第17話 ぶどうジュース

 明平の見せ場が全くなかったその日、自衛隊への引継ぎが終わった後、彼は氷華に呼び出されて校内のベンチに座っていた。すでに時刻は午後7時を回っていて、新月の空は真っ暗だった。

「飲み物、おごってあげるよ。何がいい?」

 彼らが座るベンチのすぐ近くには、買わない奴は座るなとでも言っているかのように煌々と輝く自動販売機が自身の存在を主張していた。

「ありがとうございます。じゃあ俺は……。」

 話を聞くだけで飲み物がもらえてラッキーだと内心よろこびながらも、明平は卑しさが露見せぬよう平静を装ってボタンを押した。

 ビープ音と缶の鈍い衝撃音が夜空に響く。

「へえ、ぶどうジュース好きなんだ。」

「はい……。」

 そう答えてはみたものの、どうしてこの「果汁100パーセントぶどうジュース」を選んだのか、彼自身よくわかっていなかった。それはどうして隣にあった果汁5パーセントのものにしなかったのか、という意味での話ではなく、どうしてりんごジュースやオレンジジュースにしなかったのか、という話である。

 好きだからと言えばそれで終わりの話である。だが、いつから彼は、自身の行動に何の疑いもなく自然にぶどうジュースのボタンを押してしまうほどに、ぶどうの味を好むようになったのか。その答えが分かったところでおよそ何の足しにもならないのだが、とりあえず今回彼が学ぶべきことは、おごってもらう際に一番高いものを選んでしまったことは、不注意によるものだったとはいえ、後悔するべきことであるということだ。

「取り合えず、座ってよ。」

 なぜなら、それ相応、もしくはそれ以上のモノを負わされたとしても、文句を言うことができないからだ。


「ある少女の話をしよう。」


 ゆっくりと腰かけると、急にかしこまった様子で氷華はそう切り出した。こんな言い回しをするときは、大抵、自分の話や語る対象の人間の話であることがセオリーだ。あるいは、単に語り手に近い存在の人間だったりもする……。

 長くなりそうだと察しながらも、おごってもらった飲料が自販機の中で一番高いものだったことに気づいた明平は、せめてもの思いで真剣に聞くことにした。

「その少女は、だった。彼女は他に類を見ない、優れた超能力を持っていた。水流生成ハイドロフォーム――文字通り、水をする力だ。それもS級の。――彼女は幼くしてその実力を買われ、北高に推薦入学で合格し、そのうえ卒業後の北国大への進学まで確約された。それも給付型奨学金付きで。――ただし、それには北方奉行ノーザン・マギストレートへの入隊という条件が課せられていた。」

 ずいぶん優秀な人間である。国家のピンチが差し迫っているときに、岩陰に隠れていただけの誰かさんとは次元が違う。

「入学初日から、彼女は圧倒的な実力差を見せていた。そんな彼女の背中を追っていたのが、三女だった。彼女の能力は水流操作ハイドロマニピュレーション。長女の能力とはよく似ているようで全く違う、水をするだけの能力。それものわずかな量しか操れなかった。」

「――!」

 明平ははっとしたような顔で氷華の横顔を見た。

 氷華は彼の顔を一瞥し、彼が何に気付いたのかを察しながらもそのまま話をつづけた。

「幼い三女は長女に憧れを抱き、密かに練習を続けていた。早朝起きてすぐはもちろん、学校から帰ってきてすぐ、皆が寝静まった夜まで特訓を毎日していた。――ただそれだけの日々だった。けれど、ある日事件は起こった。」


 ――激しい吹雪の日だった。

「ちょっと、待ちなさいよ。こんな熱が出てるのに、無理に決まってるでしょ!?」

「だいじょうぶ、大丈夫だよ。心配しないで。」

「何言ってるの!? ここ最近ずっと体調が悪いっていうのに、さらに悪化したらどうするの!?」

 長女を引き留める次女の声が、ストーブの熱を帯びた部屋に響き渡る。

「出動要請が出てるんだ。私が行かなきゃ、ダメなんだよ。向こうで戦っているみんながいるんだから。」

「待ちなさいよ。いくら何でも……」

 

「ま、待って……!」


 廊下に出た彼女の前に小さな体で立ちふさがったのは、三女だった。

「わたしが、わたしが代わりに行く。だから、お姉ちゃんは休んでいなきゃダメ……。」

 覚悟を決めたような声で言い張る三女を見て、長女は優しく微笑む。

「ずいぶん、成長したんだね。」

「そ、そう。わたし、成長したの。だから、わたしに任せて。それでお姉ちゃんは……」

 長女は必死で話す三女の唇に人差し指をそっと当て、言葉を遮った。

「大丈夫。すぐに終わらせちゃうから。お姉ちゃんを信じて待っていて。」

 彼女はそう言って扉を開け、家の前に止まっている迎えの車に乗った。吹雪の中に消えていく車を、二人は黙って見つめているしかなかった。


 ――「それから、その少女が帰ってくることは二度となかった。残された二人は、彼女が戦死したとだけ聞かされ、それ以上のことは何も教えてもらえなかった。三女は自分を責めていた。『自分が弱かったから、頼ってもらえるほどの実力がなかったから、こんなことになってしまったんだ』と……。」

 あの時霞が怯えていたのは、その時の経験があったからなのかもしれない。姉が命を落としたのは、まさにあの時のような状況の中であったのだろうから。

「君、いつも霞と特訓してるよね?」

 席を立った彼女はそう言った。

「やっぱり、分かっていたんですね……。」

「お願いがある。君に、霞のことを任せたい。」

「え!?」

「これからも、霞の特訓に付き合ってあげてほしい。君がついてからは、霞の能力が大きく成長してるんだよ。それに……」


「君なら、あの子を救ってくれるんじゃないかって、思えてくるから……。」


「『救う』? 救うってなんですか、俺にそんなご大層なこと……。」

 明平は困ったような顔をした。自分の身を守るので精いっぱいの彼に、何ができるのかも分からないからだ。

「あたしやムロランも、二年生のみんなも、あっという間に卒業しちゃうんだよ。霞が三年生になったら、今度はあの子が下級生たちを引っ張っていかなきゃいけない。そうなった時のために、あの子にはしっかりしてもらわなきゃ、いけないんだよ。だからそのために、霞が成長できるように、過去に囚われているあの子が思い切って前に進めるように、支えてほしい。」

 「お願い」と言って目の前で頭を下げてくる彼女に、明平は困惑した。そこまでされたらノーと答えるわけにもいかず、結局承諾してしまった。

 けれども、安堵した表情を浮かべながら「ありがとう」と言う彼女の顔を見ると、断れない自分に納得してしまうのであった。

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科学とあの子とトリケトラ――超能力は使えないので、「運」で乗り切ろうと思う。―― 京巧桃 @fluorescent-light

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