第9話 欲しいな、基地局か人工衛星

 サフィーナの体が乗馬に慣れていたおかげか、馬での移動は覚悟していたほど過酷なものではなかった。


 学園がある街はこの地方の中核都市で、街並みを抜けると整備の行き届いた街道が真っ直ぐに伸びている。街の門をくぐった瞬間、左右が一気に開け、まだ種まきには少し早い農耕地が広がった。

 街を出て少しすると、地平線すれすれに森が見えてくる。その森の中に、わたしが思い浮かべている塔がある。


 まだはるか遠くの地面に、黒々とした森の輪郭が張り付いていた。その影を睨みながら、わたしの額にじんわりと冷や汗が滲む。

 思いつきで、セシリアは郊外の廃屋にいると決めつけて出発してしまったけど、別に確証はなにもないのである。


「外れたら、また時間を戻してやり直せばいい」

 まるで心を読んだように、背後で声がした。

「何度でも付き合うよ。あんたは失敗する訳にはいかないんだからさ」

 優しい口調だった。

 うまく声が出なくて、わたしは無言で大きく頷いた。



 ***


 手を繋いで姿を消して、廃屋の入口へ近づく。

「人の気配がする……気がする」

 囁くと、カイニスは建物の裏手に回ろうと手の動きで指し示した。抜き足差し足で、ぐるりと塔を回り込む。


 バリバリに割れた窓ガラスの隙間から、そっと屋内を覗き込んだ。瞬間、わたしは拳を握りしめた。

 セシリアの後ろ姿がある。

「ビンゴ!」

「おま……なにデカい声出してんだ!」

 咄嗟に加減ができなかったのか、容赦なく頭をどつかれた。痛いと叫ぶより先に時間が戻る。廃屋の正面に戻ったわたしは、どつかれていない頭を手で押さえながら項垂れた。

 カイニスは信じられないものを見る目で私を見下ろしている。

「前から思ってたんだけどさ……あんた、もしかして馬鹿か?」

「すいません。驚きのあまり」

 心からの反省を示して謝罪すると、特大のため息が返事をした。


 気を取り直して、再度廃屋の裏手へと忍ぶ。

 鬱蒼と茂る森の中にあるお屋敷で、目立つのは背の高い尖塔だが、その隣に平屋建ての母屋がある。塔の内部へ行くには母屋を通らないといけないようだ。

 むかし、変わり者の金持ちが建てた別荘だというから、物見台として作られた塔なのだろう。侵入が困難な構造には見えない。

 母屋も、金持ちの別荘にしてはそれほど広大なつくりではない。


(2か3LDKってとこ?)

 KとDが続きの部屋を外から覗き込みながら、わたしは唇を尖らせた。もう随分使われていないのか、調理台は埃を被って、しんと静まりかえった部屋の暗がりがやけに恐ろしく思える。

 この塔の持ち主は、生涯妻帯はせず、ここで晩年を過ごしたという。

 凄惨な最期を遂げたとも、ひっそりと孤独な死を迎えたとも伝えられているとか、なんとか。この別荘が今はおどろおどろしい廃屋になっているのが、すべての答えだろう。


(あれ……)

 ふと、キッチンの壁にかけられている調理器具に目が行った。思わずぴたりと足が止まる。繋いだ手が引っ張られて、カイニスが怪訝な顔で同じ窓を覗いた。


 持ち手と同じ向きの辺が長い、長方形のフライパンだった。

 こちらの世界に来てから、興味のあるところは色々覗いて回ったと思う。どんな料理でも作ってみせる公爵家のキッチンに、あんな形の調理器具はなかったはずだ。

 一般に出回ってるものじゃない。

 なら、持ち主が特別に作らせたものかもしれない。


(……あれって、卵焼き器?)

