ロード・オブ・チェイン
黒い節足 Vol.1
とある場末のチェーン店。特にお洒落でもなく、ともすれば貧相さすら感じる規格化・低コスト化の先にある建物の中で、爛々と光るLEDの光にさらされて尚漆黒を保つ髪の毛を持った女が、一人で黙々と食事を続けている。
衣服までもが黒く、全身の肌という肌を手先の一部、顔を除いて覆い隠し、その上に何重もの埃と歳月をかけたかのようなみすぼらしさ、あるいは落ち着きを纏っていた。無造作に開かれた口内すら黒く見える。実際にはそんなことはなく、肉の紅さに満ちているのだが。
瞳孔すら暗く塗りつぶされていて、けれども愉快そうにせりあがった口角が、彼女の食事に対するスタンスを表していた。
座席に備え付けられたタブレット端末を手で弄る。今ではほとんど誰もが使う、共通規格を持たないもの特有の手動操作であり、人の温かみを感じる動きである。追加注文だ。前菜、スープが既に計上されており、彼女はそれを順々に味わって食べていたようである。
しかし、見る人間によってはその正体の不定形性を看破することもあるだろう。何処かおぼつかない、揺れ動くようなたたずまい。
共通規格を入れていない人間ともまた違う、張力の齎す妙な不安定さが、そしてそれによって生み出される恐ろしさが、遡り想像される力強さが、その全てが──
今はただ、不自然なほどに食事に対して注がれている。彼女はまた口を開き、ぐちゃぐちゃになったスープを茶けた樹脂スプーンですくいあげ、舌の上に注ぎ込んだ。
水分が舌の上で、のどの奥で掠れる微かな音にすら感じ入る。目を細めて、骨を伝う揺れを味わう。食器に伝うわずかな熱と、そこから離れた暖かさが食堂を通り過ぎていく場所を、彼女は脳の中で反芻した。
シリコンで覆い尽くされ、簡単な機能しか持たないロボットが、先ほど操作したタブレット端末の命令に従って、彼女のメインディッシュとなる食品を持ってくる。
細く長く、明るい赤に染まった麺類。スパゲティ、あるいはパスタと呼称される手軽な食品であり、彼女はそれがお気に入りだった。
ものも言わず、ただ光と奇妙な停止音、駆動音によってのみ存在を主張する、多少インテリなトレイの上から皿を取る。親指と人差し指で軽くつまんで、平行なままに。
無造作にして籠の中に配置されていた樹脂製のフォークを、これまた軽やかに指に挟みこんで取り出し、赤い波のように見えるパスタの中に突っ込む。そして回す、くるくるくるくるとらせん状に。
これが気に入っている理由の一つだった。彼女はくるくる回すことが好きだった。細くしなやかで、どこから幼い動きを纏って、くるくるくるくるとフォークを回している。くるくる、くるくる。
そして十分に巻き取られた小さな塊を持ち上げると、彼女はまた口の中にそれを放り込んだ。真っ暗な口内に、その赤は消えて行く。
口の中に入り込んだパスタの本数を数えながら、またフォークを回し始めた。
しばらく彼女はそうして食事を続けていたが、やがて満足いくまで食べ終わったのか、またタブレット端末を操作して支払い工程へと進む。今どき珍しいカード払いである。
多数備え付けられた上着のポケットの内、一つをまさぐる。グリーンの下地に偶像化された鎖のような模様の刻み込まれたカードケースが取り出される。
その内側に、金属光沢をもつ黒いカードが収まっていた。
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定型化された電子音声を背負いながら、自動化されたガラス扉を潜って外の世界へと出る。狭い通路と垂直に混じりあい、壁が目の前に現れ、薄暗い電灯を備える屋根と、道沿いに覗く細い外の景色が目に入った。
人の頭が入るか入らないか程度の小さすぎる隙間に格子がはめこまれ、延々と続いている。まるで独房のようであるが、周囲の人間はそれに文句を言うことなくずっとここを行きかっている。
