6-2 火と煙の脅威

 マルトは冷静さを取り戻した……かのように装って、馬車の操縦を続けた。


 アルピール山脈の麓、と言葉で言っても、その示す範囲は広大だ。山火事が発生した地点とダイアリーが向かった先とが近いとは限らない。過剰に心配する必要も無いだろう。落ち着いて自分の仕事を継続すべきだ。


 ダイアリーは生身の人間ではなく義人人形だ。火災に巻き込まれた場合、どのような被害になるのだろうか。


 着ているメイド服は全て燃えてしまうだろう。髪の毛も燃えてしまうのではないだろうか。だが、体はどうなのか。人間のように煙を吸って死ぬことは無いのかもしれないが、体の表面を覆っている擬似皮膚組織や人工筋肉繊維なども耐火性能があるとは思えなかった。


 煙に巻かれても突っ切って逃げることはできるかもしれない。だが、炎に取り囲まれてしまったら体躯を構成している物質の多くが燃えてしまい、義人人形としての機能を果たせなくなるのではないか。換言すれば焼け死ぬのではないか。


 生身の人間よりは生存力は優れていそうではあるが、それでも義人人形も不死身ではないのだ。


 水車小屋生活の相棒が焼け死ぬようなことがあれば、とても寂しいし、炊事や掃除などで頑張ってくれているので、ダイアリーを失えば大変不便になることが目に見えている。


 不便ではあるが、家事は自分でやれば良い。元々、ダルレス郊外に移住して、水車小屋で一人暮らしをするつもりだったのだ。ダイアリーとの同居は想定外の出来事だった。


■■■


 決まった道順を馬車で通り終えて、一旦詰所に戻って短い休憩時間となると、マルトは他人に見られないように自分の喉に指を突っ込んだ。敢えて大きな声をあげて他者に気付かれるように嘔吐して、体調が悪いふうを装った。上司に早退を訴える。


 上司が情に厚い人物だということは今までの付き合いから既に知っていた。欺くのは罪悪感もあったが、ダイアリーの危機を知ってマルトは心が動揺し、居ても立ってもいられなくなっていて、必ずしも冷静で合理的な判断ができるような心理状態ではなかった。


 上司は、この後の勤務と、明日一日も休むことを快く許可してくれた。その上、足の悪いマルトが更に体調不良の中で病院へ行くのもダルレス郊外の家へ帰るのも大変だろうということで予備の馬を貸してくれた。人情のある上司で助かった。至れり尽くせりである。ただし最後に、給料から引いておくから、とは言われた。


 マルトは鞍の無い馬に跨った。鐙も無い。ただし手綱はあるので、十分に操ることができる。具合の悪そうな振りをしながら、病院の方角へ向かうと見せかけて、すぐに進路変更してダルレスの街を出る。


 街の北東のアルピール山脈の方向を窺うと、確かに雲にしては妙に黒っぽい煙が上がっていた。


 プロヴェンキア地方は乾燥しているので、火の取り扱いには十分注意するように常々言われていた。市内の家々は赤煉瓦と土壁のため燃えにくくはあるが、マルトとダイアリーの二人が住処としている水車小屋は木造なので、火には注意していた。世の大人たちは男でも女でも煙草を吸う者が多いが、マルトは元は吟遊詩人だったこともあり、喉をいためたくないので、煙草には全く興味が無かった。


 まさか山火事という形で災難が降って沸いてくるとは全く想定できていなかった。


 とにかく、アルピール山脈の麓へ向けて馬を急がせた。鞍の無い手綱だけの裸の馬なので、あまり無理に速度を出せないのがもどかしかった。


 暑い中を急がせれば馬も疲れる。途中、運河の畔で馬を休ませ、水を飲ませる。気持ちばかりが逸る。南風は相変わらず強く吹いていて、北東に見える煙は勢いを弱める気配も無い。


 現場に近付いたと実感できたのは、鳥たちが塒へ向かう夕方の薄暮の時間帯になってからだった。昼間の暑さの勢いは衰えず、気温は高いままほとんど下がらず、南風も熱風として吹き付ける中、太陽だけが傾いて明るさが減退した。そうなると遠くからでも火が赤々と燃えているのが視認できるようになり、その代わり煙は見えにくくなった。


 山火事はかなり広範囲にわたっている。遠目には火の勢いこそ強くなさそうに見えるが、一望しただけでも燃えている範囲が広いのが確認できるので、完全に鎮火させるのは困難を極めるだろう。


 鎮火作業に当たっている何人かの男たちに出会った。火の進行方向と予想される部分の草を刈ったり木を伐ったり、火の燃え広がっている場所に桶で汲んだ水を掛けたりして、消火を目論んでいるらしい。自然の脅威たる山火事に対して、人間ができる抵抗はあまりにも微々たる弱々しいもので、心許なかった。


「女を見かけませんでしたか。メイド服を着ていて、名をダイアリーというのですが」


「こんな所で女なんか見かけないぞ。そいつは、あんたの恋人か何かかい」


「ええ、まあ、そんなところです」


 勿論ダイアリーは義人人形であり、マルトの恋人ではない。だが、今の状況でいちいち訂正する必要性も無い。髭は濃いが頭頂部が禿げている木樵の男がダミ声を発する。


「動物の焼死体なら幾つか見かけたけど、人間の焼死体は幸い出てきていないな。今の季節は山火事の危険があるってことくらい、この辺に住んでいる奴はみんな分かっているから、迂闊に山に入るような人間自体、ほとんどいないはずだぜ」


 マルトは唇を噛み締めた。山に入る人間が誰もいないからこそ、独占的に薬草や食用の野生植物を入手できる。ダイアリーの意図は理解できた。本日はそれがたまたま裏目に出てしまったのだ。


「だから恐らく、あんたの恋人は、そんな山奥には入っていなくて、山火事が起きたのを見て退避したんだと思うぜ。今頃、もうダルレスの家に帰り着いているんじゃないのか。あんたと入れ違えになっちまったんじゃないのか」


「そうだといいのですが、もしダイアリーが逃げ場を失っていたら、早く助けの手を差し伸べないと」


「何を言っているんだ兄ちゃん。逃げ場を失っていたら、もう助からないぞ。いいか、火事っていうのはな、火で焼け死ぬんじゃないんだよ。煙を吸って意識を失って逃げられなくなって、その後で火が来て遺体が焼けちまうんだ」


「彼女は、ダイアリーは、煙を吸ったくらいでは倒れないはずです。生身の人間じゃなくて、義人人形ですから」


 更に二人の木樵が、空になった桶をそれぞれ抱えて山から下りてきて、二人の会話に合流した。


「義人人形だって? 叡王国の貴族様が高級メイドとして使う蒸気機関の機械のことだろう。なんでこんな片田舎に義人人形が来ているんだよ。まあ義人人形なら仮に焼けてダメになっちまっても、新品を買えばいいだけの話じゃねえか。かなりバカ高い金額が必要って聞くけどな」


 マルトは反論しようとしたが、賢明にも口を噤んだ。所持品や牛や馬などの家畜についての一般的な見解は、替えの利くものだ。これが自分の家族だったら、そうは考えないはずだ。


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