7-2 金の十字架

 ダイアリーの声はすぐ後ろから、耳元の近くで聞こえる。


「他の場所も探した方がいいんじゃないかな、ダイアリー」


「いえ、ここに無いならどこにも無いと思います」


 背負っているマルトからはダイアリーの顔は見えない。見えないが、明らかに落胆していることは分かった。


「よりによって、ご主人さまに重荷を背負わせたまま無駄足を踏ませてしまうとは。本当に面目次第もございません」


 嗚咽のようなものがマルトの耳元で聞こえる。義人人形には涙を流したり鼻水をすすったりする機能など必要無いはずだが、ダイアリーが泣いているように聞こえる。


「帰ろうか、ダイアリー」


「………………はい」


 しばらく躊躇してから、ダイアリーは諦めをつけたようだ。


「工人に会いに行こう、と提案したのは僕なんだから、ダイアリーが落ち込む必要は無いよ」


 返事は無い。ダイアリーは落ち込んでいるようだ。もしも立場が逆だったら、マルトであったとしても落胆していたところだ。


 こういう時にどう慰めれば良いのか。マルトは自分の甲斐性の無さが今更ながらに恨めしかった。マルトは料理が得意なので、ダイアリーの好きな美味しい物を作って食べさせてあげるのは効果的かもしれない。が、それが通用するのは相手が生身の人間だったらの話だ。


 帰りの河岸段丘は下り坂なので、勝手に車椅子が走り出さないようにしっかりマルトが二本の取手を握っている必要があった。上り坂が辛いのは分かり切ったことだが、下り坂も下り坂で大変なので、どちらに進むにしても楽な道は無かった。


 行くときは晴天だったにもかかわらず、天気が急変して、時ならぬ白い靄がかかり始めた。太陽も覆われ、風は無いけれども少し肌寒くなってきた。夏季の好天を見込んでいたためマルトは薄着だった。ダイアリーは常日頃と変わらぬメイド服姿だった。


 車椅子を押しているマルトは、それでも上着を脱いでダイアリーの肩に掛けようとした。が、脱ぐのをやめた。ダイアリーは義人人形で、寒暖を感じることはできても、それはあくまでも機能なので、風邪を引いたりするわけではないのだ。無駄な所に気をつかいすぎてしまうと、かえってダイアリーが恐縮して萎縮してしまうような気がする。


 自分が好意を示そうとすると、相手は離れてしまう。野良猫を撫でようと近付き過ぎてしまうと逃げてしまうようなものだ。


 見上げた空には、南の空にぼんやりと太陽のような物が浮かんでいる。その両脇に少し小さな太陽のような物が二つ浮かんでいる。幻日現象だった。どちらかというと不吉な兆しとされる現象だったはずだ。逆光の中で黒っぽく見える一羽の鳥が、一〇〇年前に王の首を落とした断頭台の刃のように斜めに空を横切って行った。


 二人が小休止した側には、一本だけ夾竹桃が生えていた。夏の盛りである今、ピンク、白、赤などの花をいっぱいに咲かせていた。桃の花に似ているから夾竹桃というが、桃が生命を象徴する甘い果実をみのらせるのに対し、夾竹桃は毒だ。


「ご主人さま、薄着ですが、肌寒くはありませんか。もしよろしければ、わたくしが上を脱ぎますので、羽織っ……」


「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」


 慌ててダイアリーの言葉を遮る。ダイアリーの上半身は、黒の長袖の給仕服だが、その下には白いブラウスを着ているため、黒い服を脱いだだけでは裸になるわけではない。だからマルトが焦る必要は無いのだが、ダイアリーに先に心配させてしまったことが、自分としては不甲斐なく感じてしまうのだった。


□■■


 水車小屋の入口の扉がノックされた。屋外で喧しく鳴いていた蝉の声が一瞬だけ途切れたような気がする。椅子に座っていたダイアリーはそちらに顔を向けた。


 まだ昼間である。ダルレスの街へ仕事をしに行ったマルトが帰宅する時間には早過ぎる。


 本来の礼儀としては、ダイアリーが扉を開けて出迎えるべきところなのだろうが、立って歩いていたらいつ力尽きて倒れるか分からない。今はいざという時に手助けしてくれるマルトも不在だ。


