第10話 アルバイトは無事満了


「サフィーナさまが、そのような行動をしているところなんて、見たことありません」

 にわかには信じがたい、とセシリアが眉をひそめる。

 ユリナはしばし黙っていた。


 今度こそわたしは決して声を出さないよう、両手でしっかりと口を塞いで耳を澄ませる。

 ごくりと唾を飲んだ音が聞こえてしまいやしないかと思うほどの静寂だった。


「この、恩知らず」


 耳を疑ったのは、わたしだけじゃない。セシリアの口から胡乱な呟きが漏れる。

 見る間にユリナの顔が歪む。彼女は怒りの表情を露わにして、セシリアの肩を強く掴んだ。かぎ爪のように曲がった指先が食い込んで、セシリアが呻く。

「あなたが今日に至るまで無事でいたのは、全部サフィーナさまのおかげなのに!」

 あれも、これも! とユリナは声を荒げた。


 車輪に不具合があった馬車がぶつかりそうになったのも、植木鉢が降ってくるのも、全部、自分が仕組んだのだ、と彼女は血を吐くように叫ぶ。


「サフィーナさまには、殿下と結婚して頂かなければならないの! だから、あなたが学園にいられなくなるように、色々と手を回したわ! ……でも、全部失敗した。サフィーナさまが、あなたを守ったから」


 わたしは物陰で愕然とした。

(えっ! それって、セシリアとエミルの円滑なデートのためにトラブルを回避してたときのこと!?)


 改めてユリナを凝視する。言われてみれば、確かにあの日は妙にトラブルが多いなと思ったけど……。

 わたしたちがセシリアたちのデートを一部始終見守っていた様子を、一部始終見られていたとは露ほども思っていなかった。急に居心地が悪くなって、わたしはもぞりと身じろぎをする。


「サフィーナさまの振る舞いは、まるで未来が見えるみたいだった。不思議な力を使って、あなたを守っているみたいだった」

 そんなのおかしい、とユリナの目が虚ろに中空を睨んだ。


「あなたさえ居なくなれば、きっと元のサフィーナさまが戻ってきてくださる」




 彼女の独白を聞きながら、わたしは長いため息をついた。

 わたしの動きが人知を越えて見えるのは当然だ。彼女は、わたしたち何度も繰り返してやり直したうちの、最も上手くいった最終成果しか見ていない。


(未来が見えたらどんなに楽か分かんないよ)


 辟易しながら首を伸ばすと、ユリナはおもむろに隣室にいた男たちに目を向けた。

「塔の上に移動するわ。手伝って」

 どうやら場所を移すらしい。こうして窓の外から容易に覗けるのだから、悔しいかな、判断は正解と言わざるを得ない。


 縄を解き、セシリアの腕を掴んで部屋を出て行く様子を、わたしはじっと見守る。この先は、窓から様子を窺うことは難しそうだ。

(まあね、未来は見えないけど、やり直して塔の上に先回りすることはできるもんね)



 わたしは一旦時間を戻すと、そそくさと屋敷の表へ回り、母屋へと足を踏み入れた。セシリアが囚われている部屋の方向から声が聞こえる。


「……サフィーナさまには、殿下と結婚して頂かなければならないの!」

 もともとサフィーナに近づいたのも、親に言われてのことだったと語っていた。サフィーナが地位を得ると嬉しい人間もいるということだろう。



 わたしがサフィーナの体に入ったばっかりに、この世界の進むべき方向を歪めてしまったのだ。そのせいで、ユリナは変な方向に行ってしまったし、セシリアをこうして危険に晒している。


(エミル……頼むからはやく来て!)