微かに望める外の景色は悪い意味での絶景である。街の高所、目もくらむような遠くの大地が眺められるものの、そのほとんどは似たような“通路”の成れ果てである障害物に阻まれて、クモの巣のような人工物と言った印象しか与えてこない。
ここは大阪。各社の無計画な競争と、マーブル模様の陣取り合戦の成れの果てに、誰一人実態を把握することなく完成した恐ろしい実験的都市である。今彼女が立っているのはかつて梅田と呼ばれた二次元座標上への無茶苦茶な増設の果て、今やウメダ・フラグメントと呼称される断片化された“空中庭園”であり、街の不格好な心臓部でもある。
乱立する巨大なビル群はその全てが保有する企業を異として、それをつなぐ通路の権利もまた混沌としている。個人所有とすれば何処の誰が、企業所有とすればどの契約によって作られているのか、まるで知ることができない、知っているものもいない。
当然規格などバラバラであり、毎日崩落事故により幾人かが死亡し、幾人かが行方不明になっている。外生はこのような状況に対して何度も改善勧告を発布しているが、同時にすべての企業が責任を明らかにしていないために、この状況から抜け出す糸口を掴めていない。
E.Mechanicは明らかにこの都市に対していい感情は抱いていなかったし、シンノウはいつも通り適当にやっていた。Sibtechの出島めいた取引受け付けは──引きこもっていた。
そして、このとにかく黒い人間は、この無茶苦茶な世界が大好きだった。
彼女の主な趣味は街歩きである。同時に人間観察であり、環境の観察である。生身で淀んだ空気と混沌を吸い込み、罵声と路の軋む音を聞き、覗き窓から覗く無数の通路のうちのどこかが崩れるところを見るのが好きだ。そこから数人黒い点と化した人間を数えるのも大好きだ。落下点で逃げまどっている人間も面白い。
わざと問題に首を突っ込むのもお気に入りの暇潰しだ。例えば他の街では“現行地区”──人間が人間として、国家に保護されて暮らす最新の地区であり、その全てが自然災害に対して十分な耐性を持ち、治安維持に関しても十分に注意を支払われている──と“再開発予定地区”──かつての現行地区であり、現在は再開発を行う、公的には立ち入り禁止であり、人も居ないとされる区画──の完璧なローテーション(外生が定めている)があるために、そうそう治安の悪化というものは起きえない(同レベルの仲間意識を持った人間で集まるため)。だがこの街はその想像を簡単に超えている。
どこが再開発するべき場所で、どこが現行に使用されている場所なのか、まるで把握されていないのである。
これには外生の建築不動産部も苦笑いを浮かべるほかになく、また既に住み着いてしまった人間が公式非公式問わずとんでもない人数にまで膨れ上がっていたため、彼らはここに自由を認めた。要するに見捨てたのだ。もちろん企業は責任を取らない。
だからすぐに問題が起きる。棲み分けすらされていないのだ。マーブル模様の企業間抑止力が、特に無秩序に吹き荒れているのをよくよく感じる。
「クソガキ!このテナントは俺たちのもんだ!わかったらさっさとどこかに行け!」
そうこうしているうちに早速一触即発の空気感を纏った人間たちがたむろしている場所へと辿り着いた。空中通路のビル付近は激戦区でありながらも、その権利を保障する人間は何処にもいない。人望かあるいは腕っぷしか、もしくは優秀な立ち回りでもしていなければこうして場所の取り合いに発展する。
勢いで捲し立てるのは大男だ。安いがハイパワーなインプラントで固めている。
「良い腕してるじゃん、腕相撲したくなったのかい?」
彼女は無遠慮に男の腕を掴んで、ぶんぶんと雑に振り上げた。
本来外見ではわからないほどに自然な施術痕しか残さないシンノウ系の安いウェットインプラントだが、彼女は一目見ただけで何が内側に備え付けられているかを認識している。
