「プロローグ ドキドキ新学期(Take2)」

『サッフィー!』

『大丈夫?』

『新年度一発目で遅刻?』


 ポケットの中でスマートフォンが音を立て、続けざまにメッセージが浮かび上がる。

 それらを確認する余裕もなく、稲原いなはら紗歩さほは急ぎ足で通学路を辿っていた。


 なにせ、始業式その日に堂々と遅刻する間際である。


 輝かしい高校二年生の幕開けのはずなのに、今日は朝からトラブル続きだった。

 通学バスにいた大荷物の老婦人を助けたり、マンホールに落ちかけて通報したり、パンを咥えているひととぶつかったり。

 善行ではあるけれど、遅刻の理由として話すには少しばかり嘘くさすぎる。


 公園がある角を曲がれば、大通りに出る。道の先が開けて一気に陽当たりが良くなった。春の陽気が押し寄せて、そんな場合ではないのに気持ちが和んでしまいそうだ。



 ……始業時間まで、あとどれくらいある?

 時刻を確認しようと、上着のポケットに手を突っ込んでスマートフォンを引っ張り出した。


『遅れるようなら、先生に言っておこうか』

 紗歩が画面を見るのと同時に、可愛いネコのスタンプが頭に「?」を浮かべた。


 親切な友人からの提案に返事をしようと、親指を滑らせる――そのときだった。




 紗歩の身体が、びくんと大きく痙攣する。




 彼女はスマートフォンを投げ捨てると、腕を振って走り出した。迷いのない足取りで通りを疾走する。

 直後、公園の出入り口からゴムボールがててんと元気に飛び出してきた。


 紗歩は飛びつくように黄色のボールを捕まえた。

 そのまま崩れ落ち、地面に膝をついたまま肩で息をする。

 彼女の両目は大きく見開かれ、まるで濡れたように身体が震えていた。


「ぼくのボール!」

 小さな子どもが駆けてきて、紗歩が胸に抱きかかえるボールに手を伸ばす。そのすぐ後ろを、血相を変えた両親が追いかけてきた。

 父親が即座に息子を抱き上げると、母親は血走った目で紗歩を助け起こす。

「ありがとうございます、あそこでボールを捕まえてくださらなかったら……」

 ごうっと音を立てて、貨物を積んだ大きなトラックがすぐ横を走り抜けた。紗歩はまた身震いする。


「いえ、気になさらないでください」

 改めて見ると、親子三人揃ってかしこまった服装をしている。近くで入園式だろうか?



 紗歩は放り投げたスマートフォンを回収すると、「では」と一礼する。

「あ、待って! そこの高校の生徒さんですよね、お名前だけても」


 画面を見れば、朝礼が始まるまで本当に時間がない。

 まだ許せるかわいい遅刻か、割と遅れた印象を受ける遅刻かは、ここからの脚にかかっている状態だ。


「いえ……名乗るほどの者ではありませんので!」

 一度は言ってみたかった台詞を正しい場面で口にして、紗歩は大慌てで走り出した。




 ***


 玄関先に張り出されたクラス分けの表を見ているうちに、間延びしたチャイムの音が終わってしまう。

 自分の名前を探すのに必死で、他の同級生を確認する余裕もなかった。


 どたばたと音を立てながら教室に駆け込むと、見覚えのある顔ぶれと、あまり馴染みのない顔ぶれと、いくつか仲良しの顔が紗歩を振り返る。


 一斉に視線が向けられて、紗歩はたじろいだ。

 教壇に立っているのは、去年は隣のクラスの担任だった数学の先生だ。寡黙なタイプで、あまり冗談なんかを快活に飛ばす人ではない。


「すみません、あの、おばあちゃん助けたり、パンくわえてる人とぶつかったり、子どもが轢かれそうになるのを止めたりしてて遅刻しました」

 さすがに無理かと思いながら白状すると、先生は三秒ほど置いてから眼鏡をくいと上げた。

「おばあちゃんとパンの話は知りませんが、子どもを助けたという話は把握しています。先ほど学校に電話がかかってきたそうです」


 授業日ではないし今回は不問にするから、早く座れと促される。

(えっと、)

