11-5 熱き血潮

「僕は、それはおかしいと思います。十字架護持者なのに教会に異端と認定された力を使おうとするのですか。そんなのただの身勝手じゃないのですか」


「メイドのご主人、勘違いしないでほしい。十字架護持者の役割は、異端が存在することによって社会に不安や危険が起こることが無いように阻止することだ。賢者の石がその力を保ったまま残り続けたら、今後ずっと危険な状態のままではないか」


 ヴァンサンは何回か水差しからマグカップに水を注ぎ、飲んだ。普通の人間よりも多く水を飲むようだ。やがて水差しが空になってしまった。


 水を飲み干したヴァンサンはマグカップをテーブルに置くと、代わりにナイフを手に取った。鞘はこの場には無いようで、抜き身の刃がランプの光に妖しく匂った。


「これはダマスカス鋼のナイフでね、よく切れる。これでダイアリーさんの胸から心臓を抉り出す」


 マルトは焦った。後ろ手に縛られている縄はまだ少しだけしか緩んでいない。


「やめてください。そんなことをして何になるんですか。ヴァンサンさん、あなたは自分の誇りをも捨てて、異端の悪魔に魂を売るようなことをしようとしているんですよ」


「自分の忠実なメイドの動力源を悪魔呼ばわりとは、なかなかの諧謔だ。だけど何とでも勝手に言うといいだろう。私の気持ちは変わらない。賢者の石の力で人間になりたいのだ。昔の竜王国の錬丹術師は不老不死を追求したらしいが、実際に不老不死に近い義人人形になってみれば、義人人形だからこその悲しみもあるのだ。そこまではさすがに想像が及ばなかったのだろうな」


「絵が評価されないからといって自暴自棄になって他の誰かを傷つけることが許されるべきではないでしょう。絵で挫折したのなら、他の生き甲斐を探せばいいじゃないですか。ええと、例えば、音楽とか。楽器の練習をしてルテティアの都で交響楽団に入って、ベルリオーズの幻想交響曲を奏するとか」


 マルトは必死に説得を試みたが、最後の方は自分の言葉に自信を持てずに声が少し小さくなってしまった。マルトは音楽で挫折した元吟遊詩人である。そんなマルトが音楽を勧めても説得力に欠けるかもしれない。


「私も、ベルリオーズの音楽のような絵を描きたいと思っていた。痛んだ心を慰めてくれる芸術を目指していた。でも私は第一楽章の最後の部分に出てくる宗教的慰め以外はベルリオーズの音楽など知りもしないのだ。ところで、メイドのダイアリーさん、と、ついでにご主人さまも。この部屋の壁に飾られた多数の絵の中で、実は一枚だけ未完成の絵が存在するのだが、どれがそうか分かるかね? 二枚ある私の自画像のうちのどちらかなのだが」


 マルトとダイアリーは東と西の壁に掛かっているヴァンサン自画像二枚を見比べた。


「当ててみたまえ。優秀なメイドのダイアリーさんか、吟遊詩人か、どちらか片方でも正解を言い当てることができたら、私は賢者の石を諦めて、二人を無事に解放しよう。本日は冬至節の前夜祭だからな。おめでたい日だ。私は気前が良いのだ。どちらか片方、未完成がどっちなのか、だぞ」


 そんな気まぐれで思いついた口約束など信じられるものではない。だが、時間稼ぎにはなるだろう。


 東の壁に掛かっているヴァンサン自画像は、手前の右手にはナイフ、奥の左手には黒い塊を持っている。石炭のようだ。手前のテーブルの上には林檎が一個置いてあるようだ。だがそこだけ、木炭による線画になっていて、色が塗られていない。本来ならば燃える生命を象徴するような赤に塗られているはずのところが、画布の色であるアイボリーホワイトが見えている。こんな塗り忘れがあり得ることだろうか。これは未完成ということなのではないか。


 念のため西の壁に掛かっている方のヴァンサン自画像もマルトは見た。椅子に座ったまま、首だけ逆にひねる。構図も、使われている色彩もほとんど同じだ。画中のヴァンサンが着ている服も同じだ。だが、よくよく観察すると、東の絵とは少しばかり差異がある。


 左手に林檎をもっており、右手に持ったナイフを使って皮を剥いている最中だ。林檎の皮なので鮮やかな赤い色が塗られている。手前のテーブルには、一個の石炭の塊らしき物が置かれている。石炭と断言できないのは、その部分だけ色が塗られていない木炭線画状態なので、物体の色が不明なのだ。恐らく石炭なのだろうが、あくまでも推測だ。西側の絵もまた未完成なのではないか。