視線をずらす。小言を言われている片側は子供であり、大して教養もなさそうで、ついでに服装も小汚い。はねっかえった茶髪に埃が絡まって、目元は隈と前髪でよくわからない。頭の回転も鈍いのか、男に何を言われても黙ったままで、事ここに及び彼女が乱入してもそれを貫いている。
「ナチュラリスト気取りかクソアマ!それとも背丈の高いだけのガキか!?」
「ナチュラリスト?馬鹿にしないでくれ」
今回首を突っ込んだのも当然趣味だ。察するに子供が何らかの理由で(彼の哲学の中では)受け継いだこの建物を、大男が目を付けたのだろう。実際どう考えても子供一人に運営できるテナントではない。
彼女は捲し立てられる間にも内側をちらちらとわざとらしく伺ってみたが、先ほどのチェーン店に匹敵する程度の広さを持った、しかしフランチャイズではない個人経営店であった痕跡が見て取れる。厨房の真っ黒な大なべや、備え付けられた各種食器、そして湯切り網を見るに、多分中華料理店なのだとあたりをつけた。
けれども、稼働していたのは少し前らしい。
(道理で言えば、この巣もデカい方のガキに引き渡すべきなのだろうが)
「おい!何じろじろ見てんだ!テメェが一番部外者だろうが、どっか行け!」
「道理を壊した時の反応が見たい。わかるかな?」
瞬間、彼女の身は翻った。男の太いだけで脆く原初より劣化した腕を軸に壁を走る。天井を走る、くるくる、くるくると回っていく。秒間にして1に満たぬ一瞬の後、彼女は元の位置に戻っていた。踊りにしては激しすぎるほどの素早さで、だが戦いに備えた運足にしては軽薄にひらめく挙動。
「あっ」
それは痛み故か、目の前の人間が取った意味不明な動きのせいか、男は目をひん剥いて、掴まれた右腕を抑える────ことが出来ない。
堰を切ったかのように痛みの情報、その本流が訪れてくる。空を切った左手はそのまま生温かな断面に触れて、その痛みをさらに増幅して脳へと叩きつける。
「うわあああああああ!」
肩から先を千切り取られている。皮膚、肉、骨をなんらかの奇術を用いて引き裂いたのだ。恐怖が肉体を支配し、周囲を固めていた人間もまた警戒態勢に移るが、遅すぎる。彼女は彼らの数億倍細やかな時間に生きているのだ。
「随分人間らしい、エコノミックな腕じゃあないか!」
彼女は奪い去った男の腕をヌンチャクか、あるいは槍かのようにもてあそび、ジャグリングし、周囲に血しぶきを撒き散らしている。脚を潜らせ、手に這わせ、男の肩に備え付けられていた時よりも生き生きと左腕を乗りこなしている。彼女はその程度では満足しない。
勢いを削がないままに、回転速度が殺人的なレベルに達する。軋む左腕だったものが嵐のような風切り音を鳴らし始めてから、打擲音へと移行するのにそう時間はかからなかった。
打擲、刺突、貫通。
男の腕はきっと一生発揮することのなかった鋭さで、元の宿主を攻撃している。まず接することもなかったであろう右肩を、肩の断面同士で殴って破壊し、その反動を彼女の四肢を介して利用、さらに別の部位────腹に向かって経路変更、加えて破壊的な筋力を上乗せして貫手が放たれる。
やわらかな肉を割く感触。しかもそれが自分だったものによって引き起こされているのだ。恐怖の感情は通り越して、男の心中を支配するのは絶望だった。理不尽に対して理解することすらできず、空に染まった今をただ享受する他にない。
「手刀で切腹する人間は中々珍しいと思うよ」
こともなげに吐かれたその言葉を聞いた次の瞬間、腹の中をかき乱される感触がする。彼女は掴んだ腕を揺らしてなどいない。視界の入るまがまがしい彼女の右腕は、貫通後微動だにしていないのだ。
(じゃあこの感触は──痛みはなんだ!?)
それは、直接臓腑を掴まれる感覚である。確かに他人の五指でもって肉体を犯される感覚である。実際に感じたことはなかったが、内側の異常な痛みと抑圧感、虚脱感、そして相反するように湧き上がる膨満感が警鐘を鳴らしている──すべて遅すぎる!
