶に来るし、虫が出たからといって隣人を家に入れるし、そのままお茶をご馳走するし……全部私だったから良かったものの、もし他の人にやっていたらと思うとゾッとする。


「全く……美人さんなんですからもっと気を付けてください」

「えっ。あ、うん……ごめん」

「分かってくれたならいいんですよ」


 けど意外だな、もっと食い下がってくると思ったのに……あれ? 今私なんて言った? 美人さんなんだからって……うわ、めっちゃ恥ずかしいこと言ってない!?


「その、違くて……!」

「んー? 何が違うの?」

「だから──」


 反論するために茜さんの方を向くと、不自然に顔を逸らされていることに気付く。物音を立てないように茜さんの横顔を覗き込むと、微かに頬が赤くなっているように見えた。


 ──もしかして、照れてる?


 頭の中に一つの仮定が浮かんでくる。恐らく仮定ではなくて真実なのかもしれないけれど、今の私にそれを知る由はない。なので。


「……茜さんも照れるんですね」

「っ、照れてなんかないから」


 その反応が答えみたいなものだけど、怒られそうなので言わないでおこう。それにしても、茜さんも可愛いところあるんだな。いつも私が揶揄われてばっかりだから、常に余裕綽々な人なのかと思っていた。


「……ふふっ」

「なーに笑ってるの。それよりバイトの時間平気なの?」

「やばっ、そうじゃん!」


 腕時計を見ると、出勤時間の15分前になっていた。茜さんに別れを告げて、出勤のついでに出そうと思っていたゴミ袋を持って駆け出す。

 ──その後。ハプニングこそあったけど出勤時間には間に合った。早起きは気持ち良いし茜さんの照れ顔っていうレアな物も見られたし、今日は良い日になりそうだ。


IV.

 アラームを止め、カーテンを開け、サイフォンで入れたコーヒーをお供としながら朝食を食べる。これが大学に行く日のルーティンだ。野菜ジュースはあくまでも栄養が足りてないと感じた時の応急処置的なものであって、常飲している訳ではない。そもそも健康オタクを自称している身としては、栄養バランスの整った食事をしていると自負しているのだ。

 通学用のリュックに教科書と筆記用具を詰め込んで、玄関の扉を開ける。早朝程ではないけど、この時間帯も空気に透明感がある気がして好きだ。

 ジリジリと照りつけるような日光と、カラッとした暑さに夏の始まりを感じる。お気に入りの紫色のヘッドホンを装着して、準備完了。じわりと汗をかく感覚が堪らなくて、一歩、もう一歩と大学までの道を進んでいく。

 周囲の音がシャットアウトされる……というのは言いすぎだけど、世界から切り離されたような感覚を気に入ってヘッドホンが手放せないでいる。耳元からは大好きな音楽、足元か

 十分ほど歩いていると、ヘッドホンを貫通する程の甲高い声が響いた。幼稚園だ。朝早くから子どもたちは元気だねぇ、と年寄りくさいことを考えてしまう。


「あかねせんせー! こっちこっち!」


 奇しくも隣人と同じ名前をした先生の名前が呼ばれたことに反応して、ついそちらの方を見てしまう。するとそこに立っていたのは──肩甲骨の辺りまで伸びた髪を一つにまとめる見慣れたヘアスタイルをしていて、見慣れぬエプロンを掛けている隣人だった。


「──茜さんっ!?」

「へ? ……わ、若菜ちゃん!?」


 茜さんは子どもに何かを言って他の先生のもとに向かわせ、こちらに駆け寄ってきた。幼稚園のフェンスという薄い障害物越しに会話をする。


「茜さんって保育士さんだったんですね」

「そうだよ、若菜ちゃんは大学だよね」

「ですです、一限からですよ〜」

「ふふ、大変だね」


 なるほど、茜さんから滲み出るあの母性のようなオーラは保育士をされていたからか。というか、保育士さんであんなド派手なネイルと髪色してたんだ……やっぱり大人しそうな雰囲気に似合わずやんちゃな人っぽい。


