Tableau9 霧月 (ブリュメール)

9-1 黄色い家の相棒


  野原や庭や森が緑に染まる

  そしてあの人の言葉は、理解できるのに

  その大いなる美貌を、語る術を知らない

  剣菖蒲 (グラジオラス) の花よりも、彼女は瑞々しく

  決して離れることは、私は無いであろう


(中世の吟遊詩人、ラインバウト・デ・ヴァケイラスの歌より)




「待っていたぞ、ポール。女神ジュリアの思し召しに感謝を」


「久しぶりだなヴァンサン。ルテティアの都の展覧会で会って以来かな」


「何年ぶりだろうか。君は少し老けたな。言いにくいことだが、髪の毛も薄くなったんじゃないかな」


 ポールと呼ばれた男は黙った。実際の年齢は四〇歳だが、顔の皺は深く、肌も荒れていて、年齢以上に年輪を重ねているように見える容姿だった。髪は焦げ茶色の癖毛で、縮れている分容量があるようには見えるが、額は確実に後退していた。


「そうか。やはり錯覚ではないんだな。今までは髪が薄くなったことは誰にも言われたことは無かったけど、気をつかわれていたんだな。迷迭香樹 (ローズマリー) の櫛を使えばハゲ防止になるって聞いていたけど、単なる迷信だったか」


 ポール本人も薄毛は気にしていたが、信じたくないので気にしないようにしていたのだ。画家をやっているような人間は、大抵は画家だけで食べて行けるだけの収入を得ることが難しく、あれこれと職業を経験して、国から国へと渡り歩いている苦労人が多い。ポールもまた艱難辛苦を経てきていて、高い山の上の空中庭園として知られるインカ帝国にまで行ったことがある。


「ヴァンサン、君は変わっていないな。俺一人だけが年を取ってしまったようで寂しい限りだぞ」


「いいや、経年によって被った埃は、比喩ではなく、落とすことができないものだよ。人間はこうして汚れていって、良くも悪くも大人になっていくのだと、最近改めて思うよ」


 ポールの吐く息は秋の朝の空気の中でうっすらと白くなってすぐに消えた。ヴァンサンはパイプを咥えたまま、煙をくゆらせている。


 風に吹かれて枯れ葉が舞う。旅人がコートの襟を立てて肩をすくめながらダルレスの駅を出て目的地へと急いで行く。駅前には乗合馬車が停まっていたが、ヴァンサンとポールの二人は見向きもしなかった。


「改めてよく来てくれたよポール。私が借りているアトリエは、駅を出てちょっと歩いたすぐの所だ。向かいが公園になっていて環境の良い場所だよ。仕事場のサン・トロフィーム教会は、……ここからでも鐘楼が見えるあそこだ。十字架護持者の仕事も、探す異端がどこにあるのか分からない状況でやっていたら五里霧中でいかんともしがたいけど、目指す相手がどこにいるのか分かって、いつでも狩ることができると思えば気が楽なものだ」


 ポールは鼻髭の下の口を歪めた。


「なんだ。探すべき異端がどこにあるのか分かっているのか。それなのに放置しているというのか?」


 喧嘩っぱやい性格のせいか、どうしても咎める口調になった。それでもヴァンサンは気にした様子は無かった。


「やらないわけではない。いつでもできるから、今慌ててやる必要が無いだけだ。風景画を描くのは、そうはいかないだろう。今の景色は今しか見ることができない。日が経てば季節が変わってしまう。来年の同じ時期まで見たい景色を見られなくなってしまうんだぞ。絵を優先するのは当然だ」


「ま、まあ、その気持ちなら、俺も少しは分かる、かな」


「ポール。要は、いつでもできるはずの部屋の掃除を先延ばしにしてしまうのと同じようなものだと思えばいい。いつ実施するかは、結局のところ気まぐれだ。今、どうしてもやらなければならないなら、すぐに部屋の掃除をするだろう。だけど、今でなくてもいいなら、今やる必要は無い。後からでいいんだ」


