雪の日に限って現れるとは、お前は雪女か

仲瀬 充

雪の日に限って現れるとは、お前は雪女か

今日は大寒だいかんである。

暦に義理立てしたわけでもなかろうが昼から降り出した雨は夜に入って雪になった。


吾輩わがはいが3階に住むマンションは両側に桜並木の続く国道ぞいにある。

国道をまたぐ歩道橋を渡ればすぐ目の前がマンションの入り口だ。


歩道橋のたもとまで来たら階段の下に小娘こむすめが倒れていた。

吹雪が舞う中、うっすらと雪化粧した歩道に小娘が横たわっているのは絵になる光景である。


眺め続けているわけにもいくまいから吾輩は声をかけてやった。

「階段を滑り落ちたのかね?」


小娘は頷いて「ハスイ…」と言った。

見ると、短いスカートから突き出た両脚の間に血の混じった液体が流れ出ている。

ジェントルマンの吾輩は破水はすいした小娘のために救急車を呼び、同乗して病院まで付き添ってやった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


3日後に吾輩は小娘の入院先から呼び出しをくらった。

小娘が脱走したという。

それは一向にかまわないのだが、治療費と入院費を吾輩が支払うはめになったのは、ちと痛かった。


今年の東京はよく雪が降る。

今日も3日前と同じく雪だったが、夜にインターホンが鳴った。

ドアを開けると例の小娘が立っている。


「この前といい今日といい雪の日に限って現れるとは、お前は雪女か。どうしてここが分かった?」

「病院の書類の連絡先の欄」


ジェントルマンの吾輩は病院の支払いのことはおくびにも出さずに中に入れてやった。

「妊娠11週目の流産だそうじゃないか。親兄弟はおらんのか? 赤ん坊の父親は?」

「誰の子か分からない。親兄弟もいない。腹へった。ジジイ、何か食うもの、あるだろ」


吾輩は冷凍ピザを焼き、即席のポタージュスープも付けてやった。

「うまかった。眠い。寝る」


吾輩のマンションは2LDKだから空き部屋に布団を敷いてやった。

すると小娘は吾輩の寝室まで布団をズルズル引きずってきて、布団に入るとすぐに寝入ってしまった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


翌朝9時過ぎ、吾輩はトーストとベーコンエッグを2人分作り、小娘をたたき起こして一緒に食べた。

「わしは出かける。ドアはオートロックだからお前は好きな時間に出て行け」


そう言いおいて外出したのだが、吾輩が夕方に戻ってくると電気が点いていた。

「まだおったのか」


「ダチも迷惑がってるから行くとこない。ジジイは仕事、何やってんだ?」

「去年定年退職するまでタンカーの船長をしておったが、今は年金暮らしじゃ」


「今朝、出かけたじゃん」

「日課の図書館通いだ。図書館で本を読んで、時には美術館や博物館に行ったりして、ジェントルマンらしく優雅に過ごしておる」


「ジジイのヨメは?」

「2年前に亡くなった。船を降りて妻と過ごすことを楽しみにしておったんじゃが退職まであと1年という時にってしもうた」


「よっぽどジジイと一緒にいたくなかったんだ。ガキは?」

「娘が一人おるが、厳しく育てたせいか、妻の葬式がすむとここを出て行った」


「娘にも毛嫌いされたか」

「待て待て、まるでわしの身元調べではないか。こっちこそ色々聞かねばならん。小娘、年はいくつじゃ」


「アタイのことはほっとけ。年はハタチってことにしとく」

窮鳥きゅうちょう懐に入れば猟師も殺さず」というから、ジェントルマンの吾輩は天涯孤独だと言う小娘を追い出す訳にもいかなくなった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


居候いそうろうの小娘を流産直後は大目に見ていたが、吾輩も慈善家ではない。

「いい若いもんが毎日ごろごろしていてどうする。いつまでもただ飯を食わせるわけにはいかんぞ」


すると小娘は吾輩を睨みつけて「働きゃいいんだろ!」と言い捨てて夜だというのに出て行った。

夜中の12時過ぎに戻って来た小娘は玄関で頭と肩の雪を払って、リビングのテーブルの上に1万円札を叩きつけるように置いた。

「3日に1万として月10万。それでいいか?」


小娘が風呂に入っている間に吾輩は考えた。

最近読んだドストエフスキーの『罪と罰』に似た場面があった。

若い女が夜の数時間の内に1万円を稼げるのは世界最古の職業と言われるアレ以外にはない。

流産した子の父親が分からないというのも小娘のこれまでのふしだらな生きざまを証明している。


吾輩は風呂からあがった小娘をリビングに呼んだ。

「小娘、わしはジェントルマンだ。ジェントルマンというのはな、何事があっても心を波立たせてはならんのだ。そのわしが不覚にも『罪と罰』のソーニャが初めて街角に立った場面には泣かされた」


