第8話 これからは悪役令嬢もフィジカルの時代
セシリアは早朝に寮を出て、行方が知れなくなった。
人を襲うなら暗がりで。
みんな共通認識のセオリーである。にも関わらず早朝に犯行が行われた理由は明らかだ。
単純に、セシリアは夜間に寮を抜け出すような不良ではない。
呼ばれた人の名前をはっきりさせずに外出したみたいだから、呼び出しに使われたのは恐らくエミルの名前だろう。エミルも、校則を違反してまでセシリアを夜中に呼び出すようなひとじゃない。
そして、消灯前の夜では駄目な理由があった。
今日じゃなければならない理由もあった。
わたしの予想が正しければ、セシリアは裏庭に来るよう言われたはずだ。時間は朝の五時半。
(……その時刻に、裏庭近くにある西の通用門が開かれる)
わたしは立ち上がり、窓際から女子寮の玄関先を見下ろした。
日没を過ぎると、原則として学園の敷地からの外出は禁止される。出入りには門番への生徒手帳の提示と、記録簿への記入が必須で、必ず痕跡が残る。
門がつぎに開かれるのは、朝に搬入のための荷馬車が出入りするときである。多くの業者が出入りする都合上、門番によるチェックはない。馬車の中が検められることもない。
とくに、今日は洗濯物を回収する業者が来る日だった。この日は、普段よりも門が早くひらく。間違っても生徒の集団が散歩なんてしていない時間帯だ。
出入りの業者に協力者がいれば、すこし道を逸れて裏庭で待っているセシリアをひょいと馬車に押し込んで、学園を出ることができる。
ほとんど時間はかからない。
そこまで考えたところで、背筋に冷たいものが走る。気付けば指先が震えていた。
……ぜんぶ、わたしが考えた計画そのままだった。
わたしは、この計画を、カイニスに話したことがある。
空の食器が乗ったお盆を持って、わたしは静かに扉へ歩み寄る。軽くノックすると、人の気配がして、扉が薄く開けられる。
「こちらのお盆、持っていって頂いてもよろしくって?」
顔を出した警備員にお盆を手渡して、わたしは扉の隙間から周囲をすばやく確認する。警備はふたり。
「それと、空気の入れ換えをしたいのだけれど、窓の立て付けが悪いのか、うまく動かせないの。力を貸してくださる?」
有無を言わせずに室内を指さすと、警備員は顔を見合わせた。目顔で数秒やりとりをしてから、お盆を受け取らなかった方が恐る恐る部屋に入ってくる。
「どちらの窓ですか?」
「そこの、角のところです」
言いながら、わたしはじりじりと出入り口に近づく。
外からこちらを見ていて、怪しい動きに気付いた警備員が声を上げようとする。わたしは息を詰めてかけ出すと、警備員が両手で持っていたお盆を思い切り跳ね上げた。顔に向かって飛んできた食器に驚いた隙を突いて、わたしは淑女にあるまじき全力疾走で廊下へと飛び出した。
「待ちなさい!」
背後から声が飛ぶ。きゃあっと悲鳴を上げる女子生徒たちをかき分け、わたしは突き当たりの窓を一心に見つめて足を速める。
ほとんど壊すみたいにして両開きの窓を開け放つと、裾をたくし上げて桟に飛び乗った。今度こそ甲高い絶叫が背後で響く。
ここは二階だ。はるか遠くに感じる眼下を見下ろして、わたしはごくりと唾を飲んだ。
勢いのまま、窓枠に手を添えてぐっと前傾姿勢になる。
そうして、わたしは思い切り外へ向かってジャンプした。
誇り高き公爵令嬢サフィーナご乱心の瞬間である。
数々の悲鳴を背に、派手な水飛沫が真昼の空中に舞い上がった。
足のつかない池の中で水を掻く。靴を頭に乗せ、ずぶぬれの靴下はどこかに放り投げて対岸まで泳ぎ切ると、わたしは勢いよく両手で身体を引き上げた。ちょうど居合わせた学生がキャーッと悲鳴を上げて逃げてゆく。
靴を逆さにして水をあけ、素足のままの両足を突っ込む。芯までしっかりと濡れた髪を片手で絞って、わたしは迷いなく走り出した。
昨晩、消灯時間を過ぎたとき、時間遡行が許可されなかった。
わたしはそれを、彼が怒っているからだと思った。
(わたし、あんまり後ろめたくて、いっそのこと彼に怒ってほしいと思ってた)
都合の良い解釈だ。考えればすぐに分かったのに。
彼が、理由もなくわたしの遡行申請を棄却することは、今まで一度だってなかった。
時間遡行は、わたしが申請して、彼が許可することで実行される。実行されないのは、彼が遡行を許可しないか、あるいは――
(――遡行を許可できる状態に、ない)
彼が寝ている間は、時間遡行は行われない。でも、こんな昼間まで寝てる? 自室にいないのに、どこで?