「茜さんに応援されたら頑張れそうなんですけどねぇ」

「えー? 普段から頑張りなよ〜」

「へへっ」


 普段から頑張っている、とは言わないけど真面目に学生生活を送っている自信はある。けど茜さんに応援されたらもっと頑張れるっていうのは本当だ。


「冗談だよ、若菜ちゃんが頑張ってるのはなんとなく分かるもん」

「へ……ありがとう、ございます」

「だから! 今日は少ない力で頑張れるように応援してあげるね、頑張れ!」

「………よしっ、パワー貰いました! 頑張ってきます!」

「うん、行ってらっしゃい」


 ……行ってらっしゃい、か。久しぶりに言われたかも。普段は誰も返事を返してくれない真っ暗な部屋に向かって「行ってきます」と「ただいま」を言ってるんだもんなぁ。

 よしっ、今日も一日頑張ろう。


◇◇◇


「ありがとうございました」


 夕方、バイトの時間。大学が終わってからのバイトは堪える、なんて発言は私よりも若いのに頑張っている高校生たちにブーブー言われちゃうので心の中で留めておく。

 帰宅ラッシュによるピークですっからかんになった揚げ物は彩が補充してくれてるし、希はウォークインで飲み物の補充をしてくれてるし……私は栄養ドリンクとかの補充と、ついでに棚の掃除でもしようかな。


「いらっしゃいませ〜」


 特徴的な入店音と彩の挨拶が店内に響く。やまびこ挨拶は徹底しなければいけないので、ピークの対応でカラカラに乾いた喉から声を絞り出す。


「いらっしゃい……ませ!?」

「……え、若菜ちゃん?」


 だいぶくたびれた様子で店内に入ってきたのは、仕事を終えたばかりであろう茜さんだった。仕事中一つにまとめられていた髪は解かれていて、さっき会った時よりも大人っぽく見える。


「ここでバイトしてたんだ」

「そうなんですよ〜、よく来られるんですか?」

「たまにね。仕事が長引いてご飯作る気力無くなった時とか、気になる新商品があった時とか」


 私も似たようなコンビニの使い方してるかも。講義とバイト両方入ってる日だと疲れ果ててご飯作る気力が湧かないんだよね。ほぼ毎日ご飯を作ってくれた母親の凄さや有り難みがようやく分かった。


「あ、お仕事の邪魔しちゃった?」

「いやいや、そんなことないですよ」


 正直、仕事しているよりも茜さんと話している方が楽しいからもっと邪魔してほしい……なんてね。店長にバレたら怒られるからそんなことは言いませんよ。

 そもそも、お客様とこんな馴れ馴れしく会話している時点で少し注意されるかもしれないし。常連さんであっても他のお客様との差はなるべく付けるなって口煩く言われてるんでね。

 なんでもクレーム対策なんだとか。世の中にはどんなことで怒るか分からない人もいるんだな……っと、彩が何やら手招きをしている。番重をお客様の邪魔にならない場所に移動させて、レジの方に向かう。


「どうしたの?」

「あの人ですか? 例のお隣さんって」

「げっ、バレた」

「げってなんですか、げって〜!」


 だって彩って絶対揶揄ってくるタイプだし。それに、万が一私がバイト先で茜さんの話をしていることが本人にバレたりしたら……不愉快な気持ちにさせてしまうかもしれないから。


「うー、寒かった……」

「あ、希おかえり。見て、あの人が噂のお隣さんだって」

「え? ……へー、美人さんだ」

「だよね! ビビっちゃった!」


 二人は、まさかあの若菜さんがあんな美人さんと仲が良かったとは、とかどうやって誑かしたんですか? なんて好き放題言ってくれる。


「てか希失礼すぎない?」

「あ、ごめんなさい」

「怒らないであげてください、これもこの子の良さなんです!」

「はいはい、知ってるよ」


 可愛い顔して毒を吐いてくるのが希っていうのが共通認識だもんね。てか彩は希のなんなの。どういう立場でそんな母親みたいな言動してるの。


「お願いします」

「お待たせしましたぁ!」


 いつの間にか茜さんがレジの前に立っていたので、慌ててレジに入る。名札のバーコードを読み取って責任者登録をして、商品をスキャンしていく。いつもは揶揄われてばっかりだから、こういう所でしっかりした姿を見せないと。