 教室を見回すと、空席はふたつあった。教壇の目の前と、入り口すぐ近くの机。

 紗歩は少しのあいだ戸惑って立ち尽くす。


(あ、新年度だから名簿順か)

 すぐに合点して、番号の若い紗歩はさっさと入り口近くの空席に腰かけた。



 息を整えながら事務連絡を聞き終え、これから体育館に移動して始業式に向かう頃には汗もすっかり引いていた。


 ふう、と長い息をつくと、後ろから背中がつんつんとつつかれる。

「サッフィー、さっきのマジ?」

「実奈ちゃん」

 小学校の頃からずっと一緒の幼馴染みだった。今年も同じクラスとなると、これでもう十一年目になる。

 腐れ縁の、本当に仲の良い幼馴染みだ。おまけに名字の並びも近いので、だいたい名簿も並びになる。


 紗歩は椅子の前脚を浮かせると、実奈の机に肘をもたせかけて親指を立てた。

「マジ。ぜんぶマジ」

「すご、この街にパン咥えてるひとなんている? なに塗ってた?」

「マーマレードっぽかったかな」

 紗歩は遠い目をして答える。まるで一年以上前のことを思い出すような眼差しだった。


 実奈はつと黙って、目を真ん丸にして紗歩を見つめる。

「なんかさ、サッフィー……」

 彼女の手が伸びて、紗歩の黒髪を何度か撫でた。

「ちょっと大人っぽくなった?」

 一拍おいて、紗歩は「ふふん」と笑みこぼれた。立ち上がって、がばりと親友に抱きつく。何よと笑いながら実奈が抱き返す。



 実奈の肩に顎を預けながら、紗歩は目を閉じた。

「いつか、実奈ちゃんには全部話すね」

「なに? 何でいま言わないのよ」

「話すと長くなるもん」

「一昨日も一緒に遊んだじゃないの。その間に、そんな長い話があったって?」

 うん、と紗歩は抱擁を解きながら笑顔で頷いた。


「一年くらいアルバイトしてたの」




 ***


 午前に始業式を終え、午後はそのまま入学式が行われる予定になっていた。

「お、新入生」とはしゃぐ声がして、紗歩は窓際に近づいて首を伸ばす。


 新しい教室は生徒玄関が見下ろせる位置で、保護者と連れだって登校してくる新入生の姿がよく見えた。

 その中に既視感のある顔を見つけて、紗歩は身を乗り出した。今朝ちっちゃい男の子を連れていた母親が、ここの制服を着た男の子と一緒に玄関に入ってくる。


(年の離れたお兄さんがいたんだ)

 へえ、と思いながら紗歩は机に戻った。

「実奈ちゃん、今日わたしお弁当ないから、購買でパン買ってくるね。先に食べてて」

 財布を持って渡り廊下の方向を指さすと、実奈がひらひらと手を振る。


 教室を出る間際、「そういえばさぁ」とクラスメイトの明るい声が耳に入った。

「そこの空いてる席、転校生が来るんだってね」

「そうそう、名簿に知らない名前があると思った」

 へえ、とまたもや思いながら、紗歩は軽やかな足取りで購買へ向かう。


 新しい風が入ってきて、楽しい一年になりそうだ。




「紗歩! 会いたかった」


 だから、人通りの多い購買近くで呼び止められて、紗歩は仰天した。

 担任に連れられて、背の高い青年がこちらに手を振っていた。

(だれだっけ?)


 知らない、と言い切るには、相手の態度はやけに親しそうだった。先生に何か伝えると、彼は早足でこちらに近づいてくる。

 いざ対面して、強烈な既視感が襲う。知らない顔じゃない、どこかで見たことがある。


 やけに整った顔で、均整のとれた体つきだった。

(わたし、こんなイケメンの友達いないんだけど)

 垢抜けたとかにも限度がある。骨格ぜんぶ変わってないと説明がつかない。


 どうしてこの人は自分のことを知っているのだろう?



