第7話 異変
「サフィーナさま、次の授業がはじまってしまいます」
優しく肩を叩かれて、わたしははっと顔を上げた。心配そうに顔を覗き込んでいるのは、サフィーナの取り巻きのひとりである。
慌てて立ち上がって辺りを見回せば、教室には誰も残っていない。
「最近、なんだか疲れてらっしゃるように見えます。なにか心配事でも……?」
おずおずと訊かれて、わたしはぎくりとした。艶のある黒髪ボブが少し日本風で、いつもついつい視線を向けてしまう子だった。控えめな子だと思っていたけど、なかなか着眼点が鋭い。
「……な、なにもないわよ。心配いらないわ」
周りから見て分かるほどだっただろうか? わたしは作り笑いを浮かべると、机の上の教科書を抱えてそそくさと教室を出た。
軽い足音が追ってきて、袖を引かれる。
「待ってください、サフィーナさま……ほんとうに体調が悪そうです。医務室に行った方が」
「あなたには、関係ないでしょう」
思わず強い口調が出た。彼女は息を飲んで手を引っ込める。なにか言おうとするが、返答を待たずにわたしは踵を返して歩き出した。
早足で廊下を歩きながら、心臓がいやに早鐘を打っていた。窓の外のすこし煙った晴れ空を見る。
冬が過ぎた。校庭の雪はあらかた溶けた。
もうじき卒業の日が来る。タイムリミットが来る。
エミルとセシリアは未だに思いを通じ合わせない。
***
「だから、馬車を一台貸してくださいとお願いしているんです!」
声を高くしたわたしに、サフィーナの両親は顔を見合わせた。
公爵邸の玄関先で言いつのるわたしの肩を抱いて、母がやさしく宥める。
「もちろん構わないわ。でも、何の用事で必要なのかだけ聞かせてほしいの」
「それは、その……」
言えない。同級生を誘拐して危険に晒すためだなんて、言えるわけない。
口ごもるわたしに、父は低い声で言い放った。
「いい加減にしなさい、サフィーナ」
恐る恐る顔を上げれば、父が静かにこちらを睨みつけている。
「お前は、ここのところ学園でも問題行動を起こしていると聞いた。エミル殿下との婚約に関しても、妥当性が危ぶむ声が出ている」
「そのことはっ」
目論見通りではあるんだけれど、この場では邪魔でしかない。
「素行も悪い。頼み事をするときの筋も通さない。そんな娘に、うちの家紋がついた馬車を貸せるわけがなかろう。せめて何の目的で馬車を借りたいかくらい、自分の口で説明しなさい」
「うう、悪役令嬢の親のくせに真っ当すぎる……」
結局、なすすべなくわたしは実家からすごすごと退却した。
角を曲がったところで、「どうだった」とカイニスが姿を現す。無言でかぶりを振ると、彼はうーんと唸った。
「大丈夫か? ひどい顔色だ」
「大丈夫じゃないわよ……」
様子から察するに、エミルは卒業という区切りを終えてから、サフィーナとの婚約破棄およびセシリアとのことに関する手続きを進めるつもりらしい。
学園で騒動は起こさない、その心がけは素晴らしい、たいへん素晴らしいんだけれど、こちらとしては何としてでも在学中に行動に移してほしいのである。
なんてったって、卒業式までに二人が何とかしてくっついてくれないと、わたしは日本に帰れない。そういう取り決めだ。
いくらあと一歩のところまで行っているとしても、求められているものは学園ドラマであって、それを「納品」できないと失敗の扱いになるという。
たいへん都合の良いことに、サフィーナの実家と学園は徒歩圏内にある。
学園へ続く長い上り坂は夕陽を受けて、石畳の陰影がくっきりと浮かんでいた。柔らかい風が頬をなでるのに、わたしの心はちっとも和らがない。
馬車が音を立てて往来の中央を行き交うなか、わたしたちは建物沿いの隅っこで肩を寄せ合った。
「やっぱり、セシリアを誘拐してどこかに閉じ込めて、エミルをけしかけて救出しにいかせるしかないのよ。郊外にちょうどいいボロ塔があるって言ったじゃない。距離があるから、馬車を調達しなきゃいけないわ」