「……レジ打ちしてる若菜ちゃん、かっこいいね」

「へぇっ!? あ、ちょっ、レジ間違えた!」

「ふふっ、落ち着いて〜」


 一体誰のせいだと思ってるんですか。とはいえミスをしてしまったのは事実なので。


「申し訳ありませんでした……レシートの金額が違うんですけど、打ち直しますか?」

「気にしないでいいよ、そのまま貰っちゃう」

「ありがとうございます……」


 茜さんがそういう人だとは微塵も思わないけど、こういうので怒る人もいるから大変なんだよなぁ。まあ今回に関しては完全に動揺してしまった私のせいなので怒られても文句は言えないんだけど。


「さっきかっこいいって言ったけど」

「へ? はい」

「やっぱり若菜ちゃんは可愛いね」

「あ、あんまり揶揄わないでください……!」

「えー? 事実なのに」


 コホン、と隣から咳払いの音が聞こえてくる。ハッとなって隣に視線を動かすと、ニヤニヤした彩と呆れたような目線を送っている希の姿が視界に飛び込んでくる。

 他にお客様が居なかったから良かったものの……いや、この二人にこんな姿を見られたって

だけで全身が熱くなっていく。


「ご、ごめん若菜ちゃん! またね」

「は、はい! ありがとうございました!」

「ありがとうございました〜」


 顔を赤くして店内から去っていく背中を見送り、何かを言いたそうな二人の対応開始。彩はイジってくるだけだから適当にあしらえば良いんだけど、問題は希だ。呆れモードの希はこっちが何か反論してもど正論をぶつけてくるから、生半可な言葉では納得させられない。


「いや〜、イチャイチャしてましたねぇ」

「そういうんじゃないからっ……!」

「そういうのにしか見えませんでしたけど」

「ぐぅっ……! 仕事中にごめんなさい!」


 やっぱり希の正論には勝てませんでした。だって希の正論って他の人とは違うというか、有無を言わさぬ圧力的なのがあるから。余程メンタルか討論に強い人じゃないと勝てないよこの子には。


「……けど、相性良さそうですね」

「ね、反対なんだけど上手く噛み合ってるというか……」

「ほ、ほんと? 仲良さそうに見えた?」

「そりゃもうバッチシと!」


 彩が舌をぺろっと出しながら親指を立ててくれる。こういう仕草が似合うのは彼女の武器だと思う。私がやったらムカつくって一蹴されるだろうし。

 ……けど、〝相性が良さそう〟か。私が一方的に仲良くなったと思い込んでるだけなんじゃないかと不安だったけど、彩と希の二人が言うのなら安心だ。これからももっと距離を縮めていきたいな。


「けど、今回みたいなのは御免ですよ」

「邪魔しないようにするの大変だったんですからねー」

「…………はい、肝に銘じておきます」


 ……今度からは節度とTPOは弁えるようにしよう。


V.

 ガチャリと玄関の扉を開ける。出迎えてくれたのは早朝の澄んだ空気でも昼間のカラッとした暑さでもなく、夏の夕方特有の湿度を含んだ熱気だった。蒸し暑いなぁ、とこの熱気を鬱陶しく思う気持ちと、この暑さこそ夏だ! という高揚感が競り合っている。

 熱風で靡いた前髪を直していると、隣の部屋の扉が開く音がした。


「茜さん、こんばんは」

「こんばんは、浴衣似合ってるね」

「茜さんこそ、とてもお似合いです」


 予想通りと言っては失礼になるかもしれないけど、茜さんの浴衣は赤系統。ワインレッドをベースに白色の牡丹をあしらった浴衣を見に纏う茜さんは綺麗で、いつもより大人びて見える。

 対する私は白地に紫の矢羽根模様があしらわれたシンプルな浴衣で、歳の割には可愛げが無かったかな、なんて少し思ってしまう。せっかくの浴衣なんだし、もう少し遊び心を入れても良かったかも。


「じゃあ行きましょうか」

「うん、楽しみだね」


 ──夏祭り、一緒に行かない?