 塔の高さはおおよそ一般的な三階建てくらいのもので、そびえ立つ尖塔というわけではない。らせん階段を、足音を殺してのぼってゆく。ぎしりと板が大きな音を立てるたび、五秒ずつ戻って足の位置を変える。

 遡行申請は滞りなく許可されている。カイニスは無事だ。


 

 最上階は雑然とした広い部屋だった。月が横切る方角の壁には、ほとんど床から天井まである大きな窓が取り付けられている。しかし、随分長いこと放置されているせいで窓はほとんど磨りガラスのように濁り、景観は楽しめそうにない。


 少し迷って、わたしは部屋の隅の大きな戸棚の影に、窓へ背を向けるかたちで身を潜めた。


 程なくして足音が近づいてきて、セシリアとユリナの一行が姿を現す。わたしがしゃがみ込んでいる方向にもちらりと目線が向けられたが、影が濃くて見えなかっただろう。ランタンを机に乗せると、ユリナは息を整えるように胸に手を置いた。



『……おい』

 抱えていたトランシーバーから声がしたのは、そのときだった。音量を最低にしておいたから、ユリナたちには聞こえていない、はずだ。

「あんまり返事できないけど、聞こえてるよ」と、わたしはできる限り絞った声で囁き返す。二、三秒おいて、ああと返事が返ってきた。


 イエスならトランシーバー本体を一回、ノーなら二回叩けと指示される。


『いま廃屋に到着した。さっきの部屋にいないから、セシリアたちは塔の上にでも行ったか? あんたも上に?』

 とん、と返事をすると、『なるほど』と足音が聞こえてくる。体を捻って窓から外をみると、見慣れた姿が廃屋裏手から玄関方向に歩いてくるのが見えた。


 あわてて四、五回合図を送ると、怪訝そうな彼の視線が周囲を見回し、上に振れて、わたしを見つけたのか片手を上げる。わたしも小さく手を振り返した。


『あともう少しで、エミルが到着する。可能なら、タイミングを調整して良いシーンが作りたい』

 彼の言わんとすることは分かっていた。これは誰かが楽しむための物語になる。手に汗握るスリリングな展開、ドラマチックで叙情的な場面が欲しい。

 セシリアを階段から突き飛ばし、ちょうどエミルに助けさせるのと同じだ。


 唾を飲みながら、わたしはトランシーバーのマイクらしき箇所を指で一度叩いた。


『そちらの状況はどうなっている。セシリアは今のところ安全か?』

 合図を一度送る。念のため再度様子を窺うと、セシリアは男二人に背後から取り押さえられ、向かい合ったユリナは腕を組んで仁王立ちしていた。三秒後には殺されるような状態ではない、と、思う。


『いいか――これから俺は、エミルの足止めをしてタイミングを図る。あんたは状況に変化があったら逐一報告してくれ』

 言い終わると同時に、眼下で彼の姿がふっとかき消えた。ほとんど同時に、遠くで土煙が上がり、十頭以上の馬が森の中の街道をこちらに駆けてくるのが見えた。

(エミルだ)

 先頭を率いる青年の顔を認めて、わたしは息を飲む。


 玄関先でエミルは馬から飛び降りると、両開きの扉に取りついた。が、開かない。

(足止めするって言ってたし、開かないようにしてるんだわ)

 目には見えないが、カイニスが玄関の中にいて、火かき棒か何かを噛ませているのだろう。エミルは苛立たしげに扉を殴りつけると、周囲の人間へ別の進入口を探すように合図をする。



