11-6 ダイアリーの歌

 マルトの絶叫とダイアリーの悲鳴。まるでカルドロンの中で混ぜ合わされる錬金術の材料のように、不吉な化学反応を起こした。アトリエ内にはあっという間に蒸気が充満し、白く煙って視界が曖昧になった。ヴァンサンとポールが何かを叫んでいる。その一方でマルトの叫びは小さくなった。


 全身に熱湯を浴びてしまったマルトは大火傷を負った。苦痛の絶叫を挙げることができたのは最初だけで、すぐにその場に倒れ込んで意識を喪失した。ダイアリーは持っていたナイフを放り出してマルトの体に縋り付いた。それを見たヴァンサンは床に無造作に転がったナイフを拾おうとそちらに向かいかけたが、二歩か三歩進んだだけで片膝をつき、両手をつき、そのまま俯せになって床に倒れた。切断された左手からはまだ熱湯と蒸気が漏れ続けていたが勢いは弱まっていた。蒸気圧が下がったため、先ほど少しばかり水と石炭を補給したばかりのヴァンサンではあるが、動く力を失った。


「ご主人さま、ご主人さま、しっかりしてください。目を覚ましてください」


 既に意識の無いマルトに、ダイアリーの呼びかけは届いていなかった。熱湯を浴びたことにより、マルトの全身の皮膚は火傷で損害を負っており、このままではまもなく死亡することが避けられない。


 自由に動けるポールが部屋の窓を開けたため、アトリエに充満していた蒸気は、入り込んでくる冷たい冬の外気と入れ換えに、幾分外へと逃げて行った。若干ではあるが室内の曇りが晴れる。


 マルトが倒れている傍らで、ダイアリーが縋り付いて号泣していた。義人人形ではあるが、明らかに目から涙を流して泣いていた。


「た、助けてください。誰でもいいから、ご主人さまをお助けください」


「吟遊詩人は火傷だな。冷水をかけて冷やさなければ。ダイアリーさん、あんたは病院へ行って、医者を連れてきてくれ」


 言うだけ言って、ポールは南壁の扉から屋外へと出て行った。どこかから冷水を運んでくるつもりなのだろう。室内には、今はすすり泣きになったダイアリーが残された。マルトとヴァンサンは力無く倒れ伏していて動ける目処は無い。ポールが開放した窓からは、すっかり日が落ちて暗くなった霜月 (フリメール) の冷気が押し寄せてくる。同時に、広場に集まっている人々が楽しんで踊っているファランドウロの陽気な音色と、冬至節の前夜祭を楽しむ幸せそうなダルレス市民たちの声が混ざり込む。


 医師を呼んでくるようポールから指示されたダイアリーだが、その場から動かなかった。彼女はマルトのメイドであり、ポールはご主人さまではないので、命令を聞く筋合いは無い。また、ポールの言うことに従うべき合理的理由も無かった。医師を連れて来たとしても、全身火傷という重傷を治せる者はいないだろう。いたとしても治療費が莫大となりとてもマルトとダイアリーの水車小屋にある蓄えからでは支払えないだろうと思われる。勿論、薬草の葉薊 (アカンサス) や槐樹の実から作った火傷薬などもここまで重大な火傷には効果が無いだろう。


 ダイアリーは唇を嚙み締めた。マルトを守るための行動の成り行きだったとはいえ、ダイアリーの振るったナイフによって結果としてご主人さまを傷つけて瀕死の状態に陥れることとなってしまった。水車小屋に呼びに来たポールに連れられて黄色い家に来て、マルトを救出しようとしたのに、かえってマルトを危険な目に遭わせてしまっては本末転倒も甚だしい。忸怩たるものがある。


 また、偶然の産物とはいえ、義人人形ヴァンサンの手首を切断して湯と蒸気が抜けたことにより画家は動けなくなってしまった。義人人形なので修理さえすればまた再び動けるようになるのではあろうが、何回修理しても義人人形はどこまで行っても義人人形だ。人間にはなれない。メイドではなく男の姿で生み出されたばかりに、世間から必要とされず、絵という自らの努力で手に入れた能力も、機械の義人人形であるが故に評価されないという悲しい宿命を背負わされている。ヴァンサンは義人人形であり続ける限り、今後も不遇と世の冷遇を受け続けるのだろう。人間ならば不遇で不幸な人でもいずれは老いて死ぬ。死は人生の終止符として良くない印象で語られることが圧倒的に多いが、その反面、不幸な人にとっては死は救いでもあるのだ。ただし、なまじ半永久的に活動できる義人人形ヴァンサンの場合、修理して生き続けることに救いはあるのだろうか。ご主人さまマルトやダイアリーを傷つけようとした身勝手なヴァンサンの行動は、ダイアリー的には許容できるものではない。でも、だからといって彼を厳しく断罪したいかというと、そういう気分にもなれなかった。ヴァンサンの不遇さえ無ければ、こんな事件はそもそも起こさずに済んでいたかもしれない。マルトやダイアリーを巻き込むことも無かった。


