堕天/二人は幸せなキスをして終了
わたしは手の中でぽんぽんと小さな機械を跳ねさせる。
音がしたのは、角を曲がったあたりだったはずだ。が、覗き込んでも誰もいない。
廊下に人気はなく、しんと静まりかえっている。
窓のひとつが不自然に空いているのを認めて、わたしは眉を上げた。
窓枠に肘をついて身を乗り出し、「どうも」と横柄に声をかけると、すぐ下でしゃがみ込んでいた男子生徒がこちらを見上げる。
「稲原さん……なにか用?」
片耳にねじ込んでいたイヤホンを外し、彼は胡乱な目つきになる。わたしは目を細めて微笑んだ。
「さっきぶりだね、田中くん」
わたしが日本に戻ってきたのが朝で、今は昼休みだから、だいたい四時間ぶりくらい?
指を折りながら言うと、田中くんは無言で瞬きをした。出方に迷っているのがありありと分かる様子で頭を掻いて、それから「何の話」とぶっきらぼうに言う。
「しらばっくれないでよ。わたしと田中くんの仲じゃん」
同じクラスの田中くんは、中学一年の夏に、うちの地域に引っ越してきた同級生だ。実奈ちゃんの十一年連続には劣るが、もう五年連続で同じクラスになる。
田中くんは、クラスでもあまり目立つ方じゃない。ほどほどに友達がいて、大騒ぎもしなければ浮いてもいない。
背は高くもないし低くもないし、太ってもないし痩せてもない。
ごくごく平凡なクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない感じ。
卒業してしまえば縁も切れて、クラスメイトの名前を思い浮かべるとき最後の方に来る感じ。
「申し訳ないけど、俺と稲原さんは言うほど深い仲じゃないと思うよ。話したのだって何年ぶり?」
田中くんはのっそりと立ち上がると、話はこれで終いだと言いたげにそっぽを向いた。校舎の中にいるわたしからは、ちょうどつむじがよく見える。
わたしは手を伸ばして制服の肩口を掴んだ。
「それは、田中くんが、途中から口きいてくれなくなったからだよ」
彼が転校してきたばかりのころ、よく視線を感じるなって思っていた。
友達が欲しいけど人見知りをしているのかと思って、わたしから話しかけたのだ。
今なら、彼の視線の意味が分かる。
「物語が始まる数年前から、主人公に近づくんでしょ」
知らず知らずのうちに、甘えるような声が出ていた。
彼は答えない。
ざわりと校庭の木が揺れる。開け放たれた窓からぬるい風が吹き込んで、わたしの黒い髪をそよがせた。
彼は目だけを動かしてわたしを見た。
明るめの色をした瞳が、わたしを見上げている。
世界も、時代も、人種も違う。
似ても似つかない姿で、話している言葉も違って、関係性も違う。
それなのに、彼の視線を受け止めた瞬間、胸が震えた。捕まえた肩が、手のひらの中で固くなる。
「はじめから、わたしだって知ってたの」
「知るはずない。……あんたは、たまたま俺が担当した物語の主人公にすぎない」
掠れた声で問いかけると、観念したように弱々しい返事が返ってきた。
「じゃあ、いつから?」
「……あんたが、タピオカがどうのって言ってたのが第三次ブームのことを指していたんなら、これくらいの時代に生きてるんだろうなとは思ってた」
彼にとっては、わたしが日本人だって分かっていても、どこの地域かも、どの時代かも分からないのだ。
その事実に改めて気づいて、うそ寒いものが背筋を覆った。
「確信を持ったのは、中一の冬、あんたと先輩を体育館脇の倉庫に閉じ込めたとき」
肩に置いた手を押さえるように、手の甲に掌を重ねられる。彼の手は指先まで冷え切っていた。
そういえば、そんなことも話したっけ。
「あれって田中くんの仕業だったの? 確かに、あの頃からあんまり会話しなくなったね」
笑い飛ばすと、やけに恨みがましい視線を向けられた。
「わたしだって分かって、照れちゃった?」
気まずくなって茶化したわたしに、強い視線が食らいつく。眦を吊り上げているのに、睨む以上に切実な感情が前に出ていた。
手を肩から下ろされて、強く振り払われる。
「あんたにとっては、ついさっきのことだろうけどっ」
堰が切れたように声がわなないた。唇が歪み、頬や耳、鼻先が真っ赤に染まる。
「……俺にとっては、あんたと一緒に過ごしたのは、もう百年以上も前のことだ」
ひゃくねん、と繰り返した自分の声が、遠く聞こえた。あんまり長い時間すぎてピンとこない。
つまり、セシリアとエミルをくっつけて日本にすぐ戻ってきたわたしとは、事情が違うらしい。
百年間べつの世界を渡り歩いて物語を裏から支え続け、そうしてあるとき、わたしという主人公を冠する物語を担当した。
ストーリー開始以前の、悪役令嬢アルバイト前のわたしを、この数年間ずっと見ていたわけだ。
「……わたしのことなんて、よく覚えてたね?」
我に返ってわたしは眉をひそめた。わたしなんて昨日のこともあんまり覚えてないのに、そんなに昔に会った人のことを覚えているなんて!