「ジジイ、何言ってんだ?」

「体を売るのはよせということだ」


「こんな雪の夜にマッチでも売れってか? アタイは他に売るものはないんだ!」

「よし、それならわしが買う」

小娘は口をつぐみ、代わりに目を見張った。


「3日に一度、わしに添い寝しろ。それを1万円分にカウントしてやる」

「3日おきとは元気なジジイだ」

小娘は缶ビールを口にしながらニヤリと笑った。


3日後の夜、小娘のほうから吾輩のベッドに潜り込んできた。

唇を重ねようとするのを吾輩は首をねじってかわした。


「自分から言い出したくせに、ジジイ、どうした?」

「添い寝と言ったろう。わしは生ぐさい青春時代には戻りたくない」


「生ぐさい?」

「そうだ。いいか小娘、青春は酒の飲みすぎみたいなもんじゃ。しゃがんであえぎながら便器の中に反吐へどを吐いてそのえた臭いを嗅ぐ、青春とか肉欲とかはそんな世界だ。だから小娘、お前とも男女のドロドロした……、おい? なんじゃ、寝てしまいおったか」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


毎日一緒に過ごせば、小娘の意外な面を見ることもある。

ソファーでうたた寝する時は、胎児のように手足をたたんで丸まって寝る。

添い寝している時、急にしがみついてきて小刻みに震えることもある。


察するに、これまでDVを受けたかなにかして精神が委縮しているのだろう。

その反動なのかもしれないが、それにしても普段の言動は目に余る。


吾輩は添い寝をしている時に話を切り出した。

「小娘、わしのことをジジイと言うのはやめてくれ。わしはジェントルマンなのだ」

「何て呼んでほしいんだ?」


「そうさなあ、ダディとか……」

「キモっ! パパぐらいにしときなヨ」


「それにお前が自分のことをアタイと言うのも聞き苦しい。私と言ってもらいたいものだ」

「うるさいなあ、娘が出て行くはずだ。じゃ、パパもアタシのことを小娘って言うの、やめてよネ」


「それなら、お前の名前は何というのだ?」

「麻里っていうの」


「わたくし、腹へった。」と言う人間はいない。

人称代名詞によって言葉づかいは変わるのだ。


「ジジイ」を「パパ」に、「アタイ」を「アタシ」に変えただけで麻里の言葉づかいは既に以前とは異なっている。

吾輩は『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授になったようで、いい気分である。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


麻里の問題は言葉づかいだけではない。

立ち居振る舞いや家事全般についても教育を施さねばならない。


まずは外見からということで、服を買いに2人でデパートに買い物に出かけた。

麻里は普段はジーンズばかり穿いているのでスカート数点とネグリジェを買ってやった。


麻里はネグリジェに抵抗したが吾輩は頑として譲らなかった。

「パパの趣味なの? アタシ、やだヨ。パジャマがいい」

「いいや、パジャマでは胡坐あぐらをかくお前の習慣はなおらん」


デパートを1階まで降りてバッグ売り場付近を歩いている時、麻里が遠慮がちに言った。

「パパ、ヴィトンが欲しい」


「鍋つかみならキッチンにあるではないか」

「もういい! 帰る!」

年頃の娘の感情はさすがの吾輩にも量りがたい時がある。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


2月中旬のある昼下がり、吾輩が外出先から戻ると玄関の下足箱の上に菊の花束と鍵が置いてあった。

リビングでは麻里がネグリジェ姿でソファーに寝そべってテレビを見ている。


「レディは起きたらすぐに着替えるものだ。ところで誰か来たか?」

「目のきつい女。パパ、あんなのが好みなの?」


「何か話をしたか?」

「ドアが開いて入って来る気配がしたから『パパ、帰ったの?』って言ったら、その女、アタシを見てすぐに出てった。ねえ、アタシが居てマズかった?」


吾輩はすべてを了解した。

「今日は妻の命日で3回忌だから娘が仏壇に手を合わせに来たんじゃろう」

「えっ? 愛人じゃなくてパパの娘だったの?」


ネグリジェ姿の若い女が「パパ、帰ったの?」と言うのを聞いた娘のほうこそ麻里を吾輩の愛人と思ったはずだ。

ここの合鍵まで置いて行ったということは二度と来るつもりがないということだろう。

連れ合いを亡くして3回忌も済ませないうちに父親が若い女を囲っていると思ったのなら愛想をつかすのも当たり前だ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


