Tableau8 葡萄月 (ヴァンデミエール)
8-1 無慈悲な必要性
雲雀が喜び勇んで、太陽の光に向かって羽ばたくのを見る時
心の中に突き刺さるような甘美さに
ああ、愛について知っていると思っていたのに、何と知らなかったことか
愛を抑えることができないのだから
(中世の吟遊詩人、ベルナデット・デ・ヴェンテドルンの歌より)
マルトは決意した。一人で工人に会いに行こう。
あれから。
幾度か、マルトは仕事を休んでダイアリーを連れてモンマジュールを訪問した。が、一度として入口を発見できず、全ては無駄足だった。毎度毎度、苛立ちを募らせるだけの結果に終わった。
ならば、趣向を変えよう。二人で行くのではなく、一人で行ってみたらどうだろう。
とにかく問題は、そこで洞窟の入口を見つけることができるかどうかにかかっている。
とにかく、ダイアリーが寿命がどうとか不具合がどうとか言っていたことが、どうやら現実になってしまったのは認めるしかない。となると工人になんとかしてもらうしか解決策は無いだろう。
過日、幾度も二人で行った時に工人に会えなかったのはどうしてだろうか。単に工人の気まぐれで、機嫌が悪かったから会ってくれなかったのか。いずれにせよ会ってくれるまで何度でも訪問するだけだ。
晴れの日の日曜日。マルトは荷物を背負って水車小屋を出発した。
革命暦で葡萄月 (ヴァンデミエール) と名付けられた通り、今の季節は葡萄の収穫の最盛期だ。葡萄自体も当然、果物として食べて美味しいのだが、ワインの材料として使われるのが主である。
プロヴェンキア地方における夏季の太陽の光をたっぷりと吸い込んでたわわに実った葡萄の房は、葡萄棚の横木をたわませそうな勢いで重くなっている。
収穫した葡萄は大きな木製の樽に入れられる。カルドロンよりも更に大きいのだが、こちらはプロヴェンキア地方に限らずどの地方でも見られる物で珍しさは無い。樽に葡萄の実が一杯に詰められると、若い娘が二人くらい、裸足になって上に乗って、スカートの裾をたくし上げながら葡萄を踏みつける。葡萄が潰れる感触が足の裏に伝わって心地好いのか、娘たちは楽しそうにきゃっきゃと歓声を上げながら、交代交代で葡萄を踏む。
若い娘の膝から上の素足を目にする機会などめったに無いので、そういう光景があればマルトもどうしてもちらちらと目線を送ってしまう。己の中にある性欲を否定することはできないというものだろう。だがあまり直視するのも失礼だろうし、自分には自分の行く先があるので、なるべく見ないふりをしながら先を急ぐ。
右膝の痛みがあるので休み休みながらもモンマジュールの旧修道院に着き、右肩に食い込む荷物の肩紐の痛みを揉んで和らげながら、立麝香草 (タイム) が生えている場所を探す。花の時期が終わっているので、ただ緑色の葉が茂っているだけの低木でしかない。見つけにくい。
ふと気付くと、マルトの前を一匹の黒猫が歩いている。足が悪いので常人よりは歩くのが遅いマルトであるが、つかず離れずの距離を保って、黒猫はマルトの数歩先にいた。ダイアリーが最初にモンマジュールの旧修道院に来た時、黒猫がいた、という話を聞いた記憶が朧気にある。
「お前について行けばいいのか」
勿論黒猫は、はいともいいえとも返事をしなかった。
しばらく歩き進むと、黒猫は草の生い茂った茂みに入って行った。
今が開花時期なのだろう。「?」の形をしたきれいな青い色の花が一本の草からだけでも何本も群生している。薔薇に似たあでやかな香りも漂っている。木立瑠璃草 (ヘリオトロープ) の草叢だ。
右へ左へ折れ曲がりながら黒猫が進むのを、草を掻き分けながらマルトもついて行った。やがて、草が途切れて岩場に出た。前回目印としていた二本の林檎の樹は無いので別の場所であるのは間違い無いが、ぽっかりと洞窟が口を開けている。黒猫はその中に入って行った。
「もしかして、当たりかな」
足の悪いマルトには洞窟内は歩き難かった。曲がりくねった洞窟を先に進むと、ズアーブ兵のような赤い帽子に赤いズボンに黒ジャケットの男と遭遇した。いつの間にか、黒猫の隣に幻日のように出現していた。
「よく来たな。名を名乗られよ」
「僕はマルトといいます。元、ですが吟遊詩人です。今はダルレスの街で馭者をしています。工人のカリエールさんですか?」
「ほう。我の名を知っているとは。以前に会ったことがあったか?」
「僕の同居人のダイアリーというメイドが、以前にあなたと会ったことがあります。その時の話を僕は聞いていました」
カリエールは長く白い顎鬚を左手で撫でた。
「思い出したぞ。あの、義人人形なのか、別の何者なのか分からないメイドか。ということは、用件はあのメイドのことかね?」
「はい。ええと、二カ月ぐらい前にアルピール山脈で山火事があった時に、ダイアリーが巻き込まれました。その時、ダイアリーの胸から金色の強い光が発せられて、奇跡が起きて助かったようです。でもその後から、ダイアリーは体調不良に陥ってしまって、あまり動けなくなってしまいました。それをあなたに助けてほしいのです」
「そう口で説明されても分からないな。ダイアリー本人を連れて来い」
ドヴェルグ族の工人カリエールが言ったことは、至極真っ当な内容だった。だがマルトは冷静ではいられなかった。
「連れてきたじゃないですか。でもその時には洞窟の入口が見つからなくて、会えなかった。じゃあ次にダイアリーを連れて来た時に確実に会ってくれるんですか」
マルトが強い口調で言い募ると、カリエールは不機嫌そうに首を捻った。
「なんだ。失礼な物言いだな。そういうふうに言うヤツの願いを聞いてやる義理は我には無いというものだ」
「そんな……じゃあ、どうしろと言うのですか」
「我はな、必要のある者の頼みなら聞く。金を取らずに無料で直してやるわ。その代わり、必要の無い者がいかに大金を積もうとも、直してやることは無い」
「言っていることが無茶苦茶理不尽です。言葉遣いの問題じゃないですよね、それって」
「だから最初から言っておるだろう。必要性の問題だ。それだけだ」
「それで結局、ダイアリーを直してくれるのですか? くれないのですか?」
「だからそれも最初に言っておるであろう。本人を連れて来なければ状況を確認することもできないであろう。我とて全知全能の女神ではないのだ。当たり前のことを聞くな」
無慈悲な言葉を聞いて、マルトはがっくりと膝からその場に崩れ落ちた。膝立ちになると、背の低いドヴェルグ族のカリエールと同じくらいの目線の高さになった。右膝が痛いが、立ち上がる気力も無かった。
「マルトだったか。用が済んだならさっさと帰れ」
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