 一部始終は、窓のすぐ脇にいるわたしにしか見えていない。


「……こんなことをして、どうなるか分かっているんですか」

 セシリアが呻く。

「学園内に不審者を招き入れて、誘拐に監禁。このことが明るみに出れば、ユリナさまは罪に問われますよ」

「そうね。だから、明るみに出なければ良いだけの話」

 ぞわりと、わたしのうなじが冷えた。セシリアの表情が目に見えてこわばる。


 ユリナは歌うように語る。

「あなたは、サフィーナさまからの度重なる嫌がらせと、エミル殿下との関係という重圧で思い詰めて、人里離れたこの屋敷で、自ら命を絶った……とか?」

 やめて、とセシリアの口から弱々しい悲鳴が出た。


 わたしは血相を変えてトランシーバーをボコボコに殴打する。



「はやく! セシリアのこと殺すって言ってる!」

 囁くと、玄関扉がいきなり開いて、エミルがつんのめるように建物内へ転がり込んだ。

『いいか……今にエミルがそっちに行くから、あんたは絶対に見つからないようにじっとしてろ』

 息を切らして、カイニスは低めた声で告げる。

『一番最悪なのは、あんたもセシリアも殺されることだ』

 必ず、生きて日本に帰るんだろ。短い一言が、ずんと胸に沈む。


 エミルが到着するまで、ざっと二、三分といったところだ。

 大丈夫、と胸の内で唱えながら、わたしは手足が冷えていくのを感じていた。



「まあ、もし犯人捜しが始まっても真っ先に疑われるのはサフィーナさまだわ」

 独り言のように呟いたユリナの横顔は、ぞっとするほど冷たかった。

 薄々気付いていたが、彼女はわたしがカイニスに話した計画を聞いたのだろう。

 実際、わたしはサフィーナの実家に突撃して、馬車を貸せだの大暴れしていたし、疑惑を向けられたらなかなか言い逃れが難しい。


「……どうしてサフィーナさまは、ずっと一緒にいた私より、あなたみたいな子を気にかけるのかしら」

 ユリナの頬には涙が伝っていた。わたしは目を見張る。


(それは、わたしが、)


 ユリナが、傍らに放置されていた椅子に手を伸ばした。接合部が緩んだ椅子は、軽く揺すっただけで脚がぽろりと取れる。


(わたしが、所詮こんなの物語だって。自分には関係ない、知らない異世界だって思っていたから)


 ゆっくりと腰を浮かせると、『おい』とトランシーバーが音を発した。

『なにする気だ、隠れてろ!』


 ユリナは椅子の脚の一本を持ったまま、セシリアに歩み寄る。彼女を取り押さえていたうちの一人に脚を放り、ユリナは黙って三歩さがった。

 椅子の脚といえば、そんなのもう立派な角材も同然だ。ちょうど取り回しの利く長さ、太さをしている。


 男は手の中で何度か棒を転がすと、セシリアを見やった。相方のもう一人に下がれと合図をすると、支えを失ったセシリアはその場に崩れ落ちる。完全に腰を抜かしてしまっている。


(この世界でも、わたしたちと同じようにみんな生きてるって、ちゃんと分かってなくて、周りを蔑ろにしたから)


 ユリナがランタンを手に取って高く掲げれば、床や壁に影が踊る。

 男は大きく振りかぶった。セシリアの顔に影が落ちる。



(そのせいで、何の罪もない女の子にずっと嫌な思いをさせて、怖い目に遭わせて、危険に晒している)


