宿り木の下のジェーン

はやぶさ いろは

第1話 貧民街の朝

 長雨の途切れたある朝、泥濘んだ貧民街の路地にまっ青な朝陽が差し込んでいる。


 その路地に隙間なく建てられたあばら屋の間を抜けると、2階建ての少しマシな家屋がある。白い漆喰の剥げたところから煉瓦が覗いて、蔦が家を覆っている。裏にはささやかな薬草畑があり、野菜も少し。久々の太陽に羽を広げたり閉じたりニワトリも忙しそうだ。塀の端から端には何本もロープが張られている、どうやら物干しに使うようだ。


 庭には少女が一人。真っ白でダボッとしたブラウスを女に珍しいズボンにたくしこんでいる。朝陽にきらきら輝くブロンドを編み込んで背中に垂らしている姿は、まだ女ではない少女ならではの中性的な清らかさに満ちている。その何か神に通ずるような雰囲気は、おおよそ貧民街に似つかわしくないが、少女は意に介することもなく朝の仕事に忙しくしている。


 少女の名はジェーンという。

 

 ジェーンは袖まくりして、山のように籠に溜まったさらしを、朝早くから丁寧に洗い、丁度煮沸を終えたところで、清潔な香りを鼻腔いっぱいに吸いこみながらそれを手際よく干していく。


 家の窓という窓は全て開け放たれていて、中ではウルズラがハタキや雑巾、デッキブラシを使って家中を磨き上げている。


 一階には診療所とキッチンと食堂があり、二階には寝室がある。ウルズラは一階の掃除を大方終えるとドタバタと階段を駆け上がってドアを開けた。

「アラン!いい加減に起きてよ、掃除が終わらないわ」

アランから布団を剥ぎ取ると、開げた窓に布団を干して、手際よく掃除を済ませてしまった。二日酔いのアランは眠そうに目をこすっている。口うるさそうにしても、ギリギリまで寝かせてくれようと、最後に掃除に来てくれたのを彼は知っている。


 この診療所にはこの3人が住んでいる。


 アランは名残惜しそうにベッドから起き上がると、ウルズラが置いていったピッチャーから洗面器に水を移した。顔をびしゃびしゃと洗い、ボサボサになった歯ブラシで歯を磨くと、これもウルズラの置いていった側のリネンのタオルで顔を拭いた。

 オリーブオイルの小瓶を手に取ると手に少しオイルを馴染ませて、短く切ったグレーの癖っ毛をガシャガシャと一応整えた。年頃の女の子たちは容姿にうるさいのだ。

 一階ではジェーンとウルズラが愉しそうに朝食の相談をしている。


 アランが階段を降りていくと2人が食堂の椅子にすわっているのが見えた。床はすっかりブラシで磨かれて、部屋にはテーブルの上の花瓶に生けられたハーブの香りが漂っている。


 この診療所は100年ほど前に建てられたらしい。建てた医師はとうの昔に亡くなって、その息子の医師も亡くなった後に数年放置されていたが、縁もゆかりも無いアランが移り住んできてこの診療所を開いた。

 どこもかしこも古ぼけて、組み木の床はあちこちすり減って波打って、レンガの壁に塗られた漆喰もところどころ剥げてしまっている。しかし、昔の職人によって丁寧に建てられたためがっしりしている。ウルズラやジェーンがやってきてからは、手直ししたり植物が植えられたり、掃除されたりして見違えたように明るくなった。

 食堂には元々あった木の丸テーブルに、昔ながらの暖炉式のキッチンと調理台、ジェーンの育てているミントの鉢があるだけだ。

 ミントの鉢はもはや木のようにこんもりと育っている。それをここでは精油やリネンウォーター、ハーブティーに使っている。


 ジェーンはウルズラの明るいブルネットの髪をシニョンにしてリボンを結んでいた。去年のウルズラの誕生日にアランとジェーンでプレゼントしたレースのリボンだ。


 2人は彼の顔を見るとコロコロと笑った。

「ひどい顔」とジェーン

「そうね、ひどい顔」とウルズラ

「きっと遅くまでレモンの店で呑んだのね」

 ジェーンはそう言って立つと、たっぷりのミントを摘んで、洗うと、パンパン!と手で叩き、ピッチャーにそれを放り込んで瓶に汲んだ冷たい水を注いだ。アランが二日酔いの時には、このミントウォーターを作ってあげるのだ。ピッチャーからミントウォーターをアランのボウルに移して差し出すと、アランはそれをゴクゴクと美味そうに飲み干した。ミントの爽やかな香りが鼻腔いっぱいに広がる。

「あー、生き返った」

2人はまたコロコロ笑った。

「まったく調子がいいのね」とジェーン

「若くないんだから、あまり呑んじゃ身体に悪いと思うわ」とウルズラ。


 事実、アランはもう40歳を越えたところで、ジェーンは9歳、ウルズラは16歳。

 ジェーンもウルズラも孤児で何年も前にこの診療所に引き取られてきた。みんな血は繋がっていない。アランはそんな屈託のない少女たちを見てしょうがなさそうに笑った。

「昨夜はバチストが来ててな、つい飲み過ぎたんだ」

 バチストとは元乞食の巡礼僧で、この貧民街に立ち寄って以来住みついてしまった男だ。物知りで話が面白く、酒場で街の男たちを見つけては酒を奢らせている。

「しょうがないわねぇ」

まだ少女のウルズラがまるで古女房のように間の手をうつ。

 ジェーンはウルズラの髪のリボン結びが気に入らない様子で解いては結び直す作業を繰り返している。ウルズラはジェーンにされるがままにじっと座っている。庭からは時折クルクルとニワトリたちの声が聴こえてくる。窓の奥には真っ白なさらしとハーブがさらさら風に揺れるのが見える。

 アランはそんな一連の光景をじっと眺めている。


 少ししてアランは水をもう一杯ぐびっと飲み干すとよしっと言って立ち上がった。

「生き返ったら腹が減ったな、朝飯はなににしようか?」

ジェーンとウルズラは顔を見合わせる。


『ガオのお粥が食べたい!』と少女たちが元気よく言った。

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