カイニスが時間遡行を実行するところは見たことがある。時間遡行と唱えて、指を鳴らす動作だ。
(彼は、気絶しているか、身動きが取れない状態なんじゃない?)
つまり、何者かによって捕まっている、かもしれない。
息が上がるけれど、足を緩めることはできなかった。
走れば走るほど、全身の色々なところから雫が散る。わたしが通ったあとの綺麗なモザイク模様の石畳に、不規則な水玉模様が残されていた。
昨日の晩には、既にカイニスは時間遡行を使えない状態だった。
既に門は閉じている時間だ。夜の間、カイニスは学園内にいた。セシリアを誘拐したとみられる馬車の動線からしても、カイニスを一緒に連行することは難しい。
彼は、まだ学園内にいる。
わたしから酷いことを言われて、それでも彼がいつもみたいに、わたしの部屋に来てくれようとしていたとしたら?
男子寮と女子寮の間で、人ひとりを隠しておける場所は、あまり多くない。
(わたし、気付いたよ)
腿を二回叩く。荒い呼吸のあいまに、遡行申請と唱える。
この合図は、どんなに距離が離れていても、彼の意識がある限り、同じ世界にいる限り、どんな自然現象にも遮られることなく彼に届く。そう聞いている。
(いま見つけるから、返事をして)
何度も遡行申請をするが、答えは返ってこない。時間は戻らない。
部活動のための倉庫を覗いても彼はいなかった。鶏小屋の裏にある飼料置き場を見ても、旧校舎そばの焼却炉のところにも、どこを探してもいない。
思い浮かべた場所のすべてを回っても、彼の姿はなかった。
心細さから自然と涙が浮かんできて、わたしは強く唇を噛んだ。背にしている旧校舎の向こうから、サフィーナを探す声が近づいている。捕まったら問答無用で連れ戻されて、今度こそ脱走できないように監視がつけられるに違いない。
逃げなければ、と右手に足を向けた。校舎の角を曲がろうと一歩踏み出した瞬間、人影が飛び出してくる。
わたしを追ってきた警備員だった。さっと血の気が引く。腕を掴まれ、もう駄目だと覚悟を決める。
そのとき、ぱっと、警備員の姿が消えて、わたしは旧校舎の裏で焼却炉を見つめていた。
理解するのに、時間がかかった。
立ち尽くしている間に、再度、目の前が眩む。蟻の列がわずかに短くなる。影のかたちが変わる。白い雲が、数秒前の位置まで戻る。
校舎の向こうからサフィーナを探す声が聞こえて、我に返った。わたしは大きく息を吸うと、今度は左手を向いて、勢いよく走り出した。
遡行申請を唱えると、時間が戻る。姿が見えないまま鳥が呼び合うのに似ていた。
彼は無事だ。意識を取り戻したか、動けるようになったのだ。
追っ手に捕まりそうになるたびに、時間を戻して道を変える。そうして学園内を逃げ惑い、走り続けるうちに、疲労は頂点に達しようとしていた。
中庭の噴水のそばで、つい足が鈍って、思わず水盤のふちに手をついてしまう。
「こっちだ!」と声がしたのは、そのときだった。
声の主の姿を視界に捉えるより先に、目の前が真っ暗になった。強く抱き竦められた途端に、熱いものが目頭に滲む――より先に、再び視界が明るくなった。
「冷たっ! えっ濡れてる!?」
しかもちょっと臭い!