 ひやりと、胸の内側を冷たいものがよぎる。

「どうした?」

 囁く声に、わたしは我に返った。「なんでもない」と答えて歩き出しながら、心臓がいやな脈を打っていた。何の確証があるわけでもない。


 でも、

 ……変わり者の金持ちが、晩年をひとりで過ごした、人里離れた別荘。

(わたしも、もし日本に帰れなかったら、iPhoneみたいな形の金属板をずっと撫でてるおばあちゃんになるかも……)

 ぞっとしない想像に、わたしは身震いした。



 ふかふかの地面は足音を吸い込み、誰に見つかることもなく無事に建物の裏へと辿り着く。

 首を伸ばして窓から室内を覗き込めば、部屋の中央で椅子に縛り付けられた少女の姿がある。セシリアだ。


 開いたままの扉からは隣の部屋が見え、見張りと思しき男ふたりが何やら下品な話で盛り上がっている。絵に描いたような荒くれ者の風貌をしており、できれば関わり合いにはなりたくない感じである。


 そんな中、セシリアは目を閉じ、ぐったりと右肩に頭をよせて項垂れている。気絶しているようだ。


「俺も怪しい煙みたいのを吸わされて、一晩ああなってた」

 耳打ちされて、わたしはセシリアを改めて凝視した。

「犯人の顔は見たの? あそこにいる二人のどちらかだった?」

 カイニスは目を眇めて隣室を見透かす。数秒おいて、「いや」とかぶりを振った。


「学生……だったと思う」

 壁にぴったり貼り付いたまま、彼はげんなりした顔で男たちを眺める。

「あいつらが背後に迫ってきてたら、体臭とかで気付くよ」

 と、そこで言葉を切って、顎に手を添えた。ややおいて呟く。


「あまい匂いがした」

「甘い匂い?」

 なにかの手がかりのような発言だ。勢い込んで聞き返すと、室内の方から人が立ち上がる気配がする。


 おい、なにか声がしなかったか? いや、俺は何も……。

 そんな会話が聞こえて、カイニスはふたたび呆れ顔でわたしを見た。身振りで「ごめん」と合図をする。

「あんたやっぱりふざけてるだろ……【時間遡行:十五秒】」

 ぱちんと時間が区切られて、十五秒前に戻った。男たちは大人しく隣室にいる。


「……それって、女性ものの香水とかじゃない?」

 今度こそよくよく注意して声をひそめる。そうかも、と小さな声で彼が答える。


 犯人が女子学生? 思い当たる節は……ない。


 わたしは壁に背を付けてしゃがみこんだ。

(セシリアを誘拐するなんて、わたしくらいしかいないと思ってたんだけどな……)



「とにかく、ここで俺たちが乱入して、切った張ったの大立ち回りをするわけにはいかない」

「え! 何でよ」

 また大声を出して、思い切り小突かれる。時間を戻してから、カイニスはわたしの顔面を鷲掴みにした。

 まじで騒ぐな、という目つきである。


「いいか……予想外の事態ではあるが、この機会を利用しない手はない」

 口を塞がれたまま頷く。苦しいから外してと何度か叩くが、カイニスは頑として手を緩めなかった。


「これから、ここに、エミルを誘い出す」

「ふぇ!?」

 また大声を出してしまった。手のひらで声をブロックしたカイニスが、ほれ見たことかと睨んでくる。


「そんで、エミルにセシリアを救出させれば、胸キュン間違いなし、二人は幸せなキスをして終了……というわけだ」

「なんだか適当な作戦……」

「あんたが最初に立てた作戦だよ」

 そういえばそうで返す言葉もない。わたしは首を竦めた。


 とはいえ、エミルをどうやって誘導すればいい?


「俺が呼んでくる」

 ややあって、カイニスは覚悟を決めた表情で呟いた。

「あんたはここに残って、セシリアを見張ってくれ」

「どうして? わたしも一緒に行く」

 こんな薄暗い森の廃屋に、一人で置いて行かれるなんて。不安のあまり袖を掴むと、彼はゆっくりと首を振る。


「駄目だ。時間遡行は、大きな出来事をまたいだ前後では使えない。……万が一、セシリアが殺害でもされたら、もうそれ以前に戻ることはできなくなる」

 ごくり、と唾を飲んだ。もし、セシリアが殺害されてしまったら、わたしも日本には帰れなくなる。


 緊張が伝わったのだろう。彼は私の両手を強く握り締めた。

「だから、あんたに残って欲しいんだ。もし危ないことがあったら、すぐに遡行申請をしていい。……俺は、ぜったいに応えるから」

「……ほんと?」

「ほんとだ」

 眉根を寄せて聞き返したわたしに、深く頷く。


 これを、と手渡されたトランシーバーを胸の前で抱いて、わたしは長い息を吐いた。

(これがあれば、いつでもやり取りできるものね)

 彼の指先がするりとわたしの手の中から抜けてゆく。ふっと冷たい空気が頬に触れて、自分の姿が外から見えるようになったと気付く。


「日暮れまでには戻る」

 そう言って、彼の姿は森の薄暗がりのなかに溶けて消えた。

 足音が消えて十秒もすると、わたしは居ても立ってもいられなくなっていた。

(え! 不安! ものすごく不安!)