 不審がる紗歩に焦れたのか、彼は一歩踏み出した。

「紗歩、」

 と、いきなり背後で甲高い悲鳴が上がって、紗歩はその場で飛び上がった。


「ねえあれって、俳優のさ……」

「え、そうだよね? 見間違いかと思った」

「私めっちゃファンなんだけど!」


 紗歩はすっかり当惑して男子生徒を見上げた。「……俳優さん?」と低姿勢で問いかけると、彼が目に見えてショックを受けた顔になる。


「おれのこと、覚えてない?」

 意味深な問いかけに、一瞬だけ脳裏をよぎる顔があった。が、紗歩はすぐにかぶりを振る。

(彼のわけがない)


 察しの悪い紗歩に焦れたように、男子生徒はさらに距離を詰めた。

「ほら、小さいとき隣に住んでた」

 あ、と紗歩は目も口も大きく開けて指をさした。


「もしかして、千崎さんちの時信くん!?」

 呼んだ瞬間、彼の顔が明るく輝く。


 小さきときの千崎は天使のように可愛らしい男の子だったけれど、十年ほども見ない間にすっかり別人のように成長していた。

「時信くん、かっこよくなったね」

 笑顔で話しかけると、千崎は耳を赤くして「そうかな」と応じる。



「ここの制服を着てるってことは、今年度から、こっちに?」

「うん。……仕事の関係で、しばらくはこっちが拠点になりそうなんだ」

 さっき俳優がどうのと言っている人もいた。

 顔に見覚えがあるのは、幼馴染みだからというよりは、たぶん、雑誌かテレビかどこかで見たのだ。


 千崎は何やら言いづらそうに目を逸らす。ということは、あまり深く突っ込まない方が良いだろう。

「もしかして、うちのクラスの転校生って時信くんのことかな。わたし三組なんだよ」

 何気ない話題に変えて、教室の方向を指さす。


「実奈ちゃんって覚えてる? 同じクラスなんだけどさ、実はこれでもう早じゅういち、」


 明るい口調で話していると、不意に手を取られて「紗歩」と呼ばれた。

「紗歩が変わってなくて、嬉しいよ」

 改めて顔を上げると、千崎は真剣な表情でこちらを見ている。



「……紗歩はさ、おれが引っ越すときに約束したこと、覚えてる?」


 言われて、紗歩は数秒間斜め上に視線をやった。

 パンダの段ボールが次々運ばれていくなか、小さかった彼が身も世もなく泣きじゃくっていたのは覚えている。

 そのときに話したことも、一応、忘れてはいない。


 大きくなったら結婚しようねって、よくあるアレである。


「えっと」と上目遣いに再度目を向けると、千崎は茶化しの一切ない目つきで紗歩を見据えていた。

「こ……子どものときの話だよ?」

 へらりと笑いながら答える。千崎は一瞬目を細めたが、すぐに笑顔になって「よかった」と距離を詰めた。


「紗歩が覚えててくれたんならいいよ。……今はね」


 言って、片手をすいと持ち上げる。千崎が気障な仕草で身を屈め、手の甲に顔を寄せた――そのとき、背後で「あ!」と声が上がった。




「あの! 今朝、弟を助けてくれたのって、先輩ですか!?」

「え!?」

 慌てて手を振りほどいて顔を向ければ、真新しい制服の胸元に花飾りをつけた新入生が駆け寄ってくる。これがまた見目麗しい、ちょっと少女みたいに可愛らしいところのある華奢な男の子だった。