「そうかな。俺は部屋の掃除は、必要ならすぐに終わらせた方が、安心して絵に取り組めると思うんだけどな。まあいいか。いずれにせよヴァンサンには世話になる」


 ヴァンサンとポールは固い握手をがっちりと交わした。


 並んで歩いて、二人は黄色い家を目指した。


「私たちのアトリエは、プロヴェンキア地方の明るい太陽のような黄色い家なんだ。とても良い所だ。アトリエには今まで私がプロヴェンキア地方の季節を描いた絵が幾つも残っている。大部分はルテティアの都で画商をしている弟のテオに送ってしまっているんだけどね。今のところさっぱり売れていないようだけど」


「そうか。絵については俺も君に負ける気は無いぞ。きっと、俺の方が売れる絵を描いて、儲けたお金でいつか、南の島へ行きたいと思っているんだ」


 朝のダルレスは、少し霧がかかっていた。叡王国の霧の都ほどではないが、秋が深まっていって、温暖な気候の中でも少しずつではあるが気温が下降していって冬に向かって行っているのだ。


「ポール、明日は日曜日だから、早速教会で夕拝式の説教をやってもらうから、準備しておいてくれたまえ」


「ああ、そうか。今日は石曜日だったな」


「私は石曜日は嫌いだが、今日は例外だ。こうしてポールがプロヴェンキア地方に来てくれた記念日だ。一人でファランドウロを踊りたいくらいのおめでたい日として、女神ジュリアに感謝しなければ」


 ヴァンサンは胸に下げた十字架の首飾りに手を当てて、天に祈りを捧げた。


「明日は日曜日だから行かないが、その後、都合のついた日に、郊外の水車小屋に行くので、ポールもしっかり場所を覚えておいてくれ。そこに、賢者の石は隠されている」


 この場にはいないダイアリーにとっては、己を狙って来る十字架護持者が二人になった瞬間であった。


□■■


 ダイアリーの真剣な横顔が、ランプの光に照らし出される。青紫色の瞳が神秘的に光っている。


 ここ最近のダイアリーは、マルトに頼んでダルレスの市場から買ってきてもらった皮を使って、何かを作っている。メイドとして、何もしないで黙っていることが落ち着かないのだという。


 相変わらず、立って歩くとすぐにどこかで力尽きてしまうので、ある程度力を使うような作業は任せられない。ダイアリー本人は常々申し訳なく思っているようだが、マルトとしては全然不満は無い。


「じゃあ、僕は風呂に入ってくるよ。ダイアリーは作業を続けていてよ」


「畏まりました」


 マルトは屋外へ出て行った。


 山火事の日以降、風呂に関する作業は全てマルト本人が担当することとなった。風呂に入るのは自分だけなので、それ自体には文句は無いのだが、とにかく手間がかかるので面倒くさかった。まだ夏の暑さが残っている頃は、風呂を準備するよりは運河で水浴びをする方が手軽で好みだった。


 だが、秋も深まって朝夕はしっかり冷え込むようになってからは、さすがに夜の水浴びは躊躇われる。水車小屋に来たばかりの頃のように、ダルレスの街の風呂屋に行けば良いのだが、せっかくダイアリーが購入してくれたカルドロンを全く使わないのも申し訳ないので、大いなる手間暇をかけてカルドロン風呂に入っている。入浴剤を自由に使えるのは自宅の風呂の特権だ。


 水車小屋の中に一人になったダイアリーは、黙々と皮を使った作業を続けた。


 どれくらい時間が経ったか。


 入口の扉がノックされて、ダイアリーは顔を上げた。


 もう既に夜の時間帯である。それなのに来客だろうか。風呂に入っているマルトが戻ってくる時には、いつも扉をノックはしていない。


「どちら様でしょうか。扉は鍵はかかっておりません」


 声をかけると、扉が開いた。戸口のところに二人の男性がいた。


「お久しぶり、になるでしょうかダイアリーさん」


 男性のうちの片方が挨拶した。鋭い目つきと、口に咥えたパイプが特徴だった。首からは十字架を下げている。


「あなたは、十字架護持者の……」


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