12-2 義人人形の死

 マルトは怪訝な表情で己の右膝を見下ろした。


「ダイアリーさんが今回使った一つ目の願いは、『マルトご主人さまの火傷を治してください』といったところかな」


 マルトは無言で頷いた。恐らく火傷を治療した余波のような物で膝の怪我も奇跡的に治ったのだ。だから願いは厳密には『マルトご主人さまの怪我を治して健康な体に戻してください』だったのかもしれない。マルトとしては感謝しかないが、もしかしたらそのために取り返しのつかない大きな犠牲を払ってしまったかもしれない。


「もう一つの奇跡は、ヴァンサンが元より望んでいたものだ。義人人形だったヴァンサンは、賢者の石の力で人間になったのだよ」


 体に毛布を掛けられているヴァンサンを見下ろすマルト。見ただけの判断では、ヴァンサンが義人人形なのか人間なのかは区別がつけられない。人間であるからには、気温の低い部屋で眠っては体温が下がってしまうので、ポールが毛布を掛けてやったということなのだろう。


「ダイアリーさんは優しい心の持ち主なんだな。ヴァンサンの生い立ちの話を聞いて義人人形同士、共感するものが多かったんだろう。貴重な賢者の石の力を使って、ヴァンサンの願いを叶えたんだ。ただしその代償として、二回残存していた願いを叶える力を使い切ってしまった。賢者の石はただの石ころになってしまったはずだ。だとすると、水を蒸気に換える熱源が無いから、もうダイアリーさんは義人人形として動けなくなったはずだ」


「そんな……」


□□□


 それから。


 義人人形ダイアリーが機能停止してしまった冬至節の前夜以降、マルトは一人で暮らしている。足が治ったので家事はやりやすくなった。


 馭者の仕事はまだ続けている。が、足が良くなった以上、馭者にこだわり続ける必要は無い。もっと他の、マルトがやりたい仕事をすることもできるのだ。全ては火傷だけでなく足までも治してくれたダイアリーの奇跡のおかげである。


 現在はまだ馭者の仕事を継続しているので、時には広場の前を通ることもある。黄色い家を横目に見る。画家ヴァンサンには散々振り回されたが、今となってはさほど恨む気持ちも無い。むしろ彼は、これからが本当の画家人生の始まりだ。知り合いとして、有名画家になってほしいと応援する気持ちすらある。


 賢者の石の奇跡で、ヴァンサンは人間になった。本人が、ダイアリーの胸から取り出してでも叶えたかった切実な願いだ。


 人間になったヴァンサンだったが、左手は手首から先が無い状態だった。だが、あくまでも利き手は右手であり、右手さえあれば絵筆を握って絵を描くことができる。本人的には問題は無かった。どうせ元から家事はできなかったので、絵さえ描ければ本人だけは満足なのである。


 マルトたちの存在とは無関係に、黄色い家におけるヴァンサンとポールの画家二人の共同生活は破綻していた。ヴァンサンは義人人形ではあったがメイドではないので、家事が全く得意ではなく、いつでもできる掃除を気まぐれで引き延ばしてしまう性格のため、他者との共存は困難な人物だった。更にはポールは若い頃から喧嘩っぱやい性格だった。


 肝心の絵においても、二人の強烈な個性が激しくぶつかり合うこととなるのは宿命だった。二人は画風でいえば共に、旧来の写実的画風から脱却して表現方法を追求する流派に属する。内面性を描こうと同じような試行錯誤をしていたので、当然作風は似ていた。似ているからこそ、細かい部分でのこだわりの差にお互いに我慢できなかった。作品の細部にこそ神が宿るのだ。細部だけではなく、作品を通じて表現しようとしていたそもそもの主題が異なっていた。ヴァンサンは自分の鬱屈した感情を表現しようとしていた。ポールは自分の死生観や観念を映し出そうと試みていた。


 その上更に、ヴァンサンが義人人形であるがゆえに絵が売れず、ポールの絵ばかりが評価されてルテティアの画商で高価で売れる、という格差が発生したわけだから、仮面を被り続けて仲良しを演じ続けようというのは、到底できない相談だった。


 絵が売れて自分が自由に使えるだけの経済力を手に入れたポールは、ダルレスの黄色い家を卒業することを契機に、以前からの夢だと語っていた南の島へ行くことにした、という。


 ヴァンサンはというと、黄色い家を出たら、ルテティアの都へ戻り、人間の画家として再出発するという。ヴァンサンという男は、義人人形の頃から人柄に問題があり、とにかく生き難い人物だった。それが生身の人間になったからといって急に完全されることもないだろうから、心配ではあるが、今度は絵で正々堂々と勝負できるので、自分の純粋な絵の実力で頑張ってもらうしかない。さすがに絵については、マルトでは手助けできるような要素は皆無だ。ポールが南の島に憧憬を抱いていたように、ヴァンサンもまた、東の果てにあるワクワク島へ行ってみたいという気持ちを持っていたのだという。ワクワク島で描かれる浮世絵には影が描かれないので、真上から眩い光が燦々と降り注ぐ太陽の国であるに違いない。現在は武家政権がワクワク島を支配しており、将軍が最高指導者であることから王将国と呼ばれているらしい。


 そんなこんなで、黄色い家はまもなく空家になる。クセの強すぎる画家が最近まで住んでいた、ということで不人気なのか、他に入居希望者はいないようだった。


 水車小屋に一人で佇み、物思いに耽るマルトの思考を中断するように、入口の木の扉が二回ノックされた。「どうぞ」とありきたりな返事をしたマルトの声は緊張で少し震えていた。


「ええと、おかえりなさいませ、じゃなくて、ただいまです。ご主人さま」


「ダイアリー、おかえり。君が帰ってくるのを待っていたんだ」


 マルトは戸口に立つダイアリーに駆け寄り、両腕で強く抱きしめた。マルトの胸とダイアリーの胸とが触れ合う格好となって、マルトは変化に気づいた。名残惜しいが抱擁を解いて、一歩下がってダイアリーと距離をとる。ダイアリーの姿は今まで見慣れたものとは大きく異なっていた。


「驚いた。今までつるぺただったのに、巨乳になったのか」


「はい。あくまでも容量増設のための物であって、性的な機能のためではないので、本物の女性のおっぱいのような柔らかさは無いんですけど」


 そう言ってダイアリーは自分の手で自分の胸をメイド服の上から揉んだ。乳房はたわむこともなく、ダイアリーの指が肉に食い込むこともなかった。


 胸だけではなく、尻も大きくなっていた。なので、全体として凹凸のある女性的な体形になっていた。従来のダイアリーの話によると、義人人形のメイドは性的な役割を排除するためにあえて胸と尻の小さい直線的な体型だという。


「工人さんの説明によると、現在のままの体型だと、どうしても石炭燃料燃焼装置を組み込むための、また排煙一次貯留槽設置のための容量増設工事が必要で、その増えた分を胸と尻という形にした、ということでした」


「そんな改造、本当にできたのか」


「工人さんの話では、我だからできたのだ、他のヤツではできない、とのことでした」


「じゃあ、これからはダイアリーは、石炭を食べることになるのか」


「はい。今度はお風呂用だけではなく、わたくしの食用の石炭も準備しなければなりません」


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