 茜さんにそう誘われたのは二週間ほど前のことで。何か用事があった訳でもないし夏祭りに誘ってくれるような仲の友達も彩と希の二人くらいしか居なかったので、すぐその誘いに乗ることにした。

 三ヶ月以上通っている大学の友達とは未だに少し距離感を探っているのに、ただ部屋が隣で挨拶を交わすくらいだった茜さんとここまで仲良くなっているのは不思議なものだ。


「髪の毛もネイルも、お綺麗です」

「ほんと? ありがとう」


 若菜ちゃんに言われると嬉しい、なんて顔を綻ばせる茜さん。今日の茜さんは普段保育士として働いている時の清楚な感じとは違い、色落ちした部分に赤色を入れ真っ赤なネイルもしている休日スタイル。髪の毛は一度染めると落ちるまで時間が掛かるから、というのでヘアスプレーか何かで一日染めをしているらしい。

 髪の毛も爪も赤で、浴衣も赤。全身を赤で統一するくらいには赤色が好きなんだなと改めて思うし、それが似合っているのも茜さんらしい。


「……結構浴衣の人いますね」

「ここら辺で一番規模が大きいお祭りだもん、遠くから来る人もいるみたいだよ」


 私たちは近所の小さなお祭りではなく、二駅ほど離れた場所の大きなお祭りに参加する。理由は単純明快で、茜さんが今の姿を子どもたちや保護者の方々に見られたくないからというもの。休日の過ごし方は自由なので見られても怒られたりとかはしないけど変なイメージが付いたりしたら嫌だから、ということらしい。

 確かに少しやんちゃな人なのかも? と思ったりするけど、美しさに磨きが掛かっているので見られても問題は無さそうなんだけど。

 急行列車で二駅進んだ場所で降りると、目的地が同じであろう人たちも一斉に電車を降りる。はぐれないように、と茜さんが手を繋いでいてくれたおかげで離れ離れになることは免れたけど……手汗、酷くないよね。

 

◇◇◇


 見渡す限りの人、人、人。それこそ先程のように手を繋いでいないと一瞬にしてはぐれてしまいそうな人混みの中、私たちはお祭りの会場に辿り着いた。


「さてと、何処行きますか?」

「んー……金魚掬い」

「お、いいですね。……やっぱり赤だから好きなんですか?」

「ちょっとー、私のことなんだと思ってるの? けどそうだね……金魚は好きだよ、綺麗だし」


 それに食べ物と違って残るものだから夏祭りに来た証明にもなるし、と付け加えられる。それならヨーヨー掬いでもいいんじゃないか、と言うと金魚の方が可愛いからと返される。

 人と人の隙間を縫って金魚掬いの屋台に移動すると、タイミングが良かったのか他の挑戦者は居なかった。

 水槽に入れられた赤と黒の金魚たち。君たちは今からこのお姉さんに掬われるんだよ、と透明な水の中で長い尾ひれを靡かせて優雅に泳ぐ金魚たちを見つめる。


「よーし、いっぱい獲るよ!」


 そう意気込んでいたところまでは良かったものの、茜さんはあまり金魚掬いが得意ではないみたいで。かれこれ三回ほど挑戦しているけど、一向に金魚を掬える気配がない。


「……うしっ、変わってください! 私が獲ります!」

「若菜ちゃん得意なの?」

「コツがあるんですよ、コツが」


 まずポイを水につける時はそっと、一気に全部つけること。少しずつ水につけていくようにすると濡れた面と濡れていない面の境目が出来てしまい、破れやすくなってしまうとのこと。次に、金魚は追いかけてはいけない。金魚を追うと逃げるけれど、上手い人は金魚を追うのではなく動く方向を予測してポイを潜めておく。あと、ポイの角度も大事。水の中に出し入れする時の角度は絶対に斜めを厳守。その方が水の抵抗が少なくて破れにくいんだそう。

 ここまでのことを守ったらあとは金魚を頭か側面から掬うようにして、金魚が紙の上に乗った後も斜めに引き上げる。そうすると水が切れて紙が破れにくくなるらしい。狙いやすいのは壁際の金魚。壁とポイで挟むようにして持ち上げれば、逃げ場も減るので金魚が捕まえやすい。


