第五話 聖女は血風の舞う夜を過ごす

 教会で、恐らくは同じ暗部に所属する修道女に声を掛けられて三日が過ぎた。


 とにかく、その事は頭の片隅に追いやって、〈猫の手亭〉と教会を行き来する新しい日常に慣れる事に努めた。


 教会ではあの細目の修道女を何度か見かけた。


 特に周りと比べて目立っているわけでも浮いているわけでもない、その修道女の名前はシェハといった。


 暗部で訓練を受けていた頃の記憶を思い返してみるが、その名前に覚えはない。


 (でも……十中八九、暗部の人間だ)


 教会に併設された孤児院の子供たちを引き連れて、裏庭の畑を耕しているシュハを、それとなく眺める。


 ほっそりとしたどちらかと言えば華奢な体付きだけど、ふとした時に身のこなしに不穏な物を感じる。なによりああして声をかけてきた以上、考えすぎ、ではないのだろう。


 ふと気が付くと、シュハがこちらに顔を向けていた。


 薄い微笑を頬に張り付けたようなその表情に、私は慌てて背中を向けた。

 司祭に頼まれた書物を図書館に運ぶのに小走りにその場を去った。


 〇


 シュハと顔を合わせてから三日後の夜。


 平静を装って給仕の仕事をしているつもりだったが、なんでもない注文を何度も伝えそこなってしまった。

 「なにやってんだ!」と最初は怒鳴っていたフレンタも、ついには「お前、熱でもあんのか?」と、いぶかしげに顔をしかめた。


 ドットルからも「疲れてるみたいだから早く寝ろ」と言い含められた。

 忠告通りにさっさと店を閉めて私以外に誰もいなくなった、その夜。


 暗部に支給された制服──闇にまぎれて衣擦れの音のしにくい修道服に似た『仕事着』に着替えて自室の小部屋のベッドに腰かけていた私は、寝静まった水路横の通りに、馬車の蹄の音が近づいてくるのに顔を上げた。