 今夜は、冬至節の前夜祭だ。みんなで祝って楽しむ日だ。みんなでだ。


 できることならば、哀れなヴァンサンにも女神ジュリアの慈悲と福音があってほしい。


「女神ジュリアさま……」


 ダイアリーは首に懸けた金の十字架を手に取り、両手を胸の前で合わせて祈った。


 山火事のあった夏のあの日のように、ダイアリーの胸が光り始めた。メイド服を透過する強烈な光だ。今ならば分かる。この光は十字架から出ているものではなく、ダイアリーの左胸から出ている。人間であれば心臓がある位置だ。金色の光はアトリエの黄色い壁を輝かせ、開いた窓から、ファランドウロ踊りが行われて賑わっている広場の方へとしなやかに伸びた。


 人は何らかの気持ちが高まった時、踊ったり歌ったりする。それは人間だけではなく、義人人形にも共通したことだ。


 今、自ずと、ダイアリーの口から言葉があふれ出てきた。様々な感情が天から雨となって降り続き、素焼きの壷では受け止めきれなくなって口から水が溢れ出すように。


 その言葉たちは、いつかどこかで聴いた旋律に乗って、歌に昇華されていた。牧歌的でありながら優美な旋律は、どこか懐かしさをくすぐるものだった。ダイアリーは思い出していた。いつだったか、マルトがフルートで吹いて聞かせてくれた旋律だったのだ。本来ならば吟遊詩人であるマルトが歌うべきところだが、リュートが壊れてフルートを吹いたので、歌うことができなかった。マルトが歌えないならば、代わりにダイアリーが歌えば良い。




  風の翼で はばたいて

  夢の架け橋 空高く

  今あなたに届けたい 胸のときめきを

  朝の光は世界を照らしてる 夜の静寂は眠りの安らぎを

  明日出会える未来図を ここであなたと描きたい

  ヒバリもセキレイもウサギも見守る中 

  ヒマワリもアザレアもリュザルンも花開いて

  東西南北旅をして 春夏秋冬巡り行く

  嵐の日も悔しい日もその手を取り アルカンシェルの彼方まで

  古びた時計が刻んで 亜麻色の髪がきらめき

  トルバドゥールたち歌うと 新しい世界始まる

  カリヨンの響き遥かな 閉ざされた谷の涌井へ ここから歴史が動き出す




 歌が高まると、呼応するかのようにダイアリーの胸から出てくる光も圧力を強めた。


 女神ジュリアへの祈りが届いて起きた奇跡なのか。


 それとも

 女神ジュリア教では異端とされる賢者の石の力の発露なのか。


 アトリエ内に溢れた光は、床に倒れているマルトとヴァンサンを優しく包んだ。


 そして。


□□□


 ポールが冷水を入れた桶を抱えて戻って来た時、ダイアリーから発せられていた金色の光は最後の余喘を出し尽くして消えた。マルトとヴァンサンの体の周辺には光の残り香とでもいうような燐光まとわりついていた。


 その上、更にダイアリーもまた倒れていた。


「おいおい、俺一人で三人も面倒を見ろってことかよ。勘弁してほしかった」


 戻って来たばかりのポールは何が起きたのかは分かりようも無い。だが、この様子だとダイアリーは医者を呼びに行ってすらいないであろうことは容易に想像がつく。緊急を要するのはマルトの火傷である。


 ポールは桶を一旦床に置き、マルトの側にかがみ込んで、様子を確認する。恐らくは全身に火傷を負っているはずなので全体的に水をかける必要はあるだろうが、特に症状の酷い箇所を冷やした方がいいのかもしれない。


 マルトは俯せの状態なので、袖の先の手と首の部分だけ肌が見えた。ポールは先刻の状況を思い出す。マルトは体の前面に熱湯を浴びていたようにポールは記憶している。


 俯せのマルトを引っ繰り返して仰向けにする。顔面を確認。更には服の前をはだけてマルトの胸部と腹部も露出させた。


「これは……」


 そのまま胸に手を当てて心音がどうかを確認する。マルトの口と鼻に己の耳を近づけて呼吸音があるかどうかを確認する。ポールは改めてマルトの状態を俯瞰する。穏やかに眠っているように見えた。


「奇跡、が起きたのか。女神ジュリアに祝福あれ」


 普段十字架を持ち歩いていないポールは胸の前で十字を切った。


 どうしてこのようなことが起きたのか。胸の中に湧き上がった疑問だったが、ポールはすぐに答えに辿り着いた。


「冬至節の前夜祭の日だからな。聖なる夜に相応しい奇跡だ」


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