「……っと、こんなところですかね」

「凄い……金魚掬いのプロ?」

「いや、これは全部お友達の受け売りですね」

「そのお友達何者なの……?」


 まあその子もネットでコツを調べただけって言ってたけど。夏祭りが近いからってわざわざ金魚掬いのコツを調べる人、そんなにいないと思うよ。


「……あっ、射的やってもいい?」

「いいですよー」


 射的も難しいイメージがあるし、上手く出来なくて不貞腐れる可愛い姿がまた見られるのかなと思ったりしていたんだけど。


「ふぅ……このくらいでいいかな」

「いや差が凄すぎません? さっきの何だったんですか?」


 予想に反して茜さんは射的が大の得意だったらしく、次々と景品を倒していった。最初はにこやかに見ていた屋台のおじさんの表情が徐々に焦っていくの、隣で見てて気まずかったんですからね。


「私、学生時代にライフル射撃やってたんだよね」

「道理で上手い訳ですよ……あっぱれですね」


 ライフル射撃をやっていたところから何があって保育士を目指すことになったのか聞いてみたいけれど、茜さんってあまり過去のことを話したがらない人だから聞いても教えてくれなさそう。


「それはそうと若菜ちゃん、お腹空いてない?」

「へ? まあぼちぼち……」

「そっかそっか、じゃあご飯系行こっか!」


 満面の笑みなんですけど、これ茜さんが食べたかっただけですよね。私がお腹空いてるって答えなくても多分行ってたやつですよね。

 けど楽しそうな茜さんを見るのは楽しいので、思う存分付き合うことにした。りんご飴にフランクフルトに焼きとうもろこし、じゃがバターにわたあめ、焼きそばにたこ焼き……。


「って、食べ過ぎじゃないですか?」

「えー? これくらい普通だよ。それに大人なんだから派手にいきたいでしょ?」


 そういえば子どもの頃はお小遣いを渡されてこの金額以内ねって言われてたっけ。大人になった今ではそういうのを気にせずに幾らでも食べられるから、ついつい食べ過ぎてしまう気持ちも分からなくはない。

 それに茜さんは甘い物が好きなのか、わたあめやりんご飴といった甘い物を口にした瞬間にパァッと表情が明るくなる。いつも大人っぽい茜さんの可愛らしい姿を見られるのだから、たまには食べ過ぎるのも悪くないなと思う。


「じゃあ次は──」

「あーっ! 若菜さん!」

「げっ、この声は……!」

「だから、げって何ですかー!」

「若菜さん、こんばんは」


 騒がしい登場をしたのは彩と希(主に彩)の二人。そういえばこの二人ってバイトはあくまで高校の近くだからって理由で、家自体はこっち側だって言ってたっけ。


「ウチらの誘い断ったと思ったら来てるじゃないですか!」

「ちょっ、バラさないで……!」


 ぷんぷんという擬音が似合う様子で怒っている彩は、私の隣に居た茜さんに気付いたようで。数秒前までの怒りは何処へやら、一転してニヤけ顔でこちらを見つめてくる。


「ふ〜ん? そういうことだったんですねぇ」

「彩、あんまり揶揄っちゃダメだよ」

「の、希ぃ……!」

「お楽しみを邪魔しちゃってすみません」

「希!?」


 天から底へ一気に叩き落とされた気分なんだけど。そうでしたそうでした、希って意外とこういうところがあるんでした。

 二人揃って「お邪魔しました、楽しんで!」なんて言って走り去っていく。というかあの二人もお楽しみだったんじゃないのかなぁ、ペアルックの浴衣なんて着ちゃってさぁ。


「あの子たちの誘い、断ってたんだ」

「いや、まあ、その……はい」


 茜さんの誘いの方が早かったから別に何か悪いことをした訳ではないのに、得も言われぬ罪悪感に苛まれる。


「へ〜、そんなに私とのデート楽しみだったんだ?」

「デッ……!? そ、そうですよ! 悪いですか!?」

「ううん、嬉しい」


 ヤケクソ気味に叫んだ言葉。てっきり「若菜ちゃんは可愛いなぁ」とか「今日は素直だね、そんなに嬉しかったんだ」とか揶揄われると思っていたのに、茜さんから返ってきたのは予想だにしていない反応で。普段子どもたちを見守っているような微笑みを向けられてしまっては、何も言葉が出てこなくて。


