4-3 他の女
馭者の仕事が終わった夕方、マルトは足早にアレーヌ円形闘技場の周辺を歩いた。
途中で二人ほど、化粧の濃い妖艶な女に声を掛けられたが、無視して歩いた。マルトが娼婦を捜しているのは事実だが、誰でも良いというわけではない。初対面の女が相手では、親近感も全く無いので、あくまでも行為だけの関係に終わってしまう。今のマルトが女を抱きたいのは、自分の気持ちを確認するためだ。それにしても、自分が娼婦を捜しているということが、他人から見て分かってしまうものなのか。そんなに明確な顔の表情とか、全身からの雰囲気というものを醸し出しているだろうか。自分の奥底に隠蔽してある根元的な性欲を道行く人々にさらけ出しているみたいで、今更ながらに羞恥心が湧き上がって頬を朱に染める。だが今は恥ずかしがっている場合ではない。
目当ての人物を発見できないまま、円形闘技場を一周してしまった。ここにきて少し冷静さを取り戻す。あの娼婦アルバートルがマルトのことを気に入っていているらしいことは、そう大きく間違っていないだろう。だが、娼婦という職業であるからには、マルトに買ってもらうのを待っているばかりでは商売にならない。つまりは、今、この瞬間にも、アルバートルは既に他の客を取っていて、よろしくお仕事中かもしれない。
カフェテラスにはランプの明かりが灯されて、人々が楽しそうに談笑している。
せっかく意気込んで来たのに空砲になってしまっては萎えてしまう。よく考えれば予約していれば良かったのかもしれない。予約を受け付けているのかどうかは知らないが。
今度は円形闘技場から離れて、別の場所を歩いてみる。旧市街の城壁の外側の少し北にあるダルレス駅に向かってみる。
石の柱のようなカヴァルリ門から旧市街を出ると、そこには円形の広場がある。そこには小さな人だかりができていて、何やら歌声が聞こえてきた。
元とはいえ吟遊詩人であるマルトは根本的に歌が、音楽が好きだった。歌が聞こえると、どうしてもそちらに興味が向く。
歌っているのはマルトと同年代くらいの若い女だった。聴衆は家に帰る前の子どもたちが多いようだった。大人は今の時間帯も家路についたり夕食の準備をしたりで忙しくて余裕が無いのかもしれない。
女はリュートを弾きながら、その演奏に合わせて静かな歌を語るように歌唱していた。耳をそばだてて歌詞の内容を確認してみると、気温が高くなってきて牧草が茂って羊の放牧が行われている広大な野の風景だった。牧草月 (プレリアール) らしい内容の歌といえる。
一人の牧童が羊の番をしながら、澄みきった青い空を見上げて葦笛を吹いて牧歌的な曲を奏でている。その牧童の少年が笛を吹くのをやめると、広い野の別の場所から葦笛の音色が響き出す。こちらの牧童は少女だった。羊の番をしている時は他のことが何もできず退屈なので、笛を吹くくらいしか楽しみが無い。
少女が笛の演奏を止めると、それに呼応するように今度は先ほどの少年が笛を吹き始める。二人は同じ曲を吹いているのだ。少年の笛が止まると、その続きの旋律を少女が吹き始める。
少年と少女の牧童は、一度も会ったことは無い。同じ野に放牧に来ていても、離れた場所にいるので面識は無かった。だが、こうして笛の音のやりとりをしていると、会ったことの無い相手とも心が通じ合っているように思えてくる。温かい気持ちになれる。
やがて時間が過ぎ、青かった空は茜で染色された布のように赤い色に移り変わって行く。少年が吹いていた笛を止めると、沈黙が訪れ、風の音と牧草がそよぐ音だけが静寂を引き立てる。日が沈む。残照だけが西の空に名残惜しそうに抵抗を続けている。
もう一度少年が笛を吹いて止める。その音色は野の広さの中で拡散して誰にも届かず消えゆく。最後にもう一度、これが最後と決めて、淡い期待を抱いて、少年は笛に息を吹き込む。
既に暗くなりかけだ。相手の牧童は帰ってしまったと判断するのが普通だろう。少年は葦笛を懐に仕舞い、代わりに木製のカスタネットを取り出した。夜分に家畜を駆り立てる時に使うのだ。
弾き語りの女は、リュートの共鳴板を叩いてカスタネットの音を模した。
牧童の少年も帰ってしまい、無人の野には夜が訪れる。
弾き語りは終わり、女は聴衆たちに一礼した。集まっている人数が多くはないのでまばらではあるが拍手が起こる。
マルトもまた拍手をしながら、一筋の涙を流していた。
ああ、応えてあげればよかったのに!
ただ、その想いだけが湧き上がる。
二人の想いが通じ合っていたのは錯覚だったのか。いや、確かに一時的にではあるが通じ合っていたはずなのだ。なのに、最後は、なぜ?
