紅い記憶⑧

「なあ、速水。お前は本当にそんな状況で入試を受けるのか?」


 教師は自らが速水と呼んだ少女の、膨らみのある腹部を見ながら、そんなくだらないことを尋ねる。だが、少女は興味がないとでも言いたげな目で、短く「えぇ」と答えただけだった。


「なら、無理に受けるなとは言わんが……」


 教師はこめかみ辺りを軽く叩きながら、悩ましげな声を漏らす。


「私がこの程度のハンディキャップで東大なんかに落ちると思いますか?」


 少女の言葉は何処までも冷たく、そして自信に満ちあふれていた。


「妊娠に関してはお前の問題だから、あーだこーだは言わんさ。でもな、入試会場で何かあったらどうするつもりだ?」


「あら、それには及びませんよ先生」


 少女は自信満々にそう告げる。


「どういう事だ?」


 教師は怪訝そうな表情で少女を睨む。だが、少女は怯むことなく言葉を続ける為に口を開いた。


「この子は、私の夫と同じで物静かな子ですから」


 その言葉に教師は間抜けな顔をして、少女を見つめる。だが、少女は満足したのか、僅かに微笑みながら、その場を後にしようとする。


「ちょ、ちょっと待ちなさい速水! おい、聞いているのか!」


 教師がそう声を荒らげると、少女はぴたりと足を止めて、先生の方を向き直る。


「まだ、話は終わって……」


「先生。それと、私は速水ではなく、『高城』です。以後お間違えなく」


 少女は凜とした響きのある声でそう言うと、今までいた職員室を後にする。まだ、教師は後ろで何かを喚いていたが、少女はもう雑音のようにしか捉えておらず、涼しい顔で廊下を歩き出す。


 階段を一つ降りて、下足室に出る。そこから空を眺めると、絵の具を零したかのような、紅い夕焼けが空に広がっていた。


 風が強く吹いて、彼女の長くて、艶やかな髪を乱していく。少女は髪を軽く梳いた後、自らの腹部に手を当てて、そっと囁く。


「びっくりしたわね」


 少女の言葉に呼応したかのように、お腹の中の子が動いた気がした。まだ、胎動を感じる時期ではないのに。


「そう言えば、あなたの名前を決めなければいけないわ」


 少女はもうすぐ夜の闇に喰われてしまう夕焼けを眺めながら呟いた。


「そうね……彼の名前と私の名前。それぞれをとって名付けようかしら」


 彼女は歩きながらぼんやりと考える。やがて、良い名前を思いついたのか、彼女は嬉しそうに笑う。


「彼の最初の二文字と、私の最後の一文字。それを合わせて――」


 彼女が呟いた名前は、再び吹いた、強い風のせいで掻き消されてしまう。でも、それで良かった。この名は少女と、彼との子供だけが知っていればいい。


 すっかり黒に染まった空を見上げて、少女は優しく微笑む。


「貴方を愛して良かった」


 もうここにはいない、誰かの元へと届くように、少女は呟く。


 彼女の言葉は訪れたばかりの夜の闇に、ゆっくりと、ゆっくりと溶けていった。


               〈了〉

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紅い記憶 @Tiat726

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