10-3 画家の確執

 黄色い家での共同生活は始まって一カ月くらいが過ぎたあたりだろうか。


 ポールは夕食をとっていた。テーブルに載せているのは、パンとチーズと乾燥した棗椰子の実、そして葡萄一房だ。


 ヴァンサンはというと、ポールとは別のテーブルで、ルテティアの都の弟への手紙を書いていた。いつも通りパイプはくわえたままだが、ポールが食事中なので煙は出ていない。


「ヴァンサン。部屋の掃除はいつ実施するつもりなんだ?」


「いずれやる。やらないなんて一言も言っていない」


 ポールは左手で前髪をかき上げた。後退著しい額と頭頂部の髪の薄さがどうしても気になった。


「その気まぐれを待たされる身にもなってくれと言っているんだよ。俺だったらさっさと終わらせてしまって、安心して絵に集中したいところだけどね」


「だったらポール、君が部屋の掃除をやってくれてもいいんだよ」


「この黄色い家では君が主だから、これでも遠慮しているんだよ。それに、俺がきれいに掃除をして不要な物を片付けたりしたら、勝手に捨てるなと君は怒るじゃないか」


「そりゃ必要な物を勝手に捨てられたら怒るに決まっているだろう」


 ポールは溜息をついた。若い頃の結婚生活もそうだったが、他者との共同生活というのは、どうしてこうも息が詰まるほどに苦しいのか。苦しむためではなく、家事を分担して楽をするための共同生活だったはずなのに、これでは本末転倒ではないのか。


 それでも、ヴァンサンとポールが生活の面で意見が対立して衝突することは無い。自ら言った通り、ポールが立場的に相手に遠慮しているからだ。


 弟への手紙を書き終えたヴァンサンは、ペンを置く。


「じゃあ私は、先にアトリエに行って、絵の続きを描いているよ」


「ああ、ヴァンサン、待ってくれ。君が今、描いている自画像の絵なんだけど、自分の感情を表現しようとする欲求が強すぎて激し過ぎるんじゃないかな」


 アトリエに向かおうとしていたヴァンサンが振り向いた。


「それのどこが悪いのかな。自分の内面性、欲求を自分の自画像で描かなくて、どこで描くというんだ」


「内面性を描くのはいいんだ。思想とか観念とかいった目には見えない物を絵として表現するには、知性と感情との融合がどうしても必要になる。そう思わないかね」


「そういう難しい絵は、画壇の老害連中には受けるかもしれないけど、そういう凝り固まった連中が跋扈しているから画壇が批判ばかり受けているんじゃないのか、ポール。まあ君は、批判精神はとても旺盛だけど、現実にはルテティアで絵が売れているようだから、画壇に対して真っ向から批判するようなことは無いだろうけど」


 自分の意見を言うだけ言ったら、次のポールの言葉も聞かずに、ヴァンサンはアトリエに向かった。


 生活についてはヴァンサンに遠慮しているポールだったが、絵画についてはお互いに遠慮無く意見を言い合った。そうするための芸術家同士の共同生活の場なのだ。


 だが、芸術は一人一派だ。派閥が違えば、すれ違うか激しく衝突するかのどちらかしかない。現在はすれ違ってばかりの段階だった。近い将来、必ず衝突する時が来てしまうであろうことは容易に予想がついてしまう。


「ああまあ、ヴァンサンの絵が売れていないのは同情するけど、こればかりは買わない側にも事情があることだからなあ。誰も責められない」


 ポールの独り言は、アトリエで絵描きを再開しているヴァンサンの耳には当然届いていなかった。


 一方、先にアトリエに入ったヴァンサンだったが、ポールに余計な口出しをされたために、集中力を欠いていた。絵の中に描かれる石炭の塊に色を塗らなければならないのだが、どのような色合いで黒を表現すればいいのか悩んだ。プロヴェンキア地方に来てから、明るい色彩の絵を多数描いていたので、暗い色が相対的に苦手になってしまったようだ。


 右手に持っていた絵筆を雑に放り投げて、ヴァンサンは椅子から立ち上がり、部屋の隅へ行った。そこには大きな木箱があり、石炭が詰め込まれている。


 その中から一つ、大きめの塊を左手に取り、じっくりと見つめる。


 一〇〇年前の民主革命が起こった時に、革命暦採用と同時に新七曜制が制定された。土曜日が無くなり、代わりに石曜日になった。石曜日の石とは石炭のことであるという。


 当時、叡王国の発明家が蒸気機関を画期的に改良して、革新的に性能が向上したという。叡王国に限らず世界各国が蒸気機関を採用し、石炭を大量に消費するようになった。そんな時代背景があったという。


「余計なことをしてくれたものだ」


 憎々しげに吐き捨てて、ヴァンサンは左手に持っていた石炭の塊を、木箱の中に雑に放り捨てた。


 今、描いている自画像の中の石炭に色を塗るのは、後回しにしよう。いや、これは気の重い作業だ。永遠に色を塗れないままで終わるかもしれない。


 自分の椅子に戻るついでに、ポールのイーゼルを覗いた。ポールの描きかけの絵は、椅子、が題材だった。


 この絵も、ルテティアの都で売れるのだろうか。


 自分以外の他者の絵が売れることへの嫉妬ではない。自分の絵が売れないことが理不尽で悔しいのだ。


 ヴァンサンは全てを払拭するために、自分の絵に向かった。石炭は諦めて、他の場所をしっかり描き込もうと、さっき放り投げた絵筆を拾い直す。


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