Tableau7 果実月 (フリュクティドール)

7-1 見上げた空の向こう


  いつの日も、私にはこういうことが起こる

  私が愛したものからは、喜びを得られず

  これからも得られないし、かつても得られなかった

  意識して、多くのことを為してはいるが、心の内ではこう言う

  すべては、無であると


(中世の吟遊詩人、ポワトゥー伯の歌より)




 屋外に出れば、見上げる蒼穹の彼方に鮮やかに白く輝く積乱雲が望める。広大な野の遠方には黄色く染まっている一帯がある。恐らく向日葵が地上の太陽として大輪の花を咲かせているのだ。一年一二カ月を通じてある程度温暖なプロヴェンキア地方であっても、夏の強い日差しは色彩の魔術師であった。しかしダイアリーは水車小屋に引き籠もったままで、そのような景色を見ることもない。


 ダイアリーの体調不良は続いていた。人間ならば、少しくらいの体調不良なら、充分な睡眠と滋養のある食事をとって、適切な薬を服用すればそこから回復できるものだ。生物であるからには新陳代謝があり、自己回復力を持っている。


 義人人形であるダイアリーには、自然治癒力というものを期待できない。体内の部品が壊れてしまったら、交換しなければ永遠に勝手に直ってくれることは無い。だから人間を診察する医者に診せても意味は無い。


「ダイアリー。物事には、それに適した時期、というのがある。例えば、無花果の実は、熱月 (テルミドール) と葡萄月 (ヴァンデミエール) の二回実るけど、その間に挟まれた果実月 (フリュクティドール) は、その時期ではないと言える」


 食事中。クルジェットの花のファルシを食べながらマルトは熱弁した。ファルシとは、肉とか野菜などの中の空洞に別の食材を詰め込む料理だ。クルジェットの花の中にキノコが詰められている。マルトが一人で作って自分一人だけで食べる料理としては、それなりに手間のかかった一品だ。


 他にも、暗黒大陸風肉団子のクスクスもある。夏に白または紫の小さな唇形花を付けるマヨラナの葉と花を入れて肉の臭みとえぐみを感じないように仕上げてあった。


「無花果は今は時期ではない。だけど僕たちは、今こそ、その時なんじゃないかな」


 疲れたような表情をしているダイアリーの真っ正面から向き合って、アロニアのジャムを塗ったパンをかじりながらマルトは宣言した。


「ほら、ダイアリーがモンマジュールの旧修道院に行って、妖精の洞窟で工人に会ったって言っていたでしょう。その時には、実際に不具合が起きてからじゃないと分からない、という答えしかもらえなかったって言っていたよね。今、こうして不具合が実際に起きているんだから、一日でも早くその工人に会いに行くべきじゃないかな」


 名案だ。というよりは、少し考えれば誰でも思いつく程度の案だ。


 でも何故か、肝心のダイアリーの表情は浮かなかった。ご主人さまが提示した普通案に対して消極的だった。


「ご主人さまのおっしゃることは、ごもっともだと思います。ですが、今のわたくしでは、モンマジュールまで歩いて行く体力がありません。途中で力尽きて倒れて、野垂れ死にするだけです」


 義人人形に野垂れ死にというものが存在するのか。動けなくなって誰にも顧みられなくなったら、その義人人形は「死」を迎えたということになるのかもしれない。


「それに、帰りはレ・ボーの山地からの帰宅となります。ダルレスからモンマジュールまでの距離よりも、一〇倍くらいはございます。地図上の直線距離で、です」


「ダイアリーが一人で行く必要は無いだろう。僕が連れて行くよ。さすがにモンマジュールまで背負って行くのは無謀だと思うので、簡易荷車を用意してそれで旧修道院まで行って、凹凸がある洞窟内は荷車は無理かもしれないからそこだけは背負って行くよ。さすがに休み休みにはなりそうだけど」


「そんな。……ご主人さまのお手を煩わすのは申し訳ないです。そんなことをするならば、ご主人さまは一日仕事をお休みしなければならなくなりますし」


 マルトは小さく二回頷いた。水車小屋に来てダイアリーと二人で暮らすようになって、半年くらい経っただろうか。ダイアリーはメイドらしい慎み深い性格でやたらと遠慮がちだ。それは特にメイドとしては一面においては美徳だろう。だが一人前の大人としては、自分の言うべき主張はきちんと言わなければならないという側面もある。それが苦手なのがダイアリーの個性であり弱点だ。


