さようならとはじめまして (3)
上等な馬車は揺れが他の荷馬車などよりうんと少なく、軽快な早足の馬の足音を聞きながら気疲れしてしまったのか、うつらうつらと眠りそうになっていたアンは停車した馬車にハッと気が付いて背筋を伸ばす。
扉が開き、降りる為の踏み台を置いてくれた御者、そしてまたアンを出迎えてくれたのはあの時と同じメイドのフリジアだった。
「アンジェリカ様、またお会いできて光栄です」
私の方こそ、とアンは恐縮してしまうが彼女が乗って来た馬車の隣には既にもう一台、今乗って来た物よりももっと上等な……普段は辺境伯夫人であるマドレーヌが使用しているような厳かな馬車が横付けされていた。
まさか、とアンは思った。それに他に三頭の馬が使用人によって連れられている最中で中でも目を惹くような立派な馬が一頭、何故かアンと目が合ってしまう。同じこげ茶の瞳と毛並は天気の良い今日の昼の日差しにつやつやと光って美しい。
農耕馬の朴訥な力強さとはまた違った美しい馬に見惚れている内にアンの見かけによらず重量のある荷物が隣の馬車に運ばれて行く。やはり自分はそれに乗って王都まで行くのだろうか……と馬に見惚れている場合ではなかった。
「あ、あの!!失礼を承知で……これ、もしよろしかったら受け取っていただけますか」
先日訪れた際にとても良くして貰ったお礼に、と言葉を添えて紅茶の茶葉が入っていた平たい丸い缶をフリジアに差し出す。
「まあ、そんなお気遣いを」
「
分けて貰った紅茶の質からして不躾かもしれないと考えもしたが今年の砂糖漬けは乾燥も丁度良く、味や香りも申し分ない。これはアンが自分用に家で作った物だったが実際、母親や親友のマーガレットはこうした加工をして村外や他国に向けての商品を作っていた。
「有難く頂戴いたします」
フリジアの言葉と笑顔に受け取って貰えてひと安心をしていれば重い靴音が聞こえる。
「ああアンジェリカ、ようこそ」
快活な声にまだぎこちなさが抜けていないもののアンはそっと淑女の挨拶をする。
そこにはまた、あの日と同じようにしっかりとした乗馬用の衣類を身に纏ったダンデリオンが立っていた。
「君の住む場所を決めるのが遅くなってしまって手紙に書けずにいて悪かった」
「いえ、そんな」
「それで出立の時間なんだが……すまない、先方が早く君に会いたがっていてこのまま向かうことになった」
ちら、とダンデリオンが背後を気にするとすぐに開け放たれている背後の玄関ホールからマドレーヌ夫人が何か包みを持って早足でアンたちの元へやって来る。
「御機嫌よう、アンジェリカ。本当はあなたとランチをしたかったのだけど予定が変わってしまって」
夫人の手から直接渡される一つの包み。
「サンドイッチにしたから、しっかり食べるのですよ」
にこにことしている夫人はシンプルなドレスの上に清潔な白いエプロンドレスを掛けていて……そんな姿など上流貴族の女性として、本当は見せてはならないものだったが主人、夫であるダンデリオンは「チキンを焼いていたから遅くなったのか」と気にもしないでエプロン姿の夫人に問いかけている。
「だってアンジェリカには温かいランチを、と思って」
貴族階級、その中でも上位の辺境伯夫人による丁寧な振る舞いにどう話をしたらいいのか分からないアンは「どうぞ」と差し出された包みを受け取るしかなかった。受け取った包みは温かく、中に入っている物が本当にまだ出来立てなのだと知る。
「……君の思っている事を代弁すると、これも妻の“趣味”でな。手先が器用であり、結婚した当初から今に至って何事にも変わらぬ好奇心を持っている」
笑っているダンデリオン、支度を進めている男女様々な使用人たちも夫人のエプロン姿はなんらおかしい事ではないのだと気にも留めていない様子で粛々と働いている。
貴族の女性が手にレースや上等な薄い織物のグローブをする理由くらい、田舎者のアンでも分かっていた。けれど夫妻はそれぞれにとても自由で、開放的な性格なのかもしれない。
「二人とも、どうか道中気をつけてね。急がれると言っても、ちゃんと馬車を止めて休憩もするのですよ」
「ああ、分かっている」
二人の会話から察するにもしかすると夫人はダンデリオンよりも家柄が……と思ったがそんな大それたこと、アンは言葉にしてはいけない身分だった。
「アンジェリカ様、お気を付けて」
話のやり取りの区切りが良い所でフリジアから馬車の中にある膝掛けもご自由に使って下さい、とアンは説明を受けるとダンデリオンも「皆、そろそろ出発しよう」と王都まで同行する他の従者に声を掛ける。
いよいよアンは一度も訪れた事の無い王都へ……そしてそこでの新しい生活が始まろうとしていた。
アンジェリカ・へルマンの花咲く庭園日誌 緑野かえる @midorinofrog
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。アンジェリカ・へルマンの花咲く庭園日誌の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます