8-2 リュートを失った吟遊詩人

「……いえ、実は、用件はもう一つあるんです。これを直してもらいたいんです」


 右膝の痛みが耐え難くなったこともあって、マルトは立ち上がった。そして肩に掛けていた固い皮のケースを下ろし、開けて中身を取り出した。


「僕が吟遊詩人をしていた頃に使っていたリュートです。プロシアン帝国との国境紛争の時に壊れてしまったんです」


 本人の申告した通り、リュートの共鳴板には亀裂と穴が空いていた。


 あの日、マルトの居た近くに砲弾が飛んで来た。破裂した砲弾の破片でマルトは右膝を傷めた。と同時に、胸に抱えていたリュートのケースにも砲弾の破片が命中した。破片はケースを貫き、中に入っていたリュートの共鳴板に傷を残した。ただし、その時にリュートを胸に抱えていなければ、砲弾の破片はマルトの胸部に直接命中していたかもしれない。そう考えると、リュートのお陰でマルトは生命を救われて右膝の怪我だけで済んだとも言える。


 ケースに空いた穴は、雑に補修して塞いである。雨水や風に舞い上がった埃が入らないように密閉できればそれでいい。だが、楽器の傷はマルトの素人工事による雑な補修で良いというわけにはいかないのだ。


「リュートか。直せないな。諦めろ」


 一目見ただけで、カリエールは壊れたリュートを見限った。マルトは一瞬言葉を失った。


「な、なんなんですか、そのふざけた対応は。ダイアリーも直せないし、リュートも直せないって。じゃあ、なんで今日、僕に会ってくれたんですか?」


「そのリュートの傷は、共鳴板の交換が必要だろう。それは我でなくても、普通の楽器職人でも直せるはずだ。値段は高くつきそうではあるがな。あるいは、新品のリュートに買い換えるという方法もある。お前さんだってそれは分かっていたはずだろう」


 野に生えている酸っぱい酸塊 (スグリ) の実を口に含んだかのように、マルトは口を窄めた。カリエールの指摘は、中世の吟遊詩人ペイレ・ダルヴェルニェの歌に出てくる金雀枝 (エニシダ) の手弓で射たかのように、的確に事の本質のど真ん中を射抜いていた。


「マルトよ。お前さんは直そうと思えばいつでもリュートを直せたはずだ。でも、それをしなかった。お前は吟遊詩人として再出発することを、前に向かって一歩を踏み出すことを躊躇っている。それを間違いだと言っているのではない。人生というのは前に向かって進むものであって、元の場所には戻れないものなのだし、戻る必要も無いのだ。そのリュートは既に役割を終えているのだよ。ワインは葡萄に戻れないのだよ」


 確かにリュートは持ち主であるマルトの生命を救ってくれた。この上なく役目を果たして命運尽きた感じだ。


「リュートは直せないが、代わりにこれをやろう。受け取れ」


 ドヴェルグ族の工人は、黒猫の背中辺りから細長い物を取り出した。どういうふうに収納されていたのかは不明だが、ヒカリゴケの淡い光を受けて輝きを放っている。


「これは、フルートですか」


 真鍮製の横笛だった。本体は金属でできているが、木管楽器に分類される物だ。


「お前さん、これを吹けるだろう」


「はい。吹けると言えば、吹けます。ありがとうございます」


 フルートを受け取り、お礼の言葉を述べたが、社交辞令だった。リュートを直してほしかったのに、代わりにフルートをもらってどうするというのか。


 マルトはある程度音楽の才能があるといえる。どんな楽器でも一通りならば演奏することができた。ただし、熱心に練習したのはリュートと歌なので、それ以外の楽器はそこまで上手には演奏できない。素人基準では上手、といったところだ。


「マルトよ、自分が器用貧乏であることは自認しているのではないかね。割と何でもできるが、その代わり中途半端なものが多い。唯一得意と言えたのが吟遊詩人としての歌だったが、そこについても挫折してしまっている。だからさっき、我は言ったのだ。リュートはもう役割を終えたのだと」


「それにしても、フルートでどうしろと言うのですか。人前で演奏できるような水準になるためには、今からだと、相当練習しなければなりません。そもそも、吹奏楽器だと演奏しながら歌うことができません。リュート以外の楽器にするにしても、竪琴とか、弾きながら歌える楽器じゃ駄目なんですか」