「よく見たら両方とも未完成じゃないですかね。引っかけなんて、卑怯ですよ」


 不満の籠もったマルトの声に対して、ダイアリーは冷静だった。


「ご主人さま、わたくしは、二枚の絵は両方とも完成品であると判断します」


「どういうことだ?」


 両手首を縛っている縄がかなり緩んできた。そのことをヴァンサンとポールに気取られないよう、平静を装いつつもマルトはダイアリーに説明を促す。


「確かに両方とも、色が塗られていない部分が存在しますが、それも含めて創作意図なのではないでしょうか。近年のルテティアの都の画壇では、昔ながらの伝統に縛られた窮屈な画風ではなく、もっと自然で自由な画風が好まれているというような話を小耳に挟んだことがあります。敢えて一部に色を塗らずに残す、というのも、その自由な表現の一部なのではないでしょうか」


 自説を語ったダイアリーがヴァンサンに視線を送り、正解発表を促す。


「なるほど。メイドのダイアリーさんの方が、美術に関しては素養もありそうだし、ルテティアの都における流れも噂として耳に入れているようだな。優秀なことは認めるが、残念ながら両名とも不正解だ。私はそんな卑怯な引っかけ問題など出さない。どちらか片方だけが未完成と言ったからには、もう片方は未完成作品ではないということだ。正解は、西の、林檎の皮を剥いている絵が未完成だ。こちらは、私が晴れて人間になってから描き加えて完成させるのだ。だから今はまだ未完成ということになる。題名は『林檎を食べる自画像』といったところだな」


 マルトは冬眠前のリスのように頬を膨らませた。


「納得できませんね。東の絵はどう違うっていうんですか。こっちも色が塗られていないから、未完成じゃないんですか」


「それは色が塗られていないのではない。私はこれから賢者の石の力で人間になる。人間になれば、義人人形の頃を描いた絵はもう自画像ではなくなってしまう。この絵は、もうこれ以上描き加える部分が無いので、完成と胸を張れるような質ではないが、もう描き終わりなのだ。どの道、義人人形だった頃に描いた絵には行き場など無いから、半端な状態の絵なので、かえって半端な存在である義人人形らしくて相応しいくらいではないかね。こちらの題名は『石曜日』だ」


 義人人形を象徴する悲痛な題名を聞いたダイアリーの両目の目尻から、細く二本の透明な筋を引いて滴が垂れ落ちた。それは涙なのか。義人人形の蒸気が漏れて冷えて結露した水滴なのか。


「二人とも不正解だったから、最初に言った通り、賢者の石はいただくぞ。怨むなら芸術を理解しなかった己の不明さを怨んでくれ」


 二枚の自画像に描かれている物と同じナイフを、本来は絵筆を持つべき右手にしっかりと握り、ヴァンサンはダイアリーに突進した。一直線、一気呵成に、メイドの心臓の位置にナイフを突き立てた。いや、そうしようとした。


 遂にマルトを束縛していた縄が解けたのだ。会話を引き延ばして時間稼ぎをした甲斐があった。マルトはヴァンサンに飛びつき、二人は揉み合いになった。


「邪魔をするな、吟遊詩人。誤ってナイフで刺して怪我をさせてしまうかもしれないぞ」


「人間に怪我をさせるのは、義人人形にあるまじきことですよね」


「私は人間に刃を向けているのではないのだ。これは義人人形ヴァンサンと義人人形ダイアリーの問題だ。無関係の生身の人間は不干渉でいてもらおうか」


「そんなのは詭弁です。悪戯をした子どもだって、もう少しマシな言い訳を親にしますよ」


 マルトは叫びとともに力を振り絞った。だが、直前まで縄で両手を縛られていて血行が悪くなっていた上に、縄を緩めるために密かに力を使い続けていたのだ。なので今、両手にあまり力が入らなかった。


 マルトがヴァンサンに力負けしそうになっているのを目の当たりにして、ポールに支えられていたダイアリーが飛び出した。ポールが制止する間も無かった。


 ヴァンサン、マルト、ダイアリーの三人による混戦となった。ヴァンサンが右手に持っているナイフをダイアリーが奪い取った拍子に、ダイアリーが両手に握って体重をかけた状態でヴァンサンの左手首に切りつける格好になった。ダマスカス鋼という謳い文句に偽りは無かった。嘘のようにすっぱりとヴァンサンの左手は手首で切断されてしまった。


 その瞬間、見た目は普通の人間の男と区別がつかないヴァンサンが本当は義人人形であることが証明される形となった。噴き出したのは、林檎の皮のごとき赤き血潮ではなく、熱湯と水蒸気だった。ヴァンサンとダイアリーは義人人形なので多少熱湯を浴びたとしても熱を感じることはあっても致命傷を負うことはない。だが生身の人間であるマルトはそうはいかなかった。


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