8-3 フルートのメヌエット

「以前にご主人さまとわたくしが一緒にダルレスの街を歩いているのを見たことがあるそうです」


 ダイアリーの語るところによると、アルバートルは毎週欠かさずというほどではないにせよ、稀に日曜夕拝式に参加しているのだという。いつもは違う教会に行っているので、今まで顔を合わせることは無かったが、本日はたまたまアルバートルがいつもと違う教会に参加したので、ダイアリーと遭遇することになったのだという。


「そういえばアルバートルも首から十字架をかけていたな。あれで、なかなか熱心な信者だったんだ」


「アルバートルさんとは、ご主人さまのことに関して軽く雑談をしただけです。どのような食べ物がお好きであるか、とか。ですが、わたくしはアルバートルさんの真っ赤な口紅を見て分かりました。以前にご帰宅が遅くなった時に、ご主人さまの左の乳首の周りに赤い口紅が付着していましたよね。お風呂に入る時に見ましたので」


 娼婦アルバートルと交わったあの日、帰宅が遅くなったが、マルトは風呂を所望した。胸に付いた口紅が、ただ擦っただけではなかなか落ちなかったからだ。


「ご主人さまも男性ですし、女性と性的な行為をすることを咎めているわけではありません。勿論メイドであるわたくしにそのような権限もありません。わたくしは、そういう方面でご主人さまを満足させることができない、実力不足と言われているようで口惜しいのです」


「いや、あれは、事情があったというか」


 マルトの言葉は歯切れが悪かった。事情があったのは嘘ではなく事実だ。だが、それを今のダイアリーに対してきちんと説明できるかというと、全く自信は持てなかった。


「ところでご主人さま。薔薇に似たような香りがしますね。今日もご帰宅が遅かったですし女の人と会っていて香水の香りが移ったのでしょうか」


 それこそ誤解である。木立瑠璃草 (ヘリオトロープ) の青い花の香りだ。義人人形は嗅覚も優れているようだ。


「わたくしが実力不足で、ご主人さまをご満足させることができていないのは、重く受け止めております。申し訳ございません。義人人形として性的な機能は無いので、根本的にそういうことはできないので限界は自ずとあるのですが、ご主人さまのお役に立ちたいとは常々考えております。なので、そういう用途が必要な時にもどうぞご遠慮なくわたくしにお申し付けください。手で、あるいは足で……あるいは腋の下で、もしくは口で、ご主人さまにご奉仕させていただきますので」


「違う、そうじゃない。誤解だよ。そういうのは求めていないから」


 ダイアリーの必死さはマルトにも伝わっていた。


 義人人形に性的な機能は無い、とは謳っていても、確かにダイアリーの言う通り、手や足などを使えばそれなりのことができるのは事実だろう。だが、それを言ってしまえば、世に存在する様々な道具も多くの物が性的な用途に使えてしまうとも言える。やはり、性的な用途のための専門の道具でない限り、性的な道具と称してしまうのは良くないことだろう。そういう意味では、ダイアリーはあくまでも性的機能の無い義人人形なのだ。


「ど、どうすれば分かってくれるんだ……」


 ダイアリーとマルトとの間に峡谷ができて、そこを強烈なミストラルが吹き抜けて気温を大幅に下げる。弱気になりかけた時、マルトは目の前のテーブル上に置いてあるものに気付いた。


 ドヴェルグ族の工人カリエールからもらったフルートである。


「そうだ。ダイアリー、聞いてくれ。僕は今日、モンマジュールに行って、工人のカリエールさんに会うことができたんだ」


「ほ、本当ですか」


「リュートは直してもらえなかったし、そもそもダイアリーも連れて行っていないからダイアリーを直す方法も分からないと言われてしまった。でも、このフルートをもらったんだ」


「そのフルートをどうされるのでしょうか。ご主人さまは元は吟遊詩人で、弦楽器を弾きながら歌っておられたのですよね」


「リュートは直せなかったので、もう弾けない。代わりにこのフルートを吹くよ。ダイアリーに聴いてほしいんだ」


 かなり昔にフルートを吹いてみた時のことを思い出す。大丈夫。仮に上手く行かなくても、聴衆はダイアリー一人だけなので、汚い野次を浴びせられることは無いだろう。


 目を閉じて、大きく息を吸い込み、優しく呼気を吹き込む。楽器というただの物でしかない物体に生命を吹き込む作業だ。


 優しく、それでいて典雅な三拍子の曲がゆったりと紡がれていく。優美な旋律は、まさにダイアリーの美しさを五線譜に描写したかのようだ。あるいは、このプロヴェンキア地方の牧歌的な情景を象徴的に表現しているともいえよう。


 フルートに関してはあくまでも素人なので、演奏としては必ずしも上出来とは言えないものだった。が、ダイアリーを真剣に想い、誠実に気持ちを籠めた演奏だった。ひとしきり演奏して曲が終わってから、マルトはフルートを下ろし、初めて目を開けた。


 ダイアリーは驚いた表情をしつつも、青紫色の瞳で真っ直ぐにマルトのハシバミ色の瞳を見詰めていた。


「ご主人さま、フルートを吹くことができたんですね。でも、そんなにお上手ではありませんでしたね」


「……す、済みません……」


 自分でもそれほど上手いとは思っていなかったが、聴いた人から指摘されると事実を突きつけられるようで心に来る重さだ。ましてや、日頃ご主人さまであるマルトに対して否定的なことをほとんど発言しないダイアリーの口から出たとなると尚更だ。


「その曲、とてもきれいでした。何という曲なのでしょうか?」


「なんとなく即興で吹いただけだよ。プロヴェンキア地方の田園風景を心に思い描く感じで」


「わたくし、それと似たような感じの曲を聴いたことがあるような気がするのです。確か叡王国の二〇〇年前くらいの宮廷舞踊の曲だったような」


「え、そうなのか。僕の描いていた印象と全然違うなあ。でも恐らく、僕も同じ曲をかつてどこかで聴いたことがあるから、出てきたんだと思う」


「そうですね。わたくしとご主人さまが以前に同じ曲を聴いて心に刻んで覚えていた、というのは、とても素敵なことだと思います」


 ダイアリーが笑顔になった。それを見ただけで、未熟な技術の恥を忍んでフルートを演奏したことも悪くなかったと思える。


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