 わたしはそろそろと腰を浮かせて、ふたたび窓の中を覗き込む。セシリアはまだ気を失っている。


「それにしても、随分かわいい嬢ちゃんじゃないか。味見くらい構わないんじゃないか?」

(あーっ! 駄目駄目!)


「おい、手出しはするなよ」

(片方はまともだ! よかった……)


「依頼主は、このお嬢をじっくりいたぶりたいらしい。傷ひとつつけるなと仰せだ」

(あっ駄目だ!)


 窓の外で百面相をしながら、わたしはセシリアをはらはらと見守った。いざとなれば石でも投げ込んで戦う覚悟はできてるけど、それは最終手段だ。

(どう考えても勝てないし……)

 エミルが来ないとセシリアを救出できないなんてやきもきするが、なすすべがないのも事実。わたしは窓べりに掴まったまま歯噛みした。


(それにしても、依頼主っていったい誰なの?)

 カイニスは女子生徒じゃないかと言っていた。でも、セシリアを狙う動機があって、こんなアウトローな人たちを雇うことができる女の子なんていたかしら?



 じっと息を潜めて見張っているうちに、時刻は既に夕方に近づきつつあった。

「ん……」と声を漏らして、ついにセシリアが瞼を上げた。

 頭を起こして、周囲を見回して、隣の部屋にいた男たちを見つけて息を飲む。セシリアが目覚めたことに気付いた男たちは、立ちあがって近づいてくると、揃って下卑た笑みで彼女の顔を覗き込んだ。


(ああ……怯えてる!)

 本当なら今すぐにでも駆け寄って声をかけてあげたい。セシリアちゃんは気丈に男たちを見上げているのに、なぜかわたしの目が潤んでしまう。

「……こ、ここは、どこですか? 何の目的で私を連れてきたんですか?」

 震える声でセシリアが問いかける。男たちは顔を見合わせた。にやにやしながらセシリアを眺めるが、指一本触れようとしない。依頼主からよほど金を積んで厳命したらしい。


「もうじきあんたを攫ったお嬢が到着するところだ……ああ、ちょうど来なさった」

 表の方で物音がする。馬車が到着して、玄関から誰かが入ったみたいだ。正面に回ろうか少し迷って、わたしはそのまま窓の外で待機した。



 程なくして、軽い足音が近づいてくる。学園で指定されているローファーの音に聞こえた。慌てた様子はなく、しっかりとした足取りだ。

 犯人の顔を拝んでやろうと、わたしは意を決して身を乗り出した。


「ご苦労。私が呼ぶまで下がっていてちょうだい」

 荒くれ男ふたりにも一切動じた様子もなく、その少女は静かに室内へと足を踏み入れた。


(あれは……!)

 彼女の顔を認めた瞬間、わたしは息を飲む。

(……どこかで、見たこと、ある!)


 見慣れた制服を身につけて、癖のない黒髪を肩の高さで切り揃えた女子生徒である。あまり大柄ではなくて、むしろ華奢なくらいで、童顔でかわいい感じ。

(リボンの色からして、わたしやセシリアと同級生で……雰囲気からすると良いところのお嬢っぽくて……)

 そんな条件に当てはまる生徒はいくらでもいる。今度こそわたしは困り果てた。


(……えっ! 誰だっけ!?)