 セシリアの喉から甲高い悲鳴が飛び出した。かたく目を瞑り、顔を背けて身を縮める。

 わたしは床に倒れていた姿見を両手で鷲掴みにした。


『やめろ! 「あんた」が物語に介入しすぎるな――戻れなくなるぞ!』


 ぐっと足に力を込めて鏡を動かすと、厚く降り積もっていた埃がふわりと舞い上がる。手応えは、思ったよりも重い。あんまり軽々と振り回せる代物じゃなさそうだ。


『あともう少しでエミルが来るんだ、動くな……頼むから!』

 声の向こうに足音が聞こえていた。わたしはトランシーバーをウエストのところに押し込むと、大きく息を吸う。


『俺は、あんたが二度と地球に帰れなくなって泣いてるのを想像したくない!』

 かまわない、と胸の内で嘯いた。

 帰れないなんて、そんなの嫌に決まってる。

 でも、面白い物語のためにって、できることをしないで身を潜めているのも、同じくらいいやだ。


 自分のために、セシリアを見殺しにでもしたら、わたし、もし日本に帰れたって一生後悔する。


 もう二度と、胸を張って地球を歩けない。



 男はさらに腕を後ろに引くと、上体をしならせて、セシリアに向かって棒を振り下ろした。

 椅子の脚が空を切って低く唸る。言葉にならない絶叫が響き渡った。




「わたしの目が黒いうちは、殺人なんて、見逃す……もんですか!」

 姿見を力尽くで持ち上げると、ハンマー投げの要領で身体を回転させ、わたしは大きな鏡の側面で思い切り暴漢の背を横殴りにした。


「セシリア!」

 息せき切って飛び込んできたエミルが、男の顔面を真正面から殴りつけるのと同時のことだった。



 前後から衝撃を食らった男は、あまり無事ではなさそうな声を漏らして昏倒する。

 ずん、と音を立てて姿見の端が床に落ちた。わたしは肩で息をしながら、塔の上に集まった面々を見回した。


「……は?」

 ユリナの口から、ご令嬢らしからぬ呟きが零れる。わたしは姿見から手を離すと、今さら髪を払って姿勢を正した。

「い……一部始終は聞かせてもらったわ」

 こんな塔の上にまで潜んでおいて『聞かせてもらった』の次元じゃないだろう、と言いたげな視線が突き刺さる。

 なんでわたし助けた側なのに、四方八方からこんなに白い目で見られてるの!?


「事情は分からないが、君がセシリアを守ってくれたということか」


 王子というのは理解が早いらしい。わたしは胸を反らして「ええ」と頷いた。エミルはこちらを真っ直ぐに見て、つと口を噤む。


「……ありがとう、サフィーナ」

 間をおいて、彼はおずおずと微笑んだ。



 慌ただしい足音が近づいて、「殿下!」「ご無事ですか」と近衛らしき一団が姿を現した。

 エミルの合図で取り押さえられた男は、ユリナを指さしてあいつに命じられたと言い募る。

「話はあとでじっくり聞かせてもらおう」

 にべもなく階下に連行され、昏倒した男も担ぎ出された。さいごに、呆然と立ち尽くしたユリナに、慎重に手縄がかけられる。


「サフィーナさま、どうして」

 途方に暮れた子どものような声だった。顔ごとこちらを振り返るユリナの視線を受け止めて、わたしは言葉に詰まる。

 何かを言わなければいけない。それなのに、どうしても声が出なかった。わたしが何を言っても彼女を怒らせると思ったからだ。

 けっきょく、わたしが言葉を発するより先に、ユリナは縄を引かれて塔を降りてしまった。



 エミルも何か言いたげな顔でこちらを見ていたが、セシリアがか細い声を上げると、すぐに彼女へ向き直った。


 エミルに抱きかかえられて、セシリアが立ち上がる。

「サフィーナさま……さっき、ユリナさまが仰っていたことって」

「なんのこと? 全部あの子の馬鹿げた思い込みじゃなくって」

 ユリナが言っていた「未来が見えてるみたい」云々を掘り下げられたら困るのである。背中にビッショリ冷や汗をかきながら、わたしは腕を組んで顔を背ける。


 するとセシリアは突然噴き出して、エミルの肩に顔をうずめた。背中が震えているから泣いていると思ったが、どうやら息もできないほど笑っているらしい。

「な……なによ」

「私、もしかしたらサフィーナさまのこと、少し誤解していたのかもしれません」

 サフィーナさまは、本当は優しい方なんだわ。そうでしょう?