「別に、それしかないってことはないだろ。あんたらしくない」
「じゃあ他に何の案があるの?」
「ないけど……」
ぎっと力を込めて睨みつけると、カイニスは眉根を寄せた。
「俺は、あんたには、そういうことさせたくないよ」
あまりに悠長な発言に、かっと頭に血が上る。
わたしは、この物語が規定の終わりを迎えなければ、日本に生きて帰れないのだ。そうと知っていながら、彼の態度はのんびりしすぎているように思えた。
「なあ落ち着けよ、まだ猶予は半月近くある」
焦りと苛立ちで、いてもたってもいられない。優しい声かけも、その場しのぎの慰めにしか聞こえなかった。
「半月しか、ないのよ! どうせあなたには分からな――」
勢い任せだった。完全にわたしが悪かった。ひどい台詞が出かけて、わたしは咄嗟に口を覆ったが、もう遅かった。
カイニスは目を真ん丸に見開いて一歩下がる。傷ついた表情だった。
「ごめ、」
謝るより先に、彼はわたしに背を向けて歩き出した。わたしはつんのめって彼を追いかける。
「ねえ待って、違うの、そんなつもりじゃなくって、」
「俺の反応を気にしなくたっていい。あんたの言うことは正しいし、このストーリーが成就しようがしまいが、どうせあと半年で消える縁だ」
ぴしゃりと、水を浴びせかけられたようだった。
もし、わたしたちが失敗したら、わたしは日本に帰れず、この世界にサフィーナとして残ることになる。
わたしは、何らかの断罪を受けて、すぐに命を落とすかもしれない。どこかへ島流しになるのかもしれないし、案外なにごともなく日常が続いていくのかもしれない。
でも、それでも。
「わたし、ひとりでこの世界で生きていくなんて、できない」
震え声でつぶやくが、返事は冷淡だった。
「そうか? あんがい馴染んでるぜ、あんた」
こちらを振り返りもせずに、彼は早足で歩いて行ってしまう。
いつもなら、多少揉めても、彼の方から折れてくれていた。
今晩はわたしの部屋で作戦会議をする予定だったけれど、消灯時間を過ぎても彼は姿を現さなかった。
「……【遡行申請:六時間】」
机に突っ伏して二本指で天板を叩くが、時間は戻らない。
鼻の奥でぐずぐずと音がする。枕にした片腕が濡れていくのを感じながら、わたしは目を閉じた。
***
激しい破砕音で目が覚めた。かなり日が高い位置にあり、一瞬まぶしさに目がくらむ。
音のする方を振り返るのと、背後の扉が中央から裂けるのは同時だった。
一瞬、カイニスが来たと思った。笑顔で立ち上がろうとして、「サフィーナ!」と響いた怒声にへたり込む。
「セシリアになにをした! 言え!」
エミルだった。背後から寮母がすがりつくのを振り払って、彼は大股で部屋に入ってくる。
訳が分からずに凍り付くわたしの胸ぐらを掴んで、エミルは顔を歪めて怒鳴った。
「セシリアが消えた! ひとに呼ばれていると言って、今朝早くに部屋を出たあとのことだ!」
「わ……わたしが呼んだってこと!?」
マヌケ極まりない質問で返したわたしに、エミルが殺気立つ。
駆けつけた警備員がエミルを引き剥がすと、わたしは床に崩れ落ちて咳き込んだ。
「違うなら、他に誰がいるというんだ」
「いや……たしかに、わたし以外にはセシリアに悪さをするひとはいないと思うけれど……」
セシリアは気立てが良くて人に好かれる子である。彼女を目の敵にしているのはサフィーナくらいのもので、他にセシリアに恨みがある人なんて見たことがない。
「何をぬけぬけと……!」
「待ってくださる? わたくし、本当に何も知りませんの」
気を取り直して立ち上がり、わたしはエミルから距離を取った。
机の角を二本指ですばやく叩く。時間は戻らない。
――おかしい。
つつ、と音もなく背中を汗が伝った。
わたしの時間遡行はカイニスが許可を出すことで実行される。カイニスは遡行を許可してくれない。
(こちらが非常事態だと、分かっていない?)