 遠くの受付のところで慌てているのは、通学路でボールを受け止めたときにいた母親だろう。


「た、たぶん、わたしだけど」

「そうですか!」

 がばりと両手で手を握られて、紗歩は目を白黒させる。

「本当に、ありがとうございます。先輩がいなかったら弟はトラックに轢かれてもおかしくなかったと聞きました。先輩は僕の恩人です」

 潤んだ瞳で見つめられて、紗歩は半笑いでたじろいだ。

「僕は、おん 寛治郎かんじろうといいます。先輩さえよければ、一生かけてこのご恩を返したって……」




「君、ことわりもなく人の身体に触るものじゃないよ」

 別の方向から声がする。眼鏡をくいと上げて階段を降りてきたのは、中学の頃から親しくしているひとつ上の先輩だ。中学から一緒の先輩で、一緒に倉庫に閉じ込められたことがある。

「生徒会長」と呼びかけると、「前会長だ」と返される。


 新入生に掴まれていた手を離させ、彼は紗歩に耳打ちした。

「紗歩さん。あんなに勧誘したのに、けっきょく生徒会には入ってくれないのかい?」

「すみません、いろいろ忙しくて……」

 紗歩は頬を掻いて苦笑いする。



 騒ぎが大きくなりすぎたのか、購買でパンを売っていた業者の青年が顔を上げる。と、紗歩を見つけて「あれ?」と首を傾げた。

「きみ、今朝に角でぶつかった子じゃないか」

 まじまじと見つめ返して、紗歩は目を丸くする。見覚えのある顔だった。

「パンくわえてたお兄さん!? 本業パン屋さんだったんですか?」

「実家でバイトしてるんだ、普段は大学生。そうだ、これも何かの縁だから、お代はおまけするよ」

 やった、と紗歩は拳を掲げた。これはありがたい!



「紗歩、それならおれが払うよ。これでも結構稼いでるんだ」

「いえ、先輩は僕の一生の恩人ですから、ここは僕が」

「いや、ここは先輩として俺が」


 喜び勇んで売り場へ向かう紗歩を三人が囲む。

「……紗歩は、誰を選ぶの?」


 圧を感じる口調で問いかけられて、紗歩は財布を抱えて縮こまった。

「そ、そんなに揉めるなら、自分で買うけど」

「そういう話じゃないって分かってますよね、先輩?」


 助けを求めて周囲を見回すが、この異様な空気に突っ込んでくる猛者はいないらしい。

(実奈ちゃん、助けに来て……)

 SOSをテレパシーで送信するが、届くはずもない。


 声がサラウンドで響く。

「紗歩」

「先輩……」

「紗歩さん」

「パンにはやっぱりマーマレードだよね」

(ひとり変なのいたな)


 一瞬頭が冷静になるが、ほうぼうから手を取られて紗歩は今度こそ身体を固くした。




 ……腹を括って、大きく息を吐く。

 それから紗歩は胸を膨らませて息を吸うと、斜め上を見上げて叫んだ。


「わ……わたし、一体どうなっちゃうの~!?」











 いきなり大声出してどうした? とか、からかう声が聞きたかった。

 けれど、紗歩の言葉に返事をする者はなく、辺りは怪訝そうな静寂に包まれる。


 残響が消えてから、紗歩は問答無用で手を振り払った。

 すたすたと人混みを抜け、購買部に入って棚を次々に検分する。文具なんかが並べられている棚に手を滑らせる紗歩を、一同は呆然と見つめる。


 天板の裏に手をやったとき、指先に固い感覚があった。


 小さな機械を留めていたテープを剥がし、紗歩はフンと鼻を鳴らした。

「それって、盗聴器……?」

「ごめんね、こっちの話だから気にしないで」

 肩を竦めると、紗歩は今度こそ胸いっぱいに息を吸い、盗聴器を口元に寄せる。



「聞いてる!?」

 めいいっぱい大声を出せば、どこかで「うわ!」と声がした。

 それほど遠くではない。



「なるほどね」

 主人公わたしが新年度早々に事故で死んだら都合が悪かったわけだ。


 顎に手を添えて呟くと、紗歩は盗聴器を手のひらで転がして颯爽と歩き出した。


 手の中に隠した盗聴器に向かって囁く。

「全部聞かせてもらうから、逃げないでよね」

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