 笑顔で問いかけられて、わたしの目はアメリカ西海岸まで泳いだ。


(けっこう言い逃れできないくらい態度わるかったと思うんだけどな)

 最大級の吊り橋にかかれば、これまでの所業も「分かりにくい優しさ」として片付けられるらしい。吊り橋効果というものはまことに凄いものだ。



 ヒロインがせっかく好意的に解釈してくれているのを、わざわざ強硬に否定するのも勿体ない。わたしはそそくさと退却する。


 塔の上にエミルとセシリアだけを残して、誰もいない螺旋階段へと足を踏み入れた。灯りはなく、真っ暗な通路を一段一段確かめながら降りるのだが、どこかから人の声がする。

 しばらく戸惑ってから、音源に気付いてわたしはトランシーバーを掴み上げた。顔の高さに寄せて返事をすると、すぐに『おい』と不機嫌そうな声が聞こえた。


『勝手なことするなって言っただろ』

「ごめん」

 素直に謝ると、聞こえよがしにため息をつかれる。

『まあ、思ったより最悪の事態は免れたから、良いけど』

 お優しいことだ。思わず喉を鳴らして笑ってしまう。


 階段の下の方でふわりと灯りがつくのが、壁の反射で分かった。

『あの二人はどうした?』

「置いてきた。ちょっと寒くて薄暗いところで二人っきりだと胸が高鳴るもんだし」

『けっこう限定的なシチュエーションだろ』

「わたしはあるよ! 中学生のときさぁ、ちょっと憧れてた先輩と一緒に体育用具室に閉じ込められちゃって、そりゃもうドキドキ」


 人差し指を振りながら語るわたしに、彼は今日も呆れ気味に『そうかい』と相槌をうつ。


『あんた、いちいち手持ちのエピソードが強いよな』


 もともと死んだのも、子どもを助けようとしたんだっけ?

 言われて、わたしは「そーだよ」とわざと気楽に応じた。


 ちゃんと明るい声を出したつもりだったのに、言葉尻が震える。


『そっか』


 マイクとスピーカーを通した返事は、やさしく響いた。




 明かりが揺れて近づいて、懐中電灯の真っ直ぐな光がわたしの胸のあたりを照らした。眩しさに目を細めると、懐中電灯が下を向く。

 手の中で通信が途切れる音がして、今度は肉声がやわらかく告げた。


「あんたは、そういう星のもとに生まれついているのかもな」


 せまい階段の通路で、わたしはトランシーバーを放り投げて腕を広げた。同じように、彼が両手をこちらに差し伸べる。

 階段だから危ないかなって少し思ったけど、頑張って受け止めてほしい。

 わたしは笑顔で大きく一歩を踏み出した。


 彼の指先がわたしの背中をかすめる。

「ほんと、肝が冷えたよ。……あんたが無事で、良か






 ***


 目の前が一瞬にして明るくなり、わたしの両手は空を切った。


「いやぁ、お疲れ様でした。素晴らしい作劇でしたよ」

 ひとり分の拍手が響く空間は、一切の物がなくどこまでも続いて見える真っ白な世界である。


 そして隣に立っているのが、わたしがトラックに轢かれた直後に諸々の説明をしてくれたお兄さんだった。

 はたと我に返り、わたしは髪を掴んで目の前に持ってくる。黒い。

 手や体を見下ろせば、サフィーナとは似ても似つかないちんちくりんだ。慣れ親しんだ身体でもある。


「え……? ど、どういう」

「お願いしていた悪役令嬢のお仕事が満了いたしましたので、呼び戻させていただきました」

 狼狽えるわたしに、担当者兄さんは笑顔で応える。


 指し示された方向を見ると、空中に浮いたスクリーンにエミルとセシリアが抱き合っている様子が映し出されていた。

 なんか空気が湿っぽい、気がする。


 そういえば、『キスシーンがあれば成功扱いになる』と、まえに言っていた。

 つまり、これって……。


 わたしは真剣な表情で画面を指さす。

「この二人、さっきまでチューしてました?」

「してましたね」



 あっさりと頷かれて、わたしは自然とその場にへたり込んでいた。

 画面内のエミルとセシリアは抱擁を解くと、手を繋いで階段を降り始める。室内にあるカメラで撮影されたような画角だ。実際にはカメラなんてなかったし、これもまたわたしの知らない技術を使っているのだろう。