カイニスがわたしに腹を立てていても仕方ない。でも、こんな局面で、子供じみた嫌がらせをするひとではない。
エミルの指示を受けて、警備員がおずおずとわたしを取り囲み、立ち上がらせる。わたしは咄嗟にエミルに向かって叫んだ。
「カイニスをここに呼んでちょうだい!」
「どうしてカイニスを? 君たちは面識があったのか?」
わたしたちは人前で一緒に行動しないように気をつけていた。エミルが訝しむのも無理はない。
「まあいい……誰か! 男子寮へ行ってカイニスを連れてきてくれないか」
エミルの指示を受けて、野次馬の人垣から数人の女子生徒があわてて走り出す。
寮母は物見遊山に集まってきた少女たちを追い散らすと、エミルのことも文句がありそうな顔で一瞥した。しかし、気が立っている王子相手に「女子寮に突撃するな」と真っ当な注意をするのも憚られたのか、結局なにも言わずにため息をつくに留める。
扉は破壊されてしまったので、わたしは別室へ移動させられた。バルコニーなどはなく、人が通れない大きさの窓しかない、狭い部屋である。警戒されているらしい。
数人の警備員が部屋の隅に立ち、わたしは寮母とエミルと向かい合って椅子に座る。まったく尋問の態勢である。寮母がつとめて穏やかな口調で問いかける。
「現在、あなたの同級生のセシリアさんの行方が分かりません。なにか心当たりは?」
「いえ」
行方不明って言ったって、早朝に出てってまだ昼前でしょ? 突っ込みたくなる反骨精神を抑えて、わたしは大人しく首を振った。
「それで、どうしてセシリアさんがいなくなると、エミルさまが大騒ぎなさるのかしら?」
代わりに、つんと顎を上げてエミルに視線を向ける。エミルは顎を引いてわたしを睨みつけると、「今朝、約束の時間になっても来なかった」と短く応えた。
「セシリアさんとお二人で約束なさっていたの? 婚約者であるわたくしの前で、随分礼儀知らずな発言ですこと」
「先に礼を失したのは君のほうだ。その自覚があるから、君もこのような騒ぎを起こしたのだろう」
エミルは完全に犯人はわたしだと決め打ちで、親の仇……恋人の仇をみる目つきである。
わたしは何度も膝を指先で叩いていた。何度やっても時間は戻らない。
程なくして、さきほど走っていった女子生徒が息せき切って駆け込んでくる。
「カイニスさんは、自室にはおられないそうです」
エミルは驚いた様子を見せず、「いつものことだよ」と肩を竦めた。
「彼はよく夜間に部屋を抜け出している。大方どこかの女子生徒と逢い引きでもしているんだろう。いつもの話だ」
んま、と寮母が青筋を立てる。わたしは沈痛な面持ちで額を押さえた。
(わたしだ……)
十中八九どころか、十中十でわたしだ。
こうなると、カイニスの居場所は誰も分からないことになる。
「それで、どうしてカイニスを呼んだんだ?」
「えと……中立的な立場のひとを呼んだ方がよろしいかと思って」
適当な応答に、エミルの顔に疑問が浮かんだ。
「まあいい」と彼は机に手をついて立ち上がった。わたしから目を離さないよう警備員へ頼むと、部屋を出て行こうとする。
「セシリアは、数日前から、誰かにつけられている気がすると言っていた」
扉を睨んで、エミルは低い声で呻いた。焦燥感の募る背中に、わたしはごくりと唾を飲む。
最悪の場合が頭をよぎる。エミルも同じ想像をしているはずだ。
こちらを睨んだ彼の眼差しは凄惨だった。真っ青になって脂汗を滲ませ、体を震わせてわたしを見ている。
背筋がひやりとして、わたしは唐突に自分のしようとしていたことを悟った。
(ちょっとヒロインを脅かしてやればいいなんて、どうしてそんなことを言えたんだろう?)
「わ……わたしも、あの子を探すのを手伝うわ」
「結構だ」
立ち上がったわたしから視線を外し、エミルは扉を開けて今度こそ部屋を出て行った。
寮母が遠慮がちな口調で、部屋の前に警備員を立たせるから、今日は一日外出しないようにと言い聞かせる。
わたしはへなへなと座り込み、閉じられた扉を見つめていた。
ようやく我に返ったのは、正午過ぎに食事が差し入れられてからだった。
食堂のお盆と食器で運ばれてきた昼食は、すでに冷めてしまっている。食堂からは距離があるから無理もない。
女子寮は学園の中でも最も奥にあり、他の施設や校舎からも距離がある。数十年前にこの場所へ移転するまでは、女子生徒を狙った事件もあったとかで、安全に配慮された立地なのだ。
そんな女子寮で生活しているセシリアに危害を加えるのは、なかなか簡単なことではない。
どうして断言できるか。わたしも、今回の事件と同じことを計画して、下調べを行っていたからだ。
(……セシリアは、人に呼ばれて、早朝に寮を出ていった)
冷めたスープを飲み終えたころ、わたしは胸の内で確信する。
これは学内に詳しい人間の犯行だ。
そして、学外に協力者がいる。
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