彼は目を真ん丸にしてわたしをまじまじ見て、それから心底呆れ果てたようにため息をついた。
「そうだよな、あんたってこういう人だよな」
言いながら、彼が一歩下がる。
両目が柔らかくゆるんで、わたしを見上げて優しく微笑むのだ。
「忘れないよ、永遠に」
なにか、背筋に冷たいものが押し寄せた。軽やかに口にされた『永遠』という単語が、途方もないスケールで彼の向こうに見えた。
彼はまた一歩、後ろにさがる。
「あんたの周りにいる男子たちは、俺が無理やり用意したわけじゃない。初めから、あんたはそういう星のもとに生まれついているんだ。物語性の強い人生を送る運命だ」
そして、わたしの辿る物語を、どこかの遠くで人々が楽しむのだという。
「あんたが誰を選んでも、あんたは幸せになるよ。俺が保証する」
言いながら、彼の手がゆっくりと持ち上がる。
「だから、あんたは、俺のことなんて気にしている場合じゃない」
中指と親指の腹が重ねられ、ぐっと力を込められた指の背が反る。
わたしは息を飲んだ。
(時間を戻そうとしてる、)
この時間遡行が行われてしまえば、わたしたちはもう二度と相見えることはないと、直感が告げる。
――そのとき、わたしを見つめる彼の眼差しが、誰に似ているのか、ようやく分かった。
考えるより先に窓枠によじ登っていた。窓は胸ほどまで高さがあり、乗り越えるのは簡単ではない。
意表を突かれた彼が、慌てて両手を出した。勢い余って頭から落ちそうになったわたしを受け止めて、尻餅をつく。
「何してんだ、危ないだろ!」
わたしの背についた砂埃を払いながら大きな声を出す彼を、わたしはぼうっと眺めていた。
「……ね、わたしがさ、塔で暴れようとしたとき、『物語に介入しすぎるな』って言ったよね。『戻れなくなる』って」
あなたも同じなの?
袖口を掴むと、彼は息を飲んだ。
両目が動揺を示して激しく揺れるのを見た。半歩下がるから、わたしも距離を詰める。
「田中くんはさ、これからわたしが他の男の子にドキドキして、ヤキモチ妬いたり、どうでもいい駆け引きしたり、トラブルとかに巻き込まれたりして近づいていくのを、ずっと陰から見ていたいの?」
「そんなの、」
彼の瞳は何より雄弁だった。苦悶の表情を眺めながら、わたしはぼんやりと考える。
(セシリアに似てるんだ)
ぜったいに、自分からは口にしてはならない想いがある。
相手が強く強く望んで、相手が一歩を踏み出して初めて、応えられる関係がある。
「海くん、わたし、あなたがいい」
彼の言葉を思い出した。
死ぬことは、原則ありえない。
だって、人間でもなければ、生き物ですらない。
いま、この手を離してしまえば、彼は二度と触れられない遠くへ行ってしまうのだ。
人智を越えて、かろやかに世界を、時空を渡ってゆく。
逆に言えば、彼が『物語』に介入しすぎて、この世界に縫い止められてしまえばどうなる?
ごく一般的な日本人の肉体に縛り付けられてしまえば、どうなる?
思いついた可能性に、腹の底がふるりと震えた。
「初めのころみたいに呼んでよ」
手首を捕まえられて、「紗歩ちゃん」と彼が上ずった声で呟く。
わたしは挑むように彼の目の奥を睨みつける。
「逃げるなら今のうちだよ」
囁く声に熱がこもるのを自覚した。
逃げる手段なんて、いくらでもある。
時間を戻したっていい。姿を見えなくして行方を眩ましてしまえばいい。存在した痕跡さえ消して別の世界へ渡ってしまえばいい。
彼はどこにも行かなかった。どこにも消えなかった。
だから手を伸ばす。
「わたし、物語は大好きだし、わたしの人生はわたしが主人公だと思ってるけど、知らない人にずっと見られてるのは恥ずかしいかな」
「それに、少し……いけすかないもんな」
「それ自分で言っちゃうの?」
くすりと笑うと、力いっぱいに抱きすくめられる。縋り付くような力強さでわたしの肩を抱きながら、彼は震えているようだった。
息苦しいのに、おかしさが込み上げて、わたしは声を上げて笑った。
決して辿り着けない遠くに、わたしを観測しているひとがいるらしい。
そのひとたちが楽しめる物語を長く提供するのは、わたしには少々難しそうだ。
彼に最初に教えてもらったことを思い浮かべた。
この手のストーリーが成功と見なされるための、簡単な条件だ。それを満たせば物語は完結するという。
わたしは息を詰めると、両手を彼の肩に置いて背伸びをした。
(完)
時間遡行で切り抜ける! 悪役令嬢アルバイト 冬至 春化 @Toji1222
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