「……あ、そろそろ花火の時間だ。行こ?」

「っ、はい……」


 そうやってナチュラルに手を繋ぐんですね。貴女の一挙一動にこっちがドキドキさせられているなんて露知らず、こういうことをするんだから。

 ……あれ、なんで私はドキドキしてるんだろう。確かに茜さんは美人さんだから距離が近いと意識してしまうけど、それだけではない気がする。そもそも美人だからって距離が近くて意識するのもおかしいのか? 駄目だ、何が何だか分からなくなってきた。


「ここならよく見えそうじゃない?」

「ぁ……そう、ですね」

「大丈夫? 疲れちゃった?」

「い、いえっ! めちゃくちゃ元気です!」


 夏祭りといえば花火。光が夜空に打ち上がっては消えていく光景が、何故こんなにも綺麗に見えるのか。よく晴れた夜空を覆い尽くすように巨大な牡丹型の花火が咲いた。耳を聾する炸裂音が響いては、静寂の夜空に溶けていく。


「わぁ……!」


 周りの人も、茜さんも同じタイミングで空を見上げていた。だけど私だけは、隣に座る茜さんを見つめていて。「花火よりも綺麗」だなんてキザな言葉が浮かんでくる。


「やっぱり良いね、花火は」

「こっちに来る前は夏祭りとかよく行かれてたんですか?」

「……うん、行ってたよ」


 花火を一発作るのには一ヶ月以上、だけど打ち上げて空の中に消えていくまでは数秒。そんな花火のように儚い横顔を見せる茜さん。地雷を踏み抜いてしまった気しかしないが、私の口は制御を失ってしまって。


「誰かと一緒に、ですか?」

「…………うん」


 たっぷりと時間を掛けて返ってきたのは、たった二文字の相槌で。その微妙そうな反応から読み取れるのは、今その人は茜さんの側には居ないということ。

 その人が身内でつい最近亡くなった線が浮上してくるけれど、この前帰省して甘やかされたという話を聞いたので除外。そうなると、浮かんでくるもう一つの可能性は──恋人。

 茜さんは私よりも六つ上の24歳だ。恋人の一人や二人いたことがあっても不思議ではない。だけど、私の胸にチクリとした痛みが訪れて。私だって18歳でもう子どもじゃないから分かる。自分に嫉妬という名の灯火が灯ったことを。

 ああ、そうか。私──茜さんのこと、好きだったんだ。好きだから手を繋がれたり距離が近かっただけでドキドキしたし、二人きりのお出掛けがとても特別なことに感じられたんだ。


「茜さん」

「……ん、どうしたの?」

「私、茜さんのことが──好きです」


 恋心を自覚したばかりでいきなり告白するなんて向こう見ずだな、と自分のことながら思う。自分の性格を思えば告白なんてもっと恥ずかがるはずなのに、こんなに勇気が出たのは──夏祭りの特別な空気が背中を押してくれたから、かな。


Ⅵ.

 ブーブー、と静かな室内に突如として鳴り響く機械的なバイブ音。うっすらと目を開けて音のする方向へ手を伸ばすと、指先に硬い無機物が触れる。無機物を手に取り、スイッチを押して電源を入れると眼前がパッと明るくなり思わず顔を顰める。

 デカデカと画面に映し出された、6:00の文字。その下方に灰色で小さく表示されている『停止』の場所をタップして音と振動を止める。

 ベッドから起き上がり、伸びをして凝り固まった筋肉をほぐすついでに眠気を飛ばして、すっかり馴染んだ青いカーテンを開いて日光を全身に浴びるのがモーニングルーティンだったはずなのに。今の私にそんなことをする気力は無くて、アラームを停止したスマホをベッドに放り投げて自分自身もうだうだと布団の中に沈んでいく。


 ──ごめん、少し……考えさせて。


 私の告白に対する、茜さんの返事がコレだ。遠回しに脈無しですって言われているようなもので、それがたった一週間前のことだと考えるとこの世の全ての事柄にやる気が湧かなくなるのも必然で。大学もバイトも全て放り投げて何処かに消えたい気分に陥るけど、現実的に考えて周りに多大な迷惑を掛けてしまうだけなので心の中だけに留めておく。