わたしから距離を取りながら、彼が両手を勢いよく振って水滴を飛ばす。
散々な言いようにわたしは半目になった。
びしょ濡れの髪を頬に貼り付かせたままため息をつく。身を挺した大脱出と、懸命な捜索と、感動的な再会が台無しである。
涙に咽びながら謝罪するくらいのつもりでいたのに、いまの一言でそういう雰囲気ではなくなってしまった。
「セシリアが誘拐されたの。わたしが疑われて部屋に入れられてて、脱走するために二階から池に飛び込んだから、ちょっと」
手短に伝えると、彼の顔色が変わる。
「俺も、昨晩外出した隙に、背後から殴られた。それから、裏の森の中に縛られて放置されていて……」
そう言ってみせられた両手には、縄できつく縛られた痕が残っていた。無理やり抜け出したのだろう、皮膚がこすれて血が滲み、痛々しい傷跡が刻まれている。
裏の森の立地を思い浮かべて、わたしは眉根を寄せた。
あそこに転がされていたということは、彼は昨晩裏庭のあたりを彷徨いていたのだろう。セシリアが誘拐されたと思しき地点と同じ。
「どうして、夜にあんなところを出歩いていたの?」
「距離感の下調べをしようと思ったんだよ。セシリアを誘拐……というか、なにか仕掛けられないかと思って。せいぜいドッキリ程度にマイルドな感じでさ」
わたしは思わず暗い顔になった。セシリアを誘拐しちゃえば良いじゃんなどと安易に口走っていたのを思い出す。
「あんたの案は、別に悪くないんだよな。やりようによっては全然ありだ、と、昨晩思った。そしたら襲われた」
そんなわたしの反省も知らずに、彼は平然と頷いている。
昨日の発言のことも謝るタイミングを逃して、わたしはもじもじとしながら濡れた髪を弄った。
「セシリアが誘拐されたってのも、たぶん裏庭だと思うの」
「つまり、俺を殴って森の中に投げ込んだのは、セシリアを誘拐したのと同じ犯人なんだろう。心当たりは?」
無言で首を振った。彼も同じ反応だ。
誰が犯人かも、その目的も分からない。今すぐにでもセシリアを見つける必要があった。
「前に、人を幽閉するのにちょうど良い廃屋があるって言ったじゃない」
そう一言告げただけで、彼はすべて合点して頷いた。
彼は空腹が限界に達しているし、わたしはびしょ濡れである。
学園内にいると、いつ警備員に見つかってもおかしくない。
「手ぇ貸して」と差し出された手を取る。直後、身体の表面を薄い膜が覆うような感覚がした。
「周りから見えなくした。音は隠せないから騒ぐなよ」
わたしは目を丸くした。今までにも何回か見たことがある。彼が、突如として姿をくらましていたのは、こういうことだったのだ。
「本来はあんたの立場じゃ使えないものだけど、緊急事態だから」
そう言って、彼はわたしの手を引いて歩き出した。わたしは感嘆して周囲を見回す。すれ違った教師は、こちらに見向きもしなかった。すごい!