 何の授業で一緒だったかも分からない。正直、エミルとセシリアの動向に気を配るのでいっぱいいっぱいで、他の生徒のことは有象無象くらいに思っていた節がある。

 これも反省ポイントだなぁ、とわたしは物陰でひとり眉を下げた。



「ごきげんよう。手荒な真似をしてごめんなさいね」

 宵闇が忍び寄る廃屋の一部屋で、彼女は冷ややかにセシリアを睨みつけていた。セシリアも負けじと少女を見つめ返す。

「……ユリナさま、ですよね」

(ユリ……? 何だか、聞いたことがあるような)

 わたしは顎に手を当てて首を傾げる。記憶を探って目を伏せたとき、セシリアが挑発的な口調で問いかけた。


「いつもはサフィーナさまと一緒でしたけれど、今日は違うの?」


 ……頭が真っ白になる。

 え、と声が漏れた。


 崩れかけた壁の裏にへたりこんで、わたしは両手で口を押さえる。


 思い出した。

(いつも後ろにいた、サフィーナの取り巻きの子だ)


 でも、どうして、サフィーナの取り巻きが、セシリアを攫うの?

(わたし、何も指示なんてしてない)

 耳の奥で、急速に血が早く流れ出すのを感じる。なにかがおかしい。


 ユリナが澄んだ声で応える。

「これが、サフィーナさまの指示だと思っているの? ほんとうに鈍いのね」

 違うのですか、とセシリアが強ばった声で応えた。

「だってあなた、いつだってサフィーナさまの言いなりでしたでしょう」

 わたしの呼吸は自然と早くなっていた。なにかとんでもなく嫌な予感がする。


「そうね、初めは、父に言われて取り入ったわ。サフィーナさまは、そんなことはきっと全てお見通しのうえで、私を傍においてくださった……」

(お……お見通しだぜ)

 わたしは渋い顔で頷いた。どちらにせよ、態度が悪くて嫌われがちなサフィーナに近づくのなんて、甘い汁を吸いたい方々に違いない。

「けれど、おそばにいるうちに、本当にサフィーナさまを慕うようになってたの」


 部屋の隅を向いたユリナの横顔に、憂いがよぎる。

「あなたが来てから、サフィーナさまは変わってしまったわ」

 どきんと心臓が跳ねた。

(エミルの心が離れていくのを感じてから、サフィーナの焦りようはすごかった)

 サフィーナは確かになかなかいい性格をしたお嬢である。平気で人を排除するし、上下関係に厳しいし、口調はきついし。

 でも、一本筋の通った少女ではあった。

 サフィーナは怯えていた。それまでの誇り高いお嬢様の態度をかなぐり捨てるほど、セシリアが憎かった。


「……私は、サフィーナさまに元に戻ってほしかった」


(たしかに、ずっと傍にいた友人なら、心配して当然よね)

 わたしは胸元でトランシーバーを握り締める。

 サフィーナにも、気にかけてくれる友人がいたことが、わたしは本当に嬉しかった。

(誘拐なんて、良くないことだって重々承知してるけど、なんならちょっと泣けてきた……)

 そっと目元を拭おうと、片手を浮かせる。


 気圧されたように黙っていたセシリアが、抑えた声で応じた。

「サフィーナさまが意地悪な方なのは、初めからです。私のせいじゃありません」

 そうね、とユリナは静かに肯定する。

 そのあとに、彼女は「でも」と呟いた。



 間を置いて、ユリナは憎々しげに呻く。

「――あなたが入学してしばらくすると、サフィーナさまはあなたの後ろをウロチョロとついてまわり、物陰で奇っ怪な踊りを踊るようになったわ」

 セシリアの口から、怪訝な声が漏れた。わたしは窓の影に隠れた中腰の姿勢のまま、しばし凍り付く。


 ユリナが凶行に踏み切るに至ったきっかけは、この一年近くのサフィーナの変貌だったという。

 まるで別人のように変わり果てたサフィーナというのは、つまり、それって……。


 真っ白になった頭が正気に戻るまで、十秒ほど要した。ようやく理解が追いついて、わたしはがばりと立ち上がった。

「……じゃあ、全部、わたしのせいやないかい!」


 思わず渾身のエセ関西弁が飛び出して、窓の中の二人の視線がこちらを向く。

 視線がかち合い、二人揃って口がぽかんと開くのを見ながら、わたしはすぐに遡行申請をした。




(やばい! やばい! 事態が変わってきたよ)

 わたしはトランシーバーの電源ボタンをつけて、「もしもし?」と囁く。返事はない。

 トランシーバーは携帯電話ではないから、距離が離れたらやりとりはできないと気付くまで、時間がかかった。


 力なくへたり込めば、尖った草の先が足を刺す。

(ぜんぶ、わたしが来たせいで、おかしくなったんだ……)

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