第六話 聖女は自らの手を汚す

 私が思わずその名をつぶやいた途端、アグリスのぎらついた目がこちらを向いた。


 「誰だてめぇ?俺とどっかで会ったのか?」

 「っ!」


 まずい、と思った瞬間、シュハの握っていた刀剣の刃が閃いた。


 「がああああっ!?」


 血飛沫とアグリスの悲鳴が上がって、ソファの上から何かが転がり落ちた。

 それが──アグリスの手から切り取られた指の一本一本だと悟って、私は思わず覆面の上から手で口元を覆った。


 「お互い、手短に済ませた方がよろしいですね」


 シュハが何でもないような口調で、額から大量の汗を流すアグリスをのぞき込む。


 「あなたが、迷宮ダンジョンの奥で見た物。その正体を教えてくだされば、あなたの血と苦痛の時間は終わります」

 「……っ、知った、ことか……よっ!」


 毛皮のソファを血に染めながら、アグリスが吐き捨てる。

 次の瞬間、再びシュハの刀剣が閃いて血飛沫とアグリスの悲鳴が上がる。


 「この場合、余計な手間を省くために、お互いの努力が肝要かと思います」


 刃に着いた血をすっと黒い修道服の袖でぬぐって、シュハが柘榴石ガーネットの瞳を薄く見開いた。


 「ただ、あなたが探索者として名を馳せた数年前、迷宮の奥で何を見たか教えてくださればいいだけです」


 シュハはあくまで、教会で立ち働いている時と同様に、丁寧で落ち着いた物腰でアグリスを拷問している。私は自分の背筋が冷たくなるのを感じた。


 アグリスは何度か呼吸を整えるのに唾を呑み込む。

 そして、すぐに不敵な笑みを浮かべてみせた。


 「……誰の人選だか知らんが、てめぇ、拷問に向いてねぇよ」


 アグリスが脂汗を浮かべながら啖呵たんかを切った。


 「指をこんな簡単に落としちまったんじゃ……口を割らせる前に、全部なくなっちまうぞ……」


 シュハはその言葉を聞いて薄い微笑を浮かべた。

 本当にかすかな、でも普段のような張り付いた笑みでは決してない微笑を。


 「御心配には及びません。その為に彼女がいますから」


 シュハは背後に立ち尽くす私を見やる。私は反射的に背筋を強張らせた。


 「彼女の力があれば、落とした指をくっつける位はできます。なんなら、場所を変えて、じっくりこの時間を続けるのも私はやぶさかではありません」


 淡い微笑みを浮かべささやきかけるシュハを見て、アグリスの顔色が変わる。


 次の瞬間、獣のような咆哮を上げたアグリスが血に染まった手を払った。


 シュハが自分の顔目がけて飛び散った血が目に入らないようにまぶたを閉じる。

 その一瞬の隙を突いて、アグリスはソファの上からばねじかけのように飛び跳ねて立ち上がり、私めがけて突進してくる。


 自然に体が動いていた。


 私はアグリスともみ合いになった。

 夢中でアグリスの腕をひねりあげ、床の上に全体重をかけて突き倒した。


 どんっ、と激しくぶつかる音がした。

 私はアグリスを捕らえて、床に組み伏せていた。


 「往生際の悪い」


 目元に付いた血を拭い取って、シュハが涼しい顔で床の上に倒れるアグリスを見下ろす。そのまま、刀剣の切っ先をゆっくりアグリスの顔へと近づけていく。


 「すみません、不手際をしてしまいました」


 教会で働いている時に置物を落としてしまったり、汲んできた水をぶちまけてしまったのと同じような何気ない口調で、シュハが私に詫びる。


 私は頭が働かないまま、とにかく逃れようとするアグリスを押さえつけた。


 「……勘弁してくれ。俺は、俺は何も……見ちゃいない……」


 アグリスの口から、震える声が漏れ出た。

 それを聞いて、シュハがアグリスの眼の端を刀剣の切っ先で突いた。


 「本当に?」

 「ほ、本当だ……。俺は、その時組んでいた仲間が、迷宮の奥で何か見つけたらしいのを聞いた、だけだ……」

 「何を見つけたと?」

 「そんなの知らない!ただ、それから奴の様子がおかしくなって……!」

 「その時組んでいた探索者の名前は?」


 淡々と問い詰めるシュハに、せきを切ったようにアグリスが答える。

 辛うじて、この男を支えていた裏の世界に生きる者の持矜きょうじが崩れ落ちたのが、小刻みな体の震えを通して分かる。


 「ゴルバス!戦斧使いのゴルバスだ!あいつが何を見つけたかなんて俺は知りゃしねぇよ!もう放してくれ!」


 アグリスはこちらを振り返り、涙ながらに叫んだ。

