Tableau6 熱月 (テルミドール)

6-1 火災


  たとえ冷たい風が吹くにせよ

  私の心の中に生まれるこの愛は

  寒くなってきても、私を暖かく包んでくれる

  それでどれほど苦痛を感じようとも

  よく愛することを諦めるつもりはない


(中世の吟遊詩人、アルナウト・ダニエルの歌より)




 旧来の暦でいえば七月に該当する熱月 (テルミドール) らしい暑い日がずっと続いていた。休耕地に生えている野草も腰の曲がった老人のように地面に向かって項垂れている。毎日の暑さにうんざりして体力と気力を消耗していたマルトだが、暑くても寒くても関係無くメイドとして凛とした姿勢を崩さないダイアリーを見ると、だらけていてはいけないという気分になる。義人人形ではあっても、寒暖を感じることはできるらしいが、汗をかく機能は無いはずだ。体温が上がり過ぎて何らかの機能に支障をきたすことがあるのか無いのかはマルトには分からないが、気温が高ければその分、少ない熱量で水を蒸気にできるのではないか、と蒸気機関に関する素人らしい感想しか浮かんでこない。


 その日は、ダイアリーは朝早くから活動を開始し家事を手っ取り早く済ませてから、遠出に向かっていた。アルピール山脈の麓へ行くという。ここ最近盛夏らしい暑い日が続いていて薬草や食用になる草や木の実が育っていると思われるので、今のうちに行っておきたいのだという。


 工人の居場所は既に見つけたので、純粋に採集が目的だ。彼女の植物収集による収入増は無視できないありがたいもので、マルトとしても収穫に期待していた。ダイアリーの話によると、今の季節ならば傷薬として使える弟切草や熊葛、食用にできる野生のポワロー葱、教会の礼拝堂に花輪を作って飾る貝殻菊 (イモルテル) などを採取できる見込みがあるのだという。


 マルトはマルトで、季節で変動することなく、郊外の水車小屋からダルレスの街に出勤し、乗合馬車の馭者を日々務める。暑くなれば暑くなるほど元気になる蝉たちが喧しく鳴いている。プロヴェンキア地方では蝉は幸運の象徴とされるが、夏の暑さの象徴でもあるはずだ。


 ダルレスの街は古代帝国の時代から続く歴史ある古い街で、家々の窓はお祭りの時期でなくてもいつも季節の花々で鮮やかに飾られている。茉莉花 (ジャスミン) 、忍冬 (スイカズラ) 、九重葛 (ブーゲンビリア) の花などが、道行く人の気分を華やかなものにさせてくれる。


 馭者の仕事にありつくことができて、本当に幸いだった。膝が悪いマルトは、選べる職業の選択肢の幅が狭かった。


 過酷な船内荷役作業人、いわゆる沖仲仕などに比べれば、馭者というのは肉体的な負担ならば軽い仕事ではあるが、一歩間違って事故を起こせば物損や人命喪失といった事態になるため、馭者の仕事も気は抜けない。特に馬という動物を御する必要があるので、急に気まぐれを起こして暴走し始めたりしては大変である。


 馭者台に座って手綱を握っているだけでも、プロヴェンキア地方の燦々たる夏の日差しを浴びていると汗ばんでくる。義人人形とは違って生身の人間なので、生理現象として発汗は避けられない。午前中は比較的涼しいことも多いのだが、午後になれば焼け付くような太陽が闘牛の牛のように容赦なく荒ぶりだす。義人人形は動力の水蒸気を発生させるために水分補給が必須だが、生きている人間もまた渇きを癒すために水分の摂取を必要とする。


 白い猫がのんびりと道を横切って行く。手綱を操って馬の速度を若干落としてやり過ごす。


 ラダン河沿いの通りに出ると、陽光を照り返して明るく輝く水面が広がり、視界も広くなる。風を遮る建物が減るため、いつもより強く風を感じられた。今日は朝からずっと乾いた風が飽きもせずに吹き続いている。乾いた地面から巻き上げる砂塵をどうしても擦ってしまうため、鼻の奥や喉がいがらっぽい。飛ばされてしまいそうなので、羊毛製の深紅のボネ帽は脱いだ。


 新たに乗り込んだ中年の男が「火事が起きている」と他の乗客たちと話し始めた。具体的にどこで火災が発生しているのかは、馭者台に座るマルトには聞き取れなかった。


 マルトは馬車を安全に操りながら、素早く東西南北を見渡した。一見した限りではどこかで煙や炎が立ち昇っているのは見えず、近場ではなさそうだと推測するばかりであった。


 この場所からだと、どうしても古代帝国時代のアレーヌ円形闘技場と、ダルレスの街で一番大きい女神ジュリア教会であるサン・トロフィーム教会の鐘楼とが妨げとなるから、街の北部の様子は窺えない。


 吹いている強い風は、夏の暑さを運んでくる内海側の南風だから、万が一延焼するとしても、街の北部だけならば市域全区画に及ぶことは無いかもしれない。


 いかなる物事も近くで凝視すれば悲劇、遠くからの傍観であれば喜劇である。火災に見舞われた本人にとってはまさに尻に火がついた緊急事態だろうが、第三者であるマルト視点からでは、野次馬根性以上の興味を抱かないものだった。


 そう泰然自若と構えていることができたのも、次に新しく乗せた客が良く通る声で山火事と言ったのがはっきりと聞こえるまでであった。


 山火事ということは、ダルレスの街のどこかでの出火ではないらしい。ならば、軽く見回しただけでは火の元の煙や火は見つけられないわけだ。


 続けて、重要な単語が聞こえてきた。アルピール山脈の麓、が現場とのことだ。


 今朝早く、耳にしたことがある語だった。丁度そこへ、ダイアリーは植物採取に行くと言っていた。


 偶然の一致だ。運悪く、ダイアリーが行った場所で、よりによって山火事が発生してしまった。


 手綱を握って前を向いたまま、大きな声を出すマルト。


「山火事なんて、何故起きたんですか」


 乗客は、馭者台からの突然の大きな声に驚きつつも、自分が話しかけられたことは理解していた。


「さあ、俺は山火事が起きた瞬間に立ち合ったわけじゃないから分からないよ。もしかしたら誰かの煙草の不始末かもしれないし、あるいは、単に自然発火かもしれないな。今は空気が乾いている上に気温も高くて風まで強いときているから、一旦火が起こればあっという間に燃え広がってしまう危険性は高いわな」


「自然発火ですか。何も無い山で、何がどう自然発火するっていうんでしょうか」


「強風で乾燥した木の枝同士が強く擦れて、摩擦熱で火が出るとか、そんな感じじゃないのか」


「そんなことで容易に火が起こるというのでしょうか」


「馭者さんよ、そんなこと俺に言われても困るよ。原因なんか知らないよ。要は、山火事が起きてしまったからには、鎮火するまでは危険だからアルピール山脈の麓付近には近づかない方がいいということだな」


「そ、そうですね」


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