ひとしきりわくわくしたあとになって、繋がれた手に気付いた。小さく震えて、やけに冷たい。
「……さっき、あんた、ひっきりなしに遡行申請をかけただろ」
「ご、ごめんなさい」
どんな形で申請が届いているのかは分からないけれど、彼だってそれどころじゃなかったはずだ。ばつが悪くて俯くと、しばしの沈黙が落ちた。
「あれのおかげで、意識が戻った。でも手足も口も縛られてて、時間遡行も使えなかったから、」
ややあって、彼はぽつりと呟いた。横顔を覗き込むと、血の気が失せて憔悴しきった表情をしている。
「あんたが、危険な目に遭ってるかもしれないと思うと、気が気じゃなかったよ。暴漢にでも襲われて、必死に助けを求めているんじゃないかって」
どちらかというと警備員を襲撃した暴漢はわたしの方である。
が、言わない方が良さそうな雰囲気だったので、わたしはしばらく遠くの空を見上げて黙っておいた。
「わたしもね、昨晩、時間を戻そうとしたの。時間が戻ったからってあなたには通用しないのに、昨日の失言を取り戻したかった」
握られた手に力を込めて握り返す。
「でも戻らなかったから、わたし、てっきりあなたが怒って無視したんだと思っちゃったの。そのときあなたは襲われて大変なことになってたのに」
ごめんなさい、と告げた声は震えていた。
が、返事がない。不自然な沈黙に耐えかねて視線をやると、彼は明後日の方向に顔を向けていた。
どうやら無視したことは事実だったらしい。
無言で脇腹を小突くと、「無事だったんだからいいだろ」と憎まれ口が返ってくる。普段みたいに、突き放すような言い方で、少し冗談めかした口調だった。
それを聞いた瞬間、いちど引っ込んだはずの涙が急激にぶり返してきて、わたしは引きつった声を上げた。
「えっおい、なんでだよ」と肩を叩かれるが、情けない泣き声しか出てこない。
やっとの思いで呼吸を整える。わたしは手の甲で目元を拭った。
「うん、無事でよかった……」
感動的なことでも言って泣かせてやりたかったのに、簡潔すぎる一言しか出てこない。
もっと何か言いたくて、言葉を探す。適切な単語を拾うより先に、顔が温かいものに押しつけられた。
「音は隠せないって言っただろ、騒ぐな」
わたしの頭を胸元に抱え込んだ彼の声も波立っている。
「いいか、俺は人間でもなければ生き物ですらないし、あんたが俺の安否を心配して泣く必要なんて一切ないんだ」
なだめる声を聞きながら、額に生き物の熱と鼓動と呼吸を感じていた。
「心配するよ。しない訳ないじゃん」
呻くと、背中に添えられた手のひらに力がこもった。
***
わたしが服を着替えて店を出ると、カイニスが馬を引っ張ってくるところだった。金に糸目をつけずに馬車を借りてくると自信満々だったはずだけど、明らかに「車」部分が不足している。予算が足りなかったらしい。
「お、おうまさん……」
肩の高さがわたしの頭より高い、立派な体格をした黒毛の馬である。お馬さんらしい優しげな目つきとはいえ、頭上から鼻息を感じるとなかなか緊張するサイズ感だ。
乗馬の経験は、ない。サフィーナはあるけれど、わたしはない。あいにく日本の義務教育にも普通科高校にも馬術の科目はない。
(この体が覚えてるといいけど……)
臆したのを見て取ったか、「ランボルギーニが良かった?」と耳打ちされる。軽口のおかげで、ほっと肩の力が抜ける。
「あれがいい。えっと……ラルフローレン」
「服屋だよ」
手厳しい指摘に首を竦める。だって車のロゴってTとかSくらいしか知らないし……。
「まあ、そりゃ乗り心地でいえば四輪派だけど」
言いながら、わたしはそろそろと引け腰で馬の側方に回り込んだ。
「四つ脚も好きよ。浪漫があるものね」
ゆっくりと上下している首筋に手のひらを押し当てて、わたしは「よし」と気合いを入れ直す。
「セシリアを助けに行くわよ! さ、乗っけて!」
尻を持ち上げろと身振りで指図すると、特大のため息が聞こえた。
「ふつう悪役令嬢はケツ押せなんて言わないよ」
文句交じりに容赦なく押し上げられて、あっという間に馬上に収まる。一気に高くなった視界から、わたしは彼に向かって親指を立ててみせた。
「あのね、わたしは確かに悪役令嬢だけど、それ以前にみんな、自分の人生の主人公だから!」
あなたもね、と念押しすると、カイニスは目を丸くした。
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