 足音を忍ばせ、夜闇の中にまぎれるように身を屈めて素早く店を出る。

 ちょうど、その場を通りがかった馬車に足を止めず、一気に飛び乗った。


 ──「ご苦労様です」


 声を掛けられて顔を上げると、シュハが当然のように馬車の座席に腰かけていた。


 あくまで涼しげで穏やかな態度を崩していない彼女だったが、その手には鞘に入った刀剣が握られていた。


 一風変わった刀剣だ。


 緩やかな反りの入った、私の胴体程の刃渡りのある──曲刀に近い刀剣だった。

 彼女はそれを手遊びでもするように、軽く手でもてあそんでいた。


 「あの……」

 「今夜は見ているだけで、いいですよ」


 色々と思案しながら口を開いた途端、シュハが機先を制ずるように言い放った。


 「色々と不慣れでしょうから。今はまだ」


 一見優しく穏やかに語りかけるシュハだが、私はごくりと唾を呑んで黙り込む。


 馬車は夜の〈ソルディム〉を密やかに、何処かへと私たちを運んでいく。


 〇


 馬車は目的の場所から少し離れた裏路地で私とシュハを下ろした。


 覆面を目元まで引き上げて互いにヴェールの下の素顔を隠すと、私とシュハは顔を見合わせた。


 「ここから先は時間をかけるつもりはありません」


 シュハが刀剣の鞘を握り締めると、ちゃき、と金属の擦れる音がした。


 「馬車はわたくし達が仕事を終えた後、裏口を出た所で待っているはずです」


 そう言った後で、シュハは薄く目を見開いた。

 柘榴石ガーネットの赤い瞳の色が切れ長の目の奥に見えた。


 「仮にそうでなくとも、じっとしているつもりはないので、そのつもりで」


 私が覆面の下でうなずくのを待つでもなく、シュハはするりときびすを返して路地裏を出た。


 足を止めずに彼女はその寂れた裏通りにある一軒の店の前へと向かっていく。

 私はその、貴族の邸宅のようにも見える瀟洒しょうしゃな建物を見上げた。


 「ここは……」


 思わずつぶやいて足を止めた私など初めから眼中にない様子で、シュハが門衛のいるその店の前まで無造作に歩いて行く。


 「おい!あんた……修道女か?一体、こんな場所になんの用」


 門衛の二人の男が、無造作に距離を詰めてくるシュハを見咎みとがめる。

 次の瞬間、足を止めずに男たちに近づいていったシュハが軽く足を広げ、胴体を捻るような構えを取ったと思う間もなく、ちん、と刃の擦れ合わせる音を立てた。


 そう思う間もなく、彼女を止めようとしていた男二人の首筋から鮮血が噴き出た。


 私は、思わず立ち尽くす。


 シュハが何をやったのか、見て取ることができなかった。

 ただ、シュハは返り血を浴びるのにも構わず、あえぐような断末魔の声を上げて倒れ込む二人の男の横を通り過ぎ、鉄の門扉を押してその店の敷地へと入っていった。


 本当にシュハは私の方を一顧いっこだにしない。


 この場で立ち尽くしていると容赦なく見捨てられる。

 私は、慌ててシュハの背中を追って開きっぱなしの門に駆け込んだ。


 シュハは二人の人間の命を奪った動揺などみじんも見せず、扉からその店──娼館の中へと堂々と入っていった。


 間を置かず、娼館の建物の中からいくつも悲鳴が響き渡った。


 〇


 私が足を踏み入れると、その場にあった飾りランプや燭台などの照明は、シュハがやったのだろう、真っ二つに斬られて暗闇が満ちていた。


 甘ったるい香の匂いの漂う中、目を凝らして娼館の奥へ続く廊下に目を向ける。

 すると、客や店の者らしい人物が何人も床に血を流して倒れていた。


 建物の奥からは怒号と争う音が聞こえてきたが、間もなくしんと静まり返った。

 次の瞬間、廊下の奥から漏れる明かりが、ふっと音もなく消えた。


 自然と荒くなる呼吸を抑えて、私は注意深く闇の中を娼館の奥へ進んだ。


 絨毯の敷き詰められた廊下には、血だまりに倒れる無数の人影が見えた。

 彼らを避けて娼館の奥へ進んでいくと、いくつか開け放たれた扉があって、そちらを振り向く。


 豪奢な天蓋付きのベッドと、湯の張られた湯船の置かれた部屋だ。

 その湯船に肥った裸の男が湯を血に染めて倒れており、ベッドの上にはその噴き出た血を浴びて呆然自失としている薄衣姿の女性がいた。


 喉の奥にい物がこみあげてくるのを、私は堪える。


 シュハは廊下を更に奥へと進んで、階段を上がったようだった。

 絨毯の上に、血が点々と続いている。その跡をたどっていくと、二階の通路の奥で一際激しい戦闘──殺戮さつりくの痕跡と、武装した男の亡骸が重なっていた。


 廊下の突き当たりの奥の部屋の両開きの扉から明かりが漏れている。


 足を踏み入れると、シュハが、大人が何人も楽に横たわれそうな毛皮のソファの上に、男を一人組み伏せていた。


 その男のそばに侍っていたらしい女性が二人、顔を真っ青にして私の横を脱兎だっとの如く部屋の中から逃げ出していく。


 「何を、しているの」


 私は思わずシュハの背中に声をかける。

 シュハは何も言わずに私をちらりと肩越しにかえりみた。


 いつのまにか彼女の覆面は破れて、白い頬に返り血の赤い花が咲いていた。


 「仕事ですよ」


 他に何があるのか、と言いたげな素振りでシュハは小さく肩をすくめた。

 そして、ソファの上に組み敷いて、緩やかな反りの入った白刃を喉元に突きつける男を見下ろした。


 「……誰だてめぇら」


 鼻から血を噴き出した男が、苦痛に歪んだ顔を上げる。


 「っ!」


 その顔を見て、私は思わず息を呑む。


 その男の顔を私はほんの数日前に見ていた。見間違えるはずがない。


 「こんな事をして、ただで済むと思うなよ……」


 「……アグリス」


 私はその男の名前を反射的につぶやく。

 数日前、〈猫の手亭〉に脅しをかけにきて、今、シュハに取り押さえられて悔しげに唇を震わせるその男の名前を。

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