 何が悪かったんだろう……って、全部か。茜さんが恋人らしき人物と離れ離れになったと聞いた途端に告白するなんて傷心の茜さんを狙っているようで狡かったし、何処が好きかを伝えずにただ好意を伝えるだけというのもまずかったのかもしれない。

 そもそも私は歳下で同性、だし。ハナから茜さんの恋愛対象には入っていなかったのかも。世間は大学生は大人だって言うけれど、社会に出て働いている本当の“大人”からすればまだまだ子どもなのは間違いなくて。茜さんからすれば、狡賢い子どもが馬鹿正直に好意を伝えてきたって感じなんだろうなぁ。


「はぁ…………」


 かつてないほど憂鬱な気分ではあるけど、今日も変わらず講義はあるので準備を整えて玄関の扉を開く。夏真っ盛りなのでそよめく風に熱が含まれているけれど、朝特有の清涼な空気は変わらなくて。まるで気持ちの良い空気を吸って元気を出せよ、と地球から励まされているような気分になる。


「あっ……おはよう」

「おはようございます……」


 隣の部屋からゆっくりと茜さんが出てきた。だけど私を見た時の反応は普段と大違いで。いつもなら表情がパッと明るくなってにこやかに挨拶を交わしてくれるのに、最近はおはようを言い終わったあと気まずそうに目を逸らされた。

 私はというと、何となく居心地が悪くて走り去るようにその場を離れた。自分から告白しておいて意気地なしだなと思うけど、あんなに困ってますみたいな反応をされてグイグイ行けるほどメンタルは強くなくて。

 何で告白なんてしちゃったんだろうな。こんな気持ちになるなら、好きにならなきゃよかった。昔、人間関係でトラウマに近いものを抱えて今もその名残があるような人間なのに、一丁前に恋心を抱いてしまったのが間違いだったのかも──。


◇◇◇


「──さん、若菜さんっ!」

「うわっ、な、なに!?」

「なにって……もう上がりですよ?」

「え……嘘っ、そんな時間!?」


 今日は何にも身が入らなくて。大学では講義の内容が全く頭に入ってこなかったし、バイトもずっと上の空でお客様や希たちに注意されることが多かった。たった一つの出来事で人ってここまで落ちるんだなと思うと同時に、茜さんのことを引きずり過ぎだろうと思う自分がいる。


「何があったんですか?」

「あんなにミスを連発する若菜さんを見たのは初めてなので、心配です」

「二人ともありがとう、けどそこまで面倒見てもらう訳にはいかないから──」

「そうやって一人で抱え込んで解決する悩みなんですか?」


 希はもちろんとして、彩も結構ズバッと言うタイプだよね。普通歳上の同僚にこんなこと言い切れないって。


「それは……」

「私たち、この四ヶ月間若菜さんと一緒に働いてだいぶ仲良くなれたと思ってるんです」

「そんな若菜さんが何かに悩んでいるなら、力になりたいんです!」


 良い同僚に恵まれたな。そう認識すると同時に目頭が熱くなり、鼻がツンとする感覚に襲われる。まだ店頭なのでグッと堪えて、バックヤードに戻った瞬間ぷつんと糸が切れたように涙がポロポロと溢れてくる。

 茜さんと夏祭りに行ったあの日、告白をしたということ。恋心を自覚したのはあの日だったけど、多分もっと前から好意を抱いていたこと。告白への返事やその後の対応的に脈が無いこと、思ったよりも失恋を引きずっていること。二人に全てを話した。


「……若菜さん、それ本人が言ってたんですか?」

「それって……?」

「脈無しだって、若菜さんのことは恋愛対象として見てないってところです」

「言われてないけど、これくらい察せるよ」


 恋愛経験が少ない私でも、少し考えさせてが相手を傷付けない断り文句だってことくらい分かる。それに、脈無しじゃなかったら朝の反応の違いが説明できない。茜さんが私のことをそういう対象として見ていないのは明白なんだ。