「……ぜんぶ、終わったんですね」

「はい。これから日本へ帰還していただきます」

「あ、待って!」

 手をかざしたお兄さんを押しとどめて、わたしは画面にかじりつく。



 カイニスを置き去りにしてしまったから、きっと今頃びっくりしているはずだ。

 そう思ったのに、エミルとセシリアが降りていった先にいたのは、階段の半ばで壁に寄りかかって目を閉じているサフィーナだけだった。


『サフィーナさま!?』

 セシリアが慌てて肩を叩くと、サフィーナの瞼がゆっくりと上がる。ぼんやりとセシリアを見上げ、エミルに視線をやり、暗い階段の壁を虚ろに眺めて、瞬きをした。


 と、その瞳から次から次へと涙があふれ出る。

 訳が分からない顔で、セシリアがサフィーナの肩を抱いた。サフィーナは固く目を閉じて嗚咽している。



 経緯が分からずに首をひねっていると、担当者が何気なく告げる。

「すべて済んだのでお話しますが、サフィーナさんは元々、みずから命を絶とうとしていたんですよ」

「えっ!?」

 わたしは仰天して顔を上げた。彼は清々しい表情で画面の中のサフィーナを眺めている。


「とはいえ、我々も数年前から彼らの動向を物語として観測している訳ですし、ここで彼女が亡くなって全てがおじゃんというのは惜しい。そのため、サフィーナさん本人の了承を得て、不慮の事故で命を落とされたあなたの魂を派遣いたしました」


 そんな仕組みだったとは知らなんだ。わたしは顎に手を当てる。

「たしかに、本物のサフィーナはどこ行ったんだろうとは思ってました」

「ここで私と一緒に、この一年近くを見ておられましたよ。初めは何を見ても興味なさげでしたが、だんだんと、その……活力? が、湧いたみたいで」

 お兄さんの口調がいきなり曖昧になった。


 お茶を濁そうとするので視線を向けると、観念したように「ブチ切れでした」と白状する。

 わたしは口を押さえて目を逸らした。

 そりゃそうだと思う。まさか本人が見ているとはつゆ知らずに、サフィーナの体で好き勝手したし……。



 サフィーナがゆらりと立ち上がると、セシリアはおののいたように一歩下がった。こちらからは、サフィーナの表情は窺えない。

 結局、サフィーナはセシリアには一言もなく階段を降りてゆく。

 今まさに連行されているユリナのもとへ近づくと、息を飲んでユリナが振り返る。


 次の瞬間、サフィーナは右手を振り上げて、思い切りユリナの頬を打った。周囲が大慌てでサフィーナを引き剥がそうとする。

 けれど、サフィーナはユリナを叩いたあと、すぐに彼女を抱き締めた。


『ほんとうに、馬鹿な子』

 サフィーナの声を聞いた瞬間、ユリナの目に驚愕が浮かぶ。見る間にその瞳に涙の膜が張り、彼女は声を上げて泣き出した。サフィーナは友人の頭を撫でながら囁く。


『あなたにだけは、ぜんぶ話すわ。あなたが罪を償ったあとにね』



 そうしたやり取りで、エミルとセシリア、そしてサフィーナたちの物語は幕を閉じたようだった。あとは些細なエピローグを残すだけで、わたしの知るところではない。


 こうして、わたしの悪役令嬢アルバイトは終了した。




 カイニスという名前で呼ばれていた男子学生の姿は、どこにもなかった。

 音もなく、煙のように消え失せた。まるで、そんな青年は初めから存在していなかったかのようだった。


「ああ、今回の物語はこれで一旦完結ですから、担当していた彼はもうこの世界には残っていませんよ」

 血眼になって画面を見つめるわたしに、お兄さんが軽やかに告げる。


「では、約束通り、あなたを日本へ戻します。準備はよろしいですか」

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