虚脱感が一際強くなる。正体は最早わかり切っていることだ──男は祈る先も脳からすり抜けてしまった。ただ嗚咽したいとい命令を脳から下し、それが履行されない現実をかみしめることしかできない。
男の手だったものがまるで生きているかのように強く握りしめられている。そこには胃腸が引っ掴まれていた。
彼女は苦しむ男の顔に一瞬で飽きたようで、目の前の玩具の処分のために引きずり出したのだ。内臓がぶちまけられて、それにつられて体液の大半と、そして共通規格に充填されていた緩衝材がぶちまけられ、当然男は一瞬で気絶した。
「介錯までやらないとね」
倒れ込んできた男の顔面を、PKめいてただ無造作に蹴りぬく。
鈍く鳴り響く骨の砕ける音。即座に射出、背後に居た仲間たちのど真ん中に命中、死が死を呼び寄せている。叫び声がようやく上がる。恐怖する余裕が出来たのだ。それもまたなくなっていくものだとしても。
周囲の人間は恐れをなして逃げ始めたが、逃がす相手を決めるのは追う側だ。
(仲間っぽいのが三人……もう飽きてきたけど、逃がす意味もないか)
切り離されている筈の腕がやはり生きているかのように蠢いている。今の主は彼女である、今死んだ大男ではないと言わんばかりに指を美しくそろえ、色々塗れたその姿を少しばかり見やすいものにしている。そのまま肉体をバネのように使い、オーバースローで銛のように腕を投げつけた。
「グァッ」
悲鳴はでずに、空気が漏れる音だけが聞こえてくる。仲間は自らの首を絞め上げる男の腕だったものに対して、泣きながら消え入るような声で懇願し始めた。「やめてくださいよ、兄貴!」既に兄貴とやらの精神は消滅している。みればわかる、頭脳が四散しているからだ。つまりこの絞首が止まることもない。しばらくたって絶命したが、その時すでに彼女はそちらに注意を払っていなかった。
粗雑に腕を振りかぶりながら走っている。迎撃に出る残りの二人は、突然の襲撃者の姿をしっかりととらえていた。強化セラミックス製の安物ではあれど、建材すら切断を可能とする強度を持った刃物をちらつかせ牽制する。意味はない。襲撃者はそれを恐れることなく肉薄し、殴り掛かろうとするからだ。
「ギャッ!」
セラミックスを拳で押しのける。腰を据え、力を込めて身を守ろうとしていた男の体幹が引き裂かれるような力に押し切られる。拳の指が切り裂かれそうなものを、彼女は指に多少の損傷すら引き起こすことなくそれをやってのけたのだ。止まらないまま、セラミックスの強力な峰は、仲間その一の額にめり込んで取れなくなってしまった。
「ああああ!!!!ああああああああああ!!!!」
慟哭、先に逝った仲間たちへの哀悼の意であろうか、それとも今死が向かってきていることに対する純粋な恐怖であろうか。叫んでいる事実があればどちらでもよかった。どうせ殺せば何も言えず、何も言わず。真実や感想なんてものはいきているものの特権だからである。この人間は死体のそういうのを考慮したり推し測ったりはしない生き物だ。
先ほど取れなくなっていたはずの峰を無理やりに引きはがす。またジャベリンのように振りかぶって──やめた。飽きたからだ。
「へ?」
明らかに自分を殺そうとしていたはずの女が、仲間三人を一瞬で殺したはずの女が、まるで糸の切れたように動かなくなる。手に取って圧し折れたセラミックスの刃をその場に捨てて、まるでいつくしむような目つきでこちらを見ている。それを優しさや許しだと勘違いした。少なくとも名もなきならず者たちの生き残りはそうだった。
「あ、ありがとうございます!ありがとうございます!」一心不乱に走りだす──奇妙な畏怖と感謝と、消しようもない怨みを抱きながら。
実際のところ、彼女の表情の正体は次の自らの行動と、その結果への期待である。自分と少年から十分離れたのを確認してから、彼女はセラミックスの刀を持ちながら、少年とならず者の間に走り込み、やにわに床へと突き立てた。
そのまま、あの男の腕を切り落とした時のように壁面を走る。ならず者が異音に気づいて自分の後ろを振り返った時には、もう彼女はまるきり通路を切り落とした後だった。
「えっ」
不安定になった通路の端を、今日一番の強さを持って踏み抜く。生き残りの移動方向遥か先で、ミシリと厭な音がした。不良建築が壊れ始める時は大体その音がなっていたことを思い出す。数々の事故が頭の中を巡る。前に走るべきか、それともより近い襲撃者の居る方向に走るべきか──二重の恐怖が足をすくませて、彼は判断を致命的に遅らせた。
浮遊感──まさか、そんなと、信じられない気持ちが胸中を支配する。あの人型は、一瞬のうちに人を三人も殺したのちに、通路まで切り落として、構造に蹴りでトドメすら指すというのか。
落ちる、天井が迫る、床が離れる、やはり落ちる。ニコニコと笑う怪物の顔が上へとすっ飛んでいく、いや、生き残ったならず者が高速で落下しているのだ。生き残りという言葉も最早不適切となろう、あと数十秒で確実に死ぬのだから。
「あの顔、まあまあ面白い」
ぬるりと、夏場の古池のような粘着感を纏った動きで少年の方へと向き直る。当然、彼は竦み上がっていた。彼女は面白そうに張り手を振り上げ、それを見た少年は頭を押さえてしゃがみ込んだ。
「アハハ!脅かしただけだって、助けたのに殺すわけないじゃないか!」
彼女は面白そうに少年の前髪をめくり上げると、ずいと顔を近づけた。
「私はAdenine。君の名前を教えてよ」
統治惑星の歴史観察と、その経過による副産物について @Thymi-Chan
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