 ダイアリーを好きになってしまった余波か。そんな欠点すらも愛おしく感じてしまう。


「予測がついていたよ。ダイアリーがそうやって遠慮するであろうことは」


 だから、どう説得すべきかも事前に想定して考えてきてあった。


「よく聞いてくれダイアリー。僕はダイアリーとずっと一緒に過ごしていたいと思っている。それは、まあ、以前に告白した通りなんだけど……」


 事前に想定していた通りの会話の流れなのだが、実際に本人を目の前にして口にして言葉を発するとなると、どうしても照れくさくなってしまう。


「一緒に暮らすからには、ダイアリーには役に立つメイドであってほしい。いや、そりゃ、役に立たなかったからといってダイアリーが大事な人であることに変わりは無いんだけど。どうせだったら、ダイアリーの手料理を食べたり、ダイアリーの沸かしてくれたカルドロン風呂に入りたい。駄目だろうか?」


「わたくしダイアリーにそこまで存在意義を見いだしてくださいまして、わたくし、義人人形冥利に尽きます」


「僕にとっては、ダイアリーは役に立つとか立たないとかじゃないんだ。ダイアリーはダイアリーだ。だから好きなんだ。でも、ダイアリー自身がどう考えるか。僕マルトのために役に立ちたいと考えるんじゃないかな。ダイアリーのメイドとしてのその想いを無にしたくないんだよ」


「そう、ですね。わたくしも、できることならきちんと体力を回復させて義人人形として、ご主人さまのお役に立ちたいです」


 それが自然な感情だ。人間であっても、義人人形であっても、感情は感情だ。


 食事を終えたマルトは、食器を洗うために腕まくりをした。いや、その格好だけをした。夜でもある程度暑さが残る夏なので、マルトが現在着用しているのは薄手の麻の貫頭衣で、まくるほどの長さの無い半袖だった。


 翌日。話が纏まったので、ダイアリーをモンマジュールまで運ぶ用途の荷車製造を特注した。


 後日、それは、木製の車椅子というべきものとして完成した。


 天気が安定している時期に日程を定めた。事前にマルトの馭者の仕事は休みを申請しておいた。休みが多めの仕事なので収入は少ないがこういう時には助かる。


 マルトは、車椅子の後ろに付いている二本の取手を握る。ダイアリーの後ろから車椅子を押す格好になる。速度を出すとどうしても振動の影響が出てしまうので、ゆっくりと歩く。モンマジュールはダルレスの近郊なので、慌てる必要も無い。


 河岸段丘の上り坂は、力を抜くと車椅子が逆行して自分も轢かれてしまうのでずっと力を入れっぱなしでかなり息切れした。無事にモンマジュールの旧修道院に到着した時には、一仕事やり切った充足感があった。


 丘の上から周囲を睥睨する旧修道院は、今は廃墟ではあるが確かな存在感と美しさを有して目の前に在る。葉薊 (アカンサス) を意匠的に模した伝統的な浮彫が、建物に古式ゆかしい威厳を今も与えているようだ。中世の昔、夢と情熱を持って修道院を訪れた若き学僧たちは、女神ジュリアの教えに触れてどのように熱を感じ、この地に何を見たのか。


 だがマルトには感傷に浸っている暇は無い。ここで満足してはいけない。まだ、あくまでも舞台に到着しただけだ。本番はこれからだ。


「問題の洞窟って、どっちにあるんだ」


 ダイアリーはそちらへ案内した。季節が過ぎた分、以前にダイアリーが来た時に花壇で咲いている花とは違った花が開いているようだった。赤熊百合 (シャグマユリ) が鮮やかな赤に近い橙色の花を房状に咲かせている。天に向かって槍を突き立てているかのようだ。


 立麝香草 (タイム) は既に花の時期は終わっていて、枝と葉だけになっていた。さすがに車椅子で突っ切るのは難しそうなので、車椅子はここまでで一旦乗り捨てることにした。


「よいしょ」


 マルトはダイアリーを背負う。細身ではあるが、超軽量を謳っていてもボイラーなのでずっしりと重い。人間の女性ではないので体重は気にしないだろうが、重いという言葉は発しない判断は賢明だった。右膝は辛いが、休み休み行くしかない。


 岩場に出ると、二本の林檎の木が見えた。林檎の花の時期はとうに過ぎ、実が大きくなりつつあるようだった。


「洞窟の入口なんて、どこにも無いようだけど」


 岩場にはごつごつとした岩が峻険さを剥き出しにして近寄る人を拒絶している。洞窟の入口どころか、蜥蜴が入り込む亀裂すら見当たらない。


「そんな……ここで間違い無いはずなのですが」


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