第一章 歪みの聖女

第一話 聖女は酒場に住む

 通りの喧騒から離れて、老人は人通りの少ない裏通りへと馬車を進めた。


 そのまま市場のある区画へ向かう彼と、裏通りの一角で別れる。


 「この先に〈大陸正教会〉の教会もあるけど、そっちでなくてええんかい?」

 「はい。えっと、色々事情があって……」


 教会から命じられた任務をそのまま伝えるわけにいかない。

 私が言葉を濁すと、老人は白いあごひげをなでたが、うなずいた。


 「まあとにかく、達者でやんなさい」

 「はい。お世話に、なりました。……〈方舟の主〉様のご加護のあらんことを」


 私が胸の前で聖印を切ると、老人は麦わら帽子を取ってこうべを垂れる。


 再び顔を上げて馬車を走らせる彼の背中に私も会釈を返し、片手に鞄を持つと改めて〈ソルディム〉の街並みを眺めた。


 遠目には整然と見えた街並みも、一歩その中に入ってしまうと、路地や曲がりくねった道があちこち繋がって、不案内な私一人で目的地までたどり着けるか心許ない。


 「……一度、近くの水路に出てみようか」


 見通しの利く場所に出たら、ある程度土地勘がつかめるかもしれない。

 そう思って水路に出ると、幸いなことにそこが目的地の目の前だった。


 「水路の近くの……三角屋根の建物……」


 聞いていた特徴と、目の前の建物を照らし合わせて確かめる。

 どうやらその建物が目的の場所で合ってるらしいと確かめると、小さな水路の上にかかる橋を渡った。


 風に揺れている磨き抜かれた飴色の木に伸びをする猫が描かれた看板を見上げる。

 細かな木目の板に焼き印で〈猫の手亭〉と共用語の飾り文字で書かれている。


 確かに目的の場所だと確かめて、私は呼吸を整え、その扉を押した。


 「こんにちわ」


 こういう場合、どう挨拶したものか分からないのでおそるおそるそう声をかけて店の中に入る。


 「あの……」

 「店は夜からだ」


 身の置き所を探すように薄暗い店内をあちこち見ながら歩を進めているろ、突然に声がかかって冗談でもなんでもなくその場に飛び上がった。


 胸を押さえながら振り返ると、カウンターの向こうに灰色の体毛に覆われた顔と、金緑の瞳が私の方を向いていた。


 ──猫の獣人種の男性だ。


 というか、これだけ人間からかけ離れた容姿をした種族を見るのが初めてだった。

 言葉を失っていると、店の主人らしい猫の獣人種が目を細めた。


 「あのなあ、聞こえなかったか?店は夜からだし、今は仕込みの最中だ。用がないならとっとと出てけ」

 「あっ、いえ違います。私、イサリカ、で……」


 私は慌てて名乗って、胸元の聖印を店主の前に掲げた。


 「〈大陸正教会〉の、知り合い……の方から、こちらの教会に務める間の下宿先……として紹介されたのです、けど」

 「ああ……」


 そう言ったとたん、灰色の毛並みの猫、の顔が納得と懸念を半々で割ったような、複雑な表情を浮かべた。普通の獣と違って表情豊かなのだと分かる。


 「『市井の人々の生活に寄り添い、商いや酒食の提供を生業とする者を蔑むべからず』……だったか?」

「はい、私の属している〈コルバン派〉の教条ですね。こちらは酒場だと聞いていますけど、よければお手伝いをさせていただきます」

 「そりゃあ、こっちは人手不足だから助かるがね」


 そう言って、猫の獣人種の店主は思案するように金緑の目を細めた。


 「……まあ、引き受けたのはこちらだし、教会とは色々付き合いもあるからな」


 その言葉に、私はひとまず宿を確保できたのを悟って内心、安堵する。


 「でも、仕事はきちんとやってもらう」


 私のほっとした顔を見透かすように、鋭く目を細めた店主が告げる。


 「器量は悪かないから客寄せにはなるだろうが、それだけでやってけるようなのん気な店じゃないんだ。片手間にやってもらっちゃ困る」

 「は、はいっ」


 私は慌てて返事をした。


 自分の教会から命じられた任務が、ただの教会務めではないことを押し隠して。


 〇


 「店の制服は厨房の裏にある。わざわざ新調する金はないから、使ってない物の中から自分に合うのを見繕ってくれ。極端な体格の種族でもなけりゃ一通りある」

 「はい」


 そう言われて、仕込みをしている厨房の裏へと追いやられる。

 本当に忙しいせいだろう。口調は荒いが、丁寧に教えてもらった。

 私は軽く頭を下げて、厨房の裏の小部屋に足を踏み入れた。


 踏み入れて──そこで先客の姿があるのに、ぎょっとする。