「確かに、不特定多数の聴衆の前で演奏するには、マルトのフルート演奏技術は不十分なのだろう。だがな、お前さんのことを大事に思っている特別な一人のために演奏するのならば、技術の巧拙の不足を埋めて、その人に届けられる音楽があるのではないのかね」


 マルトは、はっ、と息をのんだ。そういう観点は無かったので啓蒙された。技術的に十分かどうかだけを判断基準としていて、誰のために演奏するのか、を考えていなかった。


「わ、分かりました。どうもありがとうございました、カリエールさん」


 ドヴェルグ族の工人は、ダイアリーを直してくれなかったし、マルトのリュートも直してくれなかった。だけどそれでも、今日ここに来たのは無駄足にならなかったのではないかと、マルトには思えた。


 来た道を引き返して洞窟を出ると、入った時とは少し違う風景が周囲には広がっていた。洞窟の両脇には、以前に見た林檎の木が二本あった。これもダイアリーが言っていた通りで、洞窟を出る時には元の場所には戻れないものらしい。


□■■


 事前にダイアリーに言ってあった通り、マルトの帰宅は遅くなった。


 水車小屋に戻って扉を開けると、室内は明かりが灯されておらず暗かった。ダイアリーは出掛けているのだろうか。それにしては扉には施錠がされていなかった。一人で出かけるのはかなり難しいので、誰かの介助が必要のはずだ。


 肩に担いでいたリュートのケースを下ろし、ケンケ式ランプに明かりを灯すと、ダイアリーがいつもの椅子に座っているのが見えた。


「い、居たのか、ダイアリー。ああ、ただいま。明かりがついていなかったから留守にしているんだと思っていたよ。びっくりした」


「お帰りなさいませ、ご主人さま」


 マルトが帰宅した時の定番の言葉。だが、いつもと違って低く元気の無い声だった。ダイアリーが元気が無いのは山火事の日以来ずっとではあるが、言葉自体に潤いが無かった。そもそも、いつもはマルトがただいまと言う前にダイアリーの方から挨拶するのが普通だった。


「ダイアリー、何かあったのかい? 不具合が進行してしまったのかい?」


「いいえ、そちらに関しては、全然良くなってはいないのですが、かといって悪化もせず膠着状態なので、ご心配には及びません。わたくしは本日、女神ジュリア教会に、夕拝式に行ってまいりました」


「ああ、そういえば今日は日曜日だっけ」


 女神ジュリア教会では、毎週日曜日の夕方に、その名の通り夕拝式が行われる。敬虔な信者が女神に日々の平和の感謝の祈りを捧げ、聖職者から説教を受け皆で賛美歌を歌うのだ。ダイアリーも基本的には毎週参加している。マルトはさほど熱心な信者ではないので参加することは無いが、ダイアリーが参加していることは当然承知していた。


「送り迎えはいつもの運送屋さんが来てくれたのかい」


 山火事の日以前ならばダイアリーが一人で行き来できた。だがそれ以降は、ダイアリーは一人では長距離を歩くことも覚束ない。郊外にある水車小屋からダルレスの街の中にある幾つかの女神ジュリア教会のうちのどこかまで往復するとなると、自力では無理だった。


 女神ジュリアは敬虔な信徒であるダイアリーを見捨てずに救いの手を差し伸べてくれた。カルドロンを購入した時に、ダルレスから郊外の水車小屋まで荷車で運んでくれた運送業者が、印象的な客であったダイアリーのことを覚えていてくれた。運送業者もまた毎週欠かさず日曜礼拝式に参加するような模範的で敬虔な女神ジュリア教徒であったので、毎週日曜日に荷車を出してダイアリーの送り迎えをしてくれるようになっていた。勿論ダイアリーも、採取した食材や作った手料理などを謝礼として渡している。


「わたくしはいつも夕拝式の時には、御堂の後方にある聖水盤の側に、あまり裕福ではない方たちと一緒に並んでいるのですが、その時に隣にいた女性が、式の後にわたくしに声をかけてきました。アルバートルさんという、いかにもダルレス女といった感じの娼婦を名乗る方でした」


「えっ、どうしてアルバートルがダイアリーを知っていたんだ?」


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