娘から絶縁を宣告されても吾輩は落ち込んでいられない。

図書館通いもやめて付きっきりで麻里の教育にかかった。


ゴミの分別の仕方や回収日を教え、食材の買い出しも一緒に行くようにした。

麻里は徐々に料理のコツをつかみ味噌汁の味もだいぶよくなった。

以前は出汁だしを取るということも知らずお湯に味噌を溶かして平然としていたものだった。


2月も残り少なくなった頃、麻里は働きに出たいと言い出した。

吾輩は家にいてほしかったが相手を尊重するのがジェントルマンである。


「麻里の好きにすればよい」

「このレストランなの」

麻里はアルバイトの情報誌の付せんを貼ったページを開いた。


吾輩は頷いた。

ウエイトレスなら言葉遣いや身のこなしなど、吾輩の教育が生きることだろう。


3月から勤めだした麻里は顔色も表情も日を追うごとに健康的になっていった。

それもそのはず、マンションの前の桜並木が見頃を迎えた3月下旬のある日、麻里は夕食を食べながら彼氏ができたと告白した。


「何者じゃ?」

「レストランの近くの工務店の作業員なの。レストランでアタシを見て一目ぼれだって! キャハッ!」

麻里は自作のコロッケを頬張ったまま照れ隠しに吾輩をバシバシと2度叩いた。


彼氏と一緒に住むということで、4月の初めに業者を呼んで麻里は自分の荷物を運び出した。

少しずつ荷物が増えていた麻里の部屋は元通りのがらんとした部屋になり、吾輩も一人暮らしに戻った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


それから1週間ほど経った日曜日に、麻里が彼氏を連れて改めて別れの挨拶に来た。

25歳だという青年は三浦哲夫と名乗った。


「2人でちゃんとやっていけるのかね?」

「哲ちゃんだけでも暮らしていけてるんだからアタシのバイト代を足せば今より楽になるはずヨ」


「あのう、僕の実家は三浦半島で三浦大根を栽培しているんですが、将来は2人で実家を継ぐつもりです」

小柄で小太りの三浦青年は緊張で顔を赤くしながらしゃべった。


「膝を崩したまえ。ところで、君の親御さんは身寄りのない麻里との付き合いに反対していないのかね?」

「田舎の農家の嫁に来てくれるだけで有難いって喜んでいます」

気になっていた彼氏の人柄とその実家の反応を確かめることができて吾輩は大いに安心した。


2人が玄関を出ようとする時、吾輩は麻里を呼び止めた。

「2人暮らしを始めたばかりで何かと物入りだろう。これは餞別がわりだ」


吾輩は麻里に封筒を渡した。

「20万入っている。添い寝のアルバイトの2か月分だ」


「パパ……」

麻里は目に涙をためて吾輩に抱きつくと嗚咽おえつを漏らし始めた。


「ブレイク!」

吾輩はボクシングのレフェリーのように麻里の腕をほどいた。


門出かどでに涙は禁物きんもつだ。麻里らしくもない。出会った頃の威勢はどうした?」

「分かったヨ。泣くもんか、ジジイ」

麻里は指で涙を拭きながら笑顔を作った。


2人が出て行くと、吾輩はリビングの窓辺に寄った。

すぐ下に歩道橋が見える。


歩道橋を上ってきた2人は、マンションの3階の窓から見下ろしている吾輩に気づいた。

三浦青年は頭を下げ、麻里は両手を交差させながら大きく手を振った。


2人の姿が見えなくなると吾輩もマンションを出た。

そして、さっきの2人と同じように歩道橋を上って向こう側に渡った。


歩道橋を下りたところで吾輩は立ち止まった。

並木の桜の花びらが風に吹かれて次から次に散りかかる。


ここは3か月近く前に麻里が倒れていた場所である。

麻里は雪の舞う夜に吾輩の前に現れ、桜の舞い散る今日、吾輩の元を去って行った。


おやおや、いったいこれはどうしたことだ。

吾輩の目頭めがしらが熱くなってきたではないか。


取り乱してはならない、取り乱してはならない。

吾輩はジェントルマンなのだから。

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