第二章 欲望の揺籃

第一話 聖女は買い出しを頼まれる

 声を失い、指を切り落とされたアグリスをその場に置いて、シュハと私は素早く現場を去った。


 足に力が入らずに、泥の上を歩いているような感触で、何度もくたくたとその場に崩れ落ちそうになった。


 シュハは当然、足を止めて助け起こそうとなんてしないだろう。

 懸命にその場に踏みとどまって彼女の後をついて娼館を出ると、最初に説明した通り裏口を出たすぐそばに来た時と同じ馬車が控えていた。


 後先のことは何も考えず、とにかくその馬車に飛び乗った。


 馬車が動き出すのを感じて、ようやく腹の底から大きく息を吐いた。


 「お疲れ様です」


 何も考えられず馬車に揺られていると、向かいで鞘から抜いた刀剣の白刃を検分していたシュハが声をかけてきた。その刃に付いた血と脂を、するりと懐から出した油紙でぬぐい取って、シュハは淡々とした目付きでこちらを見た。


 「初めてにしては、上々の働きだったと思いますよ」

 「……もう、今夜は早く、元の場所に……帰してください」


 それ以上なにも言えず、膝を抱えて項垂うなだれると、シュハがうなずいた。


 「ええ、当然です」


 そして、夜明け前の真っ暗な空を垂れ布を引いた馬車の窓の隙間から見上げる。


 「心配せずとも、当分、余計な仕事を暗部から頼まれることはないと思いますよ」

 「…………」


 それだけシュハは口にしたが、慰めているわけではないのは、私にも分かった。


 〇


 店に戻るなり井戸で水を汲み、『仕事』で使った服を慌てて脱いで体を清めた。


 髪や自分では目に付かない場所に返り血を浴びてないか、何度も鏡に映して確かめた後で、気を失うように眠りに就いた。


 ほとんど気絶するような眠りだった。目が覚めた時には、朝陽が差していた。


 『仕事』に使った服を改めて確かめてみると、特に目立った汚れはないものの、血と、甘い香の臭いが染みついているように感じた。


 まだ店に人の姿がないのを確かめてから、もう一度、井戸から水を汲んでとにかく汚れと臭いを洗い落とそうと、懸命にこすった。


 「朝から洗濯か?」

 「うあっ!?」


 背中から声を掛けられて、悲鳴を上げて洗濯板と服を取り落とす。


 「あ?何焦ってんだよ?」


 胸を押さえながら振り返ると、フレンタがいぶかしそうに私を見下ろしていた。

 とっさに洗っていた服を背後に隠して、言い訳を考える。


 「えっと、その……使った下履き、とか、洗っていたので……」

 「ああ、そっか」


 特に気にした様子もなくフレンタがうなずくのに、ひとまず胸を撫でおろす。

 だが、ふと頭上高く上がった太陽を振りあおいだ彼女は眉をしかめた。


 「なあ、まだドットルの奴来てねぇのか?」

 「はい。まだ、見てませんけど」


 私が伝えると「そうか」と、フレンタはうなずいて、ふと水路の向こうに見える街並みに目を向けた。


 「今日はなんか、街が落ち着かない感じだな」


 その何気ない言葉にどきりととしながら、私は平静を装って尋ねる。


 「そうなん、ですか?」

 「……なんかあったかな」


 フレンタがぽつりとつぶやく言葉に、私は何も言えず、洗濯の泡の浮いた桶の中を見下ろした。


 〇


 正午の鐘が街に鳴り響いてしばらく経った後、〈猫の手亭〉の扉を開けて、主であるドットルが姿を現した。


 灰色の毛が密生した眉間みけんにぎゅっとしわを寄せたその顔に、フレンタが「何があった?」と長い脚で大股に近づいていく。


 それを聞いて、ドットルが顔を上げて深々と息を吐いた。


 「アグリスの奴が、店で何者かに襲われた」

 「……マジかよ」


 二人のやりとりに、カウンターの前を掃いていた私は、思わず箒の柄をきつく握り締めていた。


 「……何があったんだ?アグリスの奴は……生きてんのか?」

 「夜更けに奴の娼館から客が逃げ出してきたのを衛兵が見つけたらしい。そいつは、騒ぎを聞いて一目散に逃げだしてきたんだと言ってるらしいが」


 内心の動揺を押し隠して、私は二人の会話を見守る。


 「知り合いの衛兵がいたから話を聞かせてもらったが……酷い有り様だったらしい。娼館の中は血の海だ。アグリスも……半狂乱になって詳しくは聞かなかったが話せるような状態じゃないようだ」