 「あ?」


 ちょうど着替えている最中だったらしい。ほの白い肌に凄みのある整った顔立ちの女性は、私を振り返り険しい表情を浮かべる。


 「誰だ、おめぇ?」

 「あっ、えっ……」


 思わぬ事にとっさに頭が回らなくなった私は、腰に手を当てて見下ろしてくる女性の整った顔を呆然と見詰めるしかなくて──


 ──ふと、その女性の耳の先の尖った特徴的な形に目がいった。


 「……〈木精霊エルフ〉……」


 私が思わず口走った途端に、女性の眉間みけんに深いしわが寄る。


 「ちげーよ。おれをあんな頭ガチガチの時代遅れの石頭どもと一緒にすんな」

 「あっ、えっ、はっ……」


 女性の険悪な口振りに、頭が完全に停止しかけて──再び頭が回り始めた。

 どうにも種族的に失礼な物言いをしてしまったと気付いて、慌てて頭を下げる。


 「すみません。あなたみたいな人を初めて見たから、礼儀作法が分からなくて」

 「…………」


 腕を組み端整な顔に怒りをにじませる女性にこれ以上ない位、頭を下げる。


 「気に障ったなら二度と言いませんし、また失礼な物言いを繰り返さない為にも教えていただけると、ありがたいです」

 「…………はあ」


 女性は淡い色合いの髪をぽりぽりとかいてうなずいた。


 「……分かったよ。おれぁフレンタ。ハーフエルフだ。見た目からじゃ分かんねぇだろうが、町にいる奴は大抵、おれと同類だから、滅多なこと言わない方がいいぞ」

 「はい、あの、肝に銘じておきます」


 そして、私はフレンタと名乗ったハーフエルフの女性に改めて向き直った。


 「イサリカ……イサリカ・イエルツです。今日からこちらで、お世話になる……」

 「ああ。そういや、ドットルが言ってたっけ……」


 そう言って、フレンタは改めて制服に着替え始める。


 「おれもこの店の給仕だ。ま、ここに住んでるわけじゃねぇけどよ」

 「はい……」

 「おめぇはここに住み込んで働くんだろ?忙しいが、夜遅くまでやってる店じゃねぇし、おれとお前で十分回るよ」


 そう言って給仕の服に着替えたフレンタがほっそりとした肩をすくめた。


 「ただ、手は抜くな。おれだって、この店つぶして他に行くアテがあるようなお気楽な身分じゃないんでね」


 私はその言葉に神妙にうなずいた。


 猫の獣人種の店主──ドットルと、給仕のハーフエルフ、フレンタ。


 この二人が、私が身を寄せるこの場所──酒場〈猫の手亭〉の人々のようだ。


 彼らには、教会も詳しい事情は話していないはずだ。

 巻き込むわけにいかない。彼らに本当の目的を悟られず、しばらくは酒場の仕事に専念しようと、私は心のうちで独りごちた。


 〇


 二人はああ言っていたが〈猫の手亭〉は繁盛しているように、私は思えた。


 給仕の制服に身を包んで店に立つと、日が落ちると共に店は賑わい始めた。


 迷宮ダンジョンのある街らしい、種族も年齢も様々な探索家とおぼしき客がテーブルについて注文をする。私は、正直、矢継ぎ早に告げられるそれを取りこぼしなく伝えるのに四苦八苦しているだけの情けない仕事ぶりだった。


 「ドットル、新しく人を雇ったのかい?」

 「そうだよ。ちょいと人から頼まれてな」


 カウンターで客との会話をちらりと耳にしたが、正直それについて何か思う余裕もなかった。フレンタに「おらっ、ぼさっとしてんな新入り」と尻をはたかれて、慌てて注文をするテーブルに向かう。


 (これは……さすがに、思った以上に、なかなか……)


 大変だ。


 なめていたわけではないけれど、確かに片手間にできる仕事ではない。

 慣れればまだマシになるとしても、それでも──


 そんな事を考えている最中のことだった。


 ──「……戻ってきたらここの煮込み料理を食べるつもりだったんだ」


 数人の客が店に入る気配に額に浮いた汗もそのままに振り返る。

 教えられた通りに「いらっしゃいませ!」と、酒場の喧騒に負けないように声を張り上げる。張り上げて──


 その場にいた数人の探索者の姿に、私は反射的に背筋を強張らせた。


 「ああ、ごめん」


 数人の探索者に囲まれた、濃い蜂蜜色の髪の少女が私を笑顔で振り向く。


 「五人ほど連れがいるんだけど、テーブル、空いてるかな?」


 晴れ渡る陽の光のような笑みを浮かべた──この街で最も高貴な身分出身の探索者である皇女ヴァレンシアが、私を見ていた。

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