「扉に鍵はかかっていません。どうぞお入りください」


 ダイアリーの声を聞いて扉は開いた。それにより、夏の風が室内にふわりと入り込んでくる。入口の扉とは反対側の壁、水車の回転を動力として製粉作業をしていた場所にある開け放してある窓から、風は逃げていく。


 戸口に立っているのは、三〇代くらいと思われる男だった。麦藁ではなくラフィア椰子の帽子を被っていた。


「こんにちは。ここがダイアリーさんのお住まいと聞いて来たのですが、正解でしたな」


 帽子を取って挨拶したのは、以前に会ったことがあるヴァンサンだった。モンマジュールの旧修道院に行く途中、風景画を描いているところに遭遇したことがある。


「こんにちは。たしか、ヴァンサンさんでしたよね。体調不良のため椅子に座ったままで失礼します。どういったご用件でしょうか」


「山火事があった日に、金色の光が空に立ち昇るのがダルレスの街からでもはっきり見えました。その後、アルピール山脈近辺で働いている木樵の幾人かに話を聞いて、メイド服を着た女性が現場に最も近い位置にいたらしいと確証を得ました。ダイアリーさん、あなたは賢者の石を所持しておられますね。私にお渡しください」


「あの日のことは……」


 メイド服を透過して胸から金色の光が出たことを、ダイアリーは正直に話した。


「恐らく、これが原因ではないでしょうか」


 ダイアリーは、服の内側から、黄金の十字架の首飾りを引っ張り出した。


「それはただの金でしょう。それとは別に賢者の石をお持ちのはずです」


 金の十字架が違うのならば、自分は賢者の石に該当しそうな物を持っていない。ダイアリーは主張した。


「そうですか。あくまでも思い当たる節がないと仰るわけですね」


 戸口に立ったままのヴァンサンはダイアリーの胸あたりに視線を注いだ。


「ところで話は変わりますが、ダイアリーさんは煙草は吸いますか?」


「いえ。わたくしもご主人さまも、煙草は嗜みません。この水車小屋の中に煙草の臭いはしないはずですよね」


 臭いに敏感な人ならば、少しの煙草の臭いでも気になるものだ。だが、マルトもダイアリーも煙草は吸わないので、この水車小屋の中にそういう臭いは染みついていないはずだ。


「そうですか。ならば、この小さな家には喫煙室は必要無さそうですな。いや、そんな物を用意するくらいなら屋外に出て吸った方が早そうですか」


 ヴァンサンは戸口に立ったまま、室内の椅子に座っているダイアリーとある程度距離を隔てて話している。口にくわえたパイプからは煙が踊るように湧き上がっていて、室内に煙草の臭いがつかないよう配慮してくれているのだろう。


「ダイアリーさん、喫煙者の煙草休憩については、どう思われますか? 非喫煙者の意見を是非聞いてみたいです」


 ダイアリーは山火事以前は、頻繁にダルレスの街へ行っていた。採取した薬草を売ったり、食糧等の生活必需品を購入するためだ。日曜夕拝式もある。その中で色々な人と出会い、話をした。ドヴェルグ族の工人が住む洞窟の噂を聞いたり、プロヴェンキア地方で食される料理に関するレシピも聞いた。思い返してみると、それぞれの場所で働いている人の煙草休憩の時の雑談という形で得た情報が多かったかもしれない。


「わたくしは非喫煙者ですが、煙草休憩それ自体が悪いとは思いません。ただ、非喫煙者であっても、そういう休憩の時間があっても良いとは思います」


「なるほど。喫煙者に対する理解があるのは、さすがにメイドらしいと言うべきでしょうかな」


 何故急にヴァンサンが煙草を話題にしたのか、ダイアリーには全く理解できなかった。


「お邪魔しました。今日は手ぶらで来てしまったので、道具か何かが必要だとは考慮していませんでした。また出直しますので、その時には素直に賢者の石を譲渡していただけると、こちらとしても助かります」


 ヴァンサンは退出した。


 一人残されたダイアリーは、本日ヴァンサンが来たことをマルトに報告すべきか、心配をかけるから黙っておくべきか、を考え始めた。


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