 私は当然その名に心当たりはない。振り返ると、シュハも顔をしかめていた。


 「そうですか」


 若干、アテが外れたような熱のない口調で、シュハが刀剣の切っ先を引いた。

 アグリスが嘘をついている様子もない。不十分な結果なのは目に見えて分かった。


 これだけ犠牲を出して……。


 私が無力感に肩を落とすと、ふとこちらを見上げていたアグリスが目を見開いた。


 「お前……ドットルの所にいた女か?」

 「っ!?」


 アグリスの声に、私は息を呑んだ。思わず片手で顔に触れると、さっきアグリスともみ合った時に覆面が外れるか破れるかしてしまったのか、素顔をさらしていた。


 しまった、と思う間もなくアグリスの目が憎悪にぎらついた。


 「そうかよ……。てめぇ、こんな舐めた真似をしてただで済むと思うなよ!てめぇの素性なんざ調べりゃいくらでも分かるんだ!」


 目の前が暗くなる。こんな間違いの許されない場面で、こんな失態を犯すなんて。


 「てめぇだけじゃねぇ!てめぇの周りにいる奴だって同罪だ!」


 アグリスの言葉に、私は頭の中で考えていた事全てが吹き飛んだ。


 「〈猫の手亭〉に住み込みで働いてんだろ!?調べはついてんだ!これで終わったと思うなよ!俺の声がかかりゃ動く連中が今でもなぁ……っ!?」


 真っ白な頭の中で、反射的に左手の手袋を脱いでアグリスの喉をつかんだ。


 「っ!……っ!?」


 指が食い込むくらいにきつくアグリスの喉をつかむ。

 左手の掌を通して、アグリスの身に宿る生命力を感じる。

 彼の口を封じなければ、いけない。ただその事だけが頭の中にあった。


 そうでないと、私のせいで全く関係のない二人が巻き込まれて──


 そう思うと、左手の掌に熱を感じた。──私の聖女の力。


 歪んでしまった、癒しの力。


 やるべき事は一瞬で終わった。


 私は、アグリスの喉元から手を離すと、押さえつけていた彼の体から離れた。

 それ以上は自力で立っていられなかった。

 膝からぐったりと力が抜けて、その場にへたり込む。


 「……?…………っ!?…………!?」


 少し離れた所で、アグリスが自分の喉元に触れて、困惑した表情を浮かべていた。


 何度も声を発そうとして、それが叶わないのが分かった。


 アグリスの表情が困惑から恐怖に塗り変わっていく。

 何度も何度も、自分の手で喉をつかんで、口元をさすって、それでも自分の口からかすれたような息の音しか出ないのに、アグリスは全身を震わせ始めていた。


 「……暗部で噂は聞いていましたが、初めて見ましたよ」


 シュハが白刃を鞘にちん、と音を立てて納め、私の肩に手を置いた。


 「それが〈歪みの聖女〉の力なんですね」

 「…………」


 私はそばに落ちていた手袋を拾い上げて、無言のまま左手に付けた。


 アグリスは、どうやっても自分の口から元のように声が出なくなっているのに、徐々に気付き始めたらしい。その顔が絶望に染まっていく。


 発声を司る喉は繊細な器官だ。

 声を出せなくする為に歪めるのは、ごく限られた箇所でいい。


 歪めて、癒す。


 それが今の、私の力だ。〈歪みの聖女〉の力。


 元々、聖女と呼ばれる癒しの力が、忌まわしく歪んでしまった力。


 呆然とする私の横を通り過ぎて、シュハがアグリスに近づいていく。

 絶望と怯えの表情を浮かべて、アグリスが声のない悲鳴を上げて床をう。


 短い時間に多くのものを失った男の肩に手を置いて、シュハが穏やかな微笑を浮かべて語りかけた。


 「安心してください。こうなった以上は、あなたの身柄は、我々〈大陸正教会〉の救貧院で面倒を見るよう手を回させていただきます」

 「……!…………っ!」


 声もなく大きくかぶりを振るアグリスだが、その言葉はもう誰にも届かない。

 もう、彼の声に耳を傾ける者などいない。彼の声を聞く者も……。


 「あなたは手広く手段を選ばずにこのような商売をやっていた方ですし、身を持ち崩した知り合いも多いのではないですか?」


 シュハの言葉に、アグリスはぽかんと口を開けてぶるぶると震え出す。


 「救貧院にはそのような方も身を寄せています。きっと、あなたの顔を覚えていらっしゃる方もいるでしょう」


 穏やかな微笑みを浮かべたシュハは、恐怖と絶望の淵に落ちていくアグリスをその場に残し、悠然と歩き去っていった。

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