 ドットルは難しい表情を浮かべている。


 「……よくは分からんが、肝心のアグリスからも何も聞き出せないんだと」

 「そう、か……」


 二人が深刻な表情で顔を見合わせ、うつむいている。

 私は、ごくりと唾を呑み込み、不穏な沈黙に思わず声を上げた。


 「この前の……あの、店で暴れた人の事、ですよね……」


 私がおそるおそる尋ねると、フレンタが振り返り「そうだけど」とうなずく。


 「大勢の人から恨みを買った人で、今も、うちみたいにこの辺りの人に嫌がらせをしていたんですよね……。だったら……」


 私はからからに乾いた唇を一度湿らせて、口を開いた。


 「いつ、そういう事が起こっても、おかしくなかったんじゃ……」

 「そりゃそうだが……」


 ドットルが顔をしかめて、私を振り返る。


 顔を上げると、フレンタが淡い色の瞳を細めて私を見ていた。

 こちらを探る目付きが、なんとなく居心地が悪い。


 だが──フレンタはふっと息を吐いてドットルを振り返った。


 「ドットル、それ以上は衛兵たちの仕事だ。おれたちが気にしたって仕方ねぇよ」

 「だがよ……」

 「こう言っちゃなんだけどさ」


 フレンタはがりがりと頭の後ろをかいて、ドットルに説いた。


 「おれたちにとっちゃ一つ肩の荷が下りたようなもんじゃねぇか?アグリスをやったのが、奴が恨みを買った連中なら、これ以上犠牲が増える心配はねぇし、どのみち用心するなり、他におれたちのできることはねぇんだ」


 フレンタの言葉を聞いて、ドットルが腕を組んで喉の奥でごろごろとうなる。


 「だが、しかし、なあ……」

 「今日だって店を開けるんだろ?ひとまず今は考えたって仕方ねぇぜ」


 フレンタがからっと告げる声に、ドットルは喉を鳴らしつつも、やがて「そうだな」と大きく息を吐いて肩を落とした。


 「俺たちが気を回しても仕方のない事か」

 「おう、そうだよ」


 それで二人はやりとり終え、いつものように店の仕込みを始めた。


 私は横目にその様子を確かめて、小さく息を吐く。


 (安心はできない……のかも、しれないけど。でも、ひとまず……) 


 ──〈猫の手亭〉の二人も、巻き込まずに済む。


 箒で集めたごみをちり取りで集めていると、視線を感じた。

 顔を上げると、買い出しに出る扉の前でフレンタが私を見ている。


 「あの、何かありました?」

 「いや……」


 フレンタはつと視線をそらした後で、店の扉を開いた。

 そのまま「いってくる」と声をかけて彼女は店を出ていった。


 〇


 明日は、私が住み込みを始めて最初の〈猫の手亭〉の休日だ。


 教会の普通の仕事もなくて、どう過ごしたものかと店を閉める前にドットルに相談すると「ちょうどいい」とうなずいた。


 「お前まだ〈ソルディム〉に来て街をゆっくり見て回った事がなかったろ?」

 「そういえば、そうですね」

 「明日の内に買い足しておいて欲しい食材とかがある」


 そう言ってさらさらと小さな紙に何か書きつけて、私に手渡す。


 「分からない物があったら今の内に聞いてくれ」と言われたが、店の名前とそこで買うべき食材が書かれているだけだ。特にぴんとこない事もないのでそう言うと、ドットルが私を見上げてうなずいた。


 「明日、一日かけてゆっくり街を見て回りながら買うといい。明日は俺も一日用事があるから、食事は自分で済ませてくれ。金は置いておく」


 じゃあ、明日は一日かけて〈ソルディム〉を見て回る日になりそうだ。


 「分かりました」とうなずいて、私はドットルが店を出るのを見送り、戸締りをして階段を昇り、階上の自分の小部屋に戻った。


 ──部屋で灯りを消してベッドに横たわると、どうしようもない心細さを覚えた。


 目を閉じると、『仕事』で目にした光景が蘇る。


 ──アグリスの苦悶と怯えの表情。

 私の左手に残った、喉をつかむ感触。


 シーツに包まるように身を縮めて、ただ無心にまぶたを閉じて、何も考えずに済むように眠りが訪れる待った。


 〇


 自分がいつ寝入ったのか、どれだけ眠ったか分からない間に、ふと気が付けば窓から朝陽が差し込んでいた。


 窓をのぞき込むと、〈ソルディム〉に来てはじめてのすっきりと晴れ渡った空が広がっていた。


 今日は一日、外を歩き回るのでこれはありがたい。

 早速身支度を整え、外出の準備を整えて店を出た。


 大きな街に住んだことがないわけではないから、街歩きもある程度慣れている。

 立札や看板を見ながらドットルの渡した紙と照らし合わせると、それほど苦労せずに終わりそうだった。


 正午が近くなって、昼食はどうしようかと考え始めた時だった。


 「広場に出て、屋台でも見ようかな……」


 そんなことを独りちた瞬間、誰かに名前を呼ばれた気がして雑踏を振り返る。


 私の名前を知っている相手なんて、この街で数えるほどもいない。


 気のせいか、人違いのどちらかだろう。

 そう思って再び広場に向かって歩を進めた時、背後から突然肩をつかまれた。


 「やっぱりイサリカだ!」


 聞き覚えのある声。

 私が驚いて振り開けると、武装していない普段着姿のヴァレンシアが蜂蜜色の髪を揺らして微笑んでいた。

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