最終話 小屋の内と外
暗闇の中で、私は机を見つめていた。
私の歪んだ体内時計で推測するならば、今の時刻は日付が変わって数時間経ったあたりなので、午前三時か四時くらいではないか。
当たっているのか、間違っているのか。
判断するための材料は一切ない。
扉がノックされる。
あの男ではないだろう。ノックなどせず、自分の家に帰ってきたかのように入ってくるはずだ。許可をとらないことにかけては、他の追随を許さないだろう。
外から差し込んでくる光に、いつものような優しさはない。人工的な、白や赤や青である。聞こえてくる音は粗雑である。足音、服が擦れる音、呼吸音、金属が何かに当たって立てる音、聴きなれない単語が飛び交う会話。
私は立ち上がると、扉に手をかけて静かに開いた。
そこには、私の知っている森はなかった。
見知らぬ男が瞬きを一切せずにこちらを睨んでいる。他にも、無線機のようなもので何か話している見知らぬ女。皆、闇に溶けるような青黒い制服を着ており、敵意と恐怖がないまぜになった空気をまとっていた。
木々は、いつもであれば昼なら昼の色に、夜なら夜の色に染まるのだが、今夜に限っては色付きの光をその身に映している。ペンキで塗られているかのように下品で窮屈に見える。
「どうも、夜分遅くにすみません」
女性だった。
穏やかな笑顔ではあったが、それが作られた表情であることは容易に分かった。女性も、私が理解しているのを前提として、不必要な挨拶をしているのだろう。私の心の波がどの状態であるかを探っているはずだ。
だが、読まれて困るような心情ではない。
「私の家の周りが、随分と騒がしくなったようだ」
「えぇ。ナキメソウ事件についてです」
その時、女性の後ろにいた身長が二メートルもあろうかという大男が私の方へと近づいてきた。
女性が振り向き大男を片手で制す。そして、もう一度私の方へと顔を向ける。
「あなたが、犯人ですね」
「何故、そう思う」
「容疑者の絞り込みが終わりました。計四年間、最後まで監視が外れなかったのは、あなただけです」
「運送の記録から割り出したのか」
「その通りです。ただ、証拠が余りにも少なく、何度も二の足を踏みました。決定的だったのは爆弾に付着していた土です」
「この森の土か」
「はい。やはり、爆弾作りは清潔な場所で行うべきです」
「この森には、人間が私しかいない。ここが世界で一番清潔だよ」
「その森が、あなたの凶行を止めました」
「そう解釈できるかもしれない」
私は扉をもう少しだけ開いた。女性の後ろにいる警察官たちの表情が僅かばかり柔らかくなる。
「あなたは完全に包囲されています。逃げられません」
「私が自殺をしようとして、この家に仕掛けた爆弾を起動させる可能性もある」
「死ぬだけで、逃げたことにはなりません」
「天国に逃げる」
「せめて、あの世です。それか、地獄です」
「本当に知りたい。何故、強硬手段に出ない。さきほど言った通りで、爆発させる可能性もあるし、そもそも私との会話なら逮捕後に幾らでもできるはずだ」
「強硬手段に出た場合、あなたが咄嗟に爆発させる可能性があると考えました。そのためには、逮捕前にあなたの状況を知らせた方が、お互いにとって安全であると判断しました」
「私に、その判断理由まで聞かせる意味は、何がある」
「少し、話しておきたいことがあるからです」
「何か」
「二つほど」
「どうぞ」
気が付くと、ここが恐ろしいほど静かな森であることが分かった。多くの警察官がいるにも関わらず、ことが始まれば皆が沈黙し、音すら立てない。これだけの音の発生源が溢れているにも関わらず、耳をそばだてても何も聞こえない。異常である。もしかしたら、私の精神が今現在の状況に堪えきれずに高ぶってしまい、不必要な音をすべて遮断しているのかもしれない。
こんなタイミングでも、私は、私のことを冷静に観察している。
「あなたは、私を警察官だと知っても警戒していないようでした。それが不思議でした」
「理由は、あなたを信用していたからだ」
「何故、信じたのですか」
「あなたは私に信頼されようとしていた」
「はい、そうです」
「私は、私に信じてもらおうとする人を疑う方法を知らなかった。それだけだ」
「分かりました。ありがとうございます」
「とんでもない」
「あと、もう一つ。あなたの家によく遊びに来ると言っていた男性の方ですが」
頭の中に、男の笑顔が浮かんだ。
一昨日会話をした時は、私のことを心配してくれていたのに、その期待に応えることがとうとうできなかった。おそらく、もう二度と会うことはないだろう。
もっと、噛み締めるように会話を楽しむべきだった。
「四年間、監視していましたが、あなたの家を訪れた者は一人もいませんでした」
すう、と。
自分の喉が小さく鳴った。
「一昨日はどうだった」
「いません」
「その前は」
「四年間いません」
私は顔を下に向けると、扉を少しだけ閉めた。
女性は扉に手をかけようとする。
「大丈夫だ。直ぐに出る。待っててくれ。ちょっとでいい。悪あがきはしない。頼む、信じてくれ。少しでいいんだ」
私は女性の返事を待つこともなく、扉を閉めて部屋の奥へと戻った。
机に両手をつく。
喉が冷たい。
どこにも通じていなかった。
社会に向かって、ありとあらゆる理屈と証拠と思想と自虐を並べていたが、そもそも拒絶すらできていなかった。
社会に中身などない。
空虚。
漂っているだけ。
まるで海月。
そう揶揄することで精一杯なだけだった。
胸やけがする。吐き気がする。頭痛はない。しかし、体のどこかの筋肉が痙攣している気がする。該当の部分を揉もうとしても、探ることができない。
分からない。
机により体重をかけて、顔を少しだけ上げる。
優しい光だけが外から差し込んでくる。
落ち着いた心地になる。
やはり、この森が良い。ここで生きて、ここで死にたい。できれば、ここで生まれたかった。
雲が動いたのだろう。家のそこかしこにある細い隙間から、薄い外光が入りこんでくる。
机の上には、何もない。
海月に届かない計算機 エリー.ファー @eri-far-
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