「本人から直接言われてもないのに諦めるのは違うんじゃないんですか? それに少し考えさせてって言ってたんですよね? なら茜さんの答えを待ちましょうよ!」

「……無理だよ。もし本当に考えてるんだとしても、そこでフラれたら今度こそ立ち直れないよ」

「その時は……私たちが全力で励まします!」


 だからお願いします、ちゃんと返事を聞きに行ってください! とバックヤードで監視カメラに映っているのにもかかわらず、彩は勢い良く頭を下げる。希はゆっくりと近寄ってきて、私の両手をとった。


「私も彩の言うことに賛成です。若菜さんにこのままモヤモヤした気持ちを抱えて欲しくないですし、それに──」


 フラれるにしても、本人から直接言われた方がスッキリしませんか? と真っ直ぐな瞳に見つめられる。頭を上げた彩も頷きながら私のことを見つめてきて、逃げ道を塞がれる。


「……ふふっ、分かったよ。その代わり、これでフラれたら二人巻き込んで遊び倒すからね!」

「もっちろんです! ま、そんなことならないと思いますけどね」

「若菜さんなら大丈夫だって信じてます」

「…………ありがとう」


 こんな意気地なしな歳上の背中を押してくれて、アフターケアまでしてくれようとして。あんなことを言っておいてなんだけど、二人に頼るような事態にはしないから。

 高速で制服から私服に着替えて、夕勤仲間の二人と交代で出勤してきた夜勤の二人に挨拶をして店を出る。むわっとした熱気に包まれながら走って自宅に向かう。大学からのバイトで疲れた体に鞭打って、熱帯夜の中を駆けていく。歩いて10分、走って5分の自宅に到着する頃には全身汗だくになっていて。

 流石にこれで会いに行くのはマズいと思い、部屋に入って服を着替える。干してあったタオルを取り込んで汗を拭い、茜さんが好きだと言っていた香水をつけて汗の匂いを誤魔化す。

 準備を終えると同時に、スニーカーの小さな足音とガチャリという扉を開いた音が外から聞こえてくる。その音を聞いた私は急いで玄関の扉を開いて外を出る。右に視線をやると、今まさに部屋に入ろうとしている茜さんの姿があった。


「……若菜ちゃん?」


 ──少し、お聞きしたいことがあるんです。


 そう言って茜さんの部屋に上げてもらった。女の子、というより大人の女性らしい部屋。オシャレに疎い私でも名前を知っているような有名ブランドの化粧品やバッグ、棚の上にはフレグランススティックなんかも置かれている。前に部屋に上がらせてもらった時と比べて増えたのは、あの夏祭りで獲った金魚たち。丸い形をした水槽に入れられて、気持ち良さそうに泳いでいる。

 本題に入ろうとすると一気に鼓動が速くなり、手汗で両手がじっとりとしてくる。いつだったか彩が「若菜さんはメンタル強そうですよね、何があっても無敵というか」なんて称してくれたことがあったけど、全然そんな事ないんだよ。今だって深呼吸をしないと言葉一つ発せない弱い人間だし、真正面からフラれたらどうしようって不安で胸がいっぱいだし。


「茜さん、あの時の告白の返事なんですけど──っ!?」


 本題を口にした途端、いきなり抱き締められた。茜さんの華奢な身体が直に触れている感触だったり、仕事終わりで少し汗の匂いが混じったいつもの匂いにドキドキしていると。


「私ね」

「は、はい……」

「まだ18歳の子を好きになっていいのかって何回も思ったけど……やっぱり私、若菜ちゃんが好き」


 自分の耳を疑った。脈無しだと思っていた茜さんが私のことを好き、だなんて。夢だと思い爪を立てて両手を握ってみるけど痛みがやってくるだけで何も変わらなくて、現実なんだって認識する。


「本当に、好きなんですよね……?」

「うん、紛れもない本心だよ。不安なら……確認してみる?」


 茜さんは自分の唇を指差しながら、悪戯に微笑んだ。初めて見る表情に心臓が跳ねながらも、未だ現実味を感じられない私は茜さんの両肩に手を置いていた。


「茜さん……」

「若菜ちゃん……」


 鼻先にふわりと漂う茜さんの香りを感じながら、私たちの距離はゼロになった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

灯火 フィッシュ @Fish_sh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