弾き語りの女が地面に逆さに置いた帽子の中に、聴衆たちが小銭を入れて、立ち去っていく。マルトも最後に小銭を入れた。聴衆の数がさほど多くないことと、その内の多くが子どもであることから、収入は少ないようだった。
いい歌を歌っていても、今の時代に歌で食べていくのは難しいようだ。今に限った話ではないのかもしれない。中世の吟遊詩人も、必ずしも専業の吟遊詩人だったというのでもなく、人によっては、ポワトゥー伯のような爵位のある立派な貴族だったという話もあるようだ。
本日の本題を思い出して、再びマルトは駅方面に向かうことにする。円形のラマルティーヌ広場からは放射線状に幾本かの道が出ている。道の一本の奥には鉄橋も見えた。先ほどの歌の最後の情景と同じですっかり暗くなってきた。旧市街から出ると建物もまばらになってくるので、人々の賑わいも遠くなり、街の明かりも少なめだ。
人が少ないなら、こちらには娼婦はいないかも。と、思い始めた頃。
「マルト、だよね?」
背後から声をかけられた。聞き覚えのある、求めていた声だった。振り向きざまに相手を確認する。
「アルバートルですか?」
「お、やっと名前を覚えてくれたのか。嬉しいよ」
本日もアルバートルは娼婦らしく胸元の大きく開いた服を着ていた。
「あなたを探していたんですよ。あなたを買います」
懐からお金を出しながら、マルトはアルバートルの目を真っ直ぐに見詰めた。それが本来の娼婦の仕事でるにもかかわらず、アルバートルは驚きに両目を子猫のように円くしていた。すぐに、真っ赤な紅を塗った唇をにやりと緩ませた。
「おいおい、どういうミストラルの吹き回しだい? マルトの方からアタシを抱きたいなんて言い出すなんて、まるで南東から吹いてくるみたいじゃないか」
「こっちにも事情があるんですわ。とにかく仕事はしてくれるんですよね。お金はこれで十分足りますよね」
「分かったよ。アタシだって、娼婦の誇りがあるから、仕事はちゃんとやりますって」
お金を受け取ったアルバートルは、マルトの手を引いて人気の無い細い路地に入った。マルトは周囲を不安げにきょろきょろ見回した。ダルレスの街の中であっても、人通りのある旧市街の内側と、城壁の外側の裏路地とでは、こんなにも違う貌を持っているものなのだ。
「さあ、ここなら人目につかないから、いいだろう」
言うが早いか、アルバートルは素早くマルトに顔を寄せて、小鳥が啄むような軽い口づけをした。一回、二回、三回、二人の唇と唇は重なった。
どうやら以前に彼女が言っていたことは本当らしい。事後の枕語りは枕の無い路地で立ったままのようだ。
対抗するように、覚悟を決めたマルトが、アルバートルの大きく開いた胸元に右手を差し込もうとして、十字架の首飾りが引っかかってしまう。方針転換して服の上から豊満を鷲掴みにする。ダイアリーには無い柔らかさがそこにはあった。
マルトは右手の指を握ったり開いたりしながら、左手をアルバートルの背後に回し、臀部をスカートの上から撫でた。アルバートルも負けじと、マルトの服の前のボタンをはずして胸と腹を露出させて、左胸に真っ赤な唇を寄せる。蜜蜂が異教御柳 (ヒース) の紅紫色の花から熱心に蜜を収集するかのように、激しく吸い付く。
確かにマルトは男であった。普段は飼い慣らしてあっても、胸の底には性欲という猛獣を潜ませている。猛獣はその牙を白大理石に突き立てて貫いた。マルトが押せば、アルバートルは応えてくれた。牧童の少女の笛が途切れたのが今更ながらに悲しくせつない。
オーケストラの演奏が最終楽章に入り、終曲に向かって次第に盛り上がって最後に大合奏の部分で最高潮を迎えたところで盛大にシンバルが打ち鳴らされて短い余韻が嫋嫋と尾を曳いて幻想交響曲が終わる。
事が終わった時、二人とも荒い息をしていた。
今だ。
今、僕は、この娼婦のことをどう思っているのか。それを自分自身がしっかり観察しておかなければ。
もちろん、今さっきまで情を交わしていた相手なのだから、愛着はある。
だが、燃え上がる情熱は、飽きるのも早い。こうして情交を重ねている間は良いかもしれないが、彼女は娼婦であるからには他の男にも抱かれている。彼女が今、マルトに向けている笑顔はマルト一人のためのものではなく万人向けだ。
賢者は既に答えを与えてくれていた。娼婦アルバートルを抱いたのは、あくまでも性欲だった。彼女自身に対して特別な感情があるわけでなかった。
ならば対比として、ダイアリーに対する気持ちは何なのか。性的な機能を持たないというダイアリーに対して、マルトの抱いている思慕は今、どのような色に染まっているのだろう。
「マルト、なんか、他の女のことを考えていないかい?」
さすが娼婦は観察眼が鋭い。マルトが己の心境を上手に隠せるほどの老獪さを持っていないからだろうが、そのままだと全てを見透かされてしまいそうだ。
「そっちだって別に他の男のことを考えたっていいですよ」
「そういう野暮なことを言うんじゃないよ。素人の女にモテないよ」
アルバートルは手早く乱れた衣服を直していた。胸元は大きく開いた状態だ。
「じゃあね。暗いから気を付けて帰りなよ。お得意さんになってくれるなら料金は割引するから、また頼むよ」
「まあ、それは、おいおい、行けたら行きます」
「行けたら行く、は、断る時の定型句じゃないか」
娼婦アルバートルと別れて、マルトはダルレスの街を出て水車小屋に帰る。
疲労感が足取りを重くする。
今日の経験は無駄ではなく、非常に有意義だった。自分のダイアリーに対する気持ちを明確にすることが出来たので、目的を達することができた。
しかし、今までは自分の気持ちを見ないふりをして誤魔化していたが、それがそこに在ることを認識してしまった今、認識前に戻ることはもうできない。どうやってダイアリーに顔を合わせることができるのか。
「吟遊詩人として歌いたい。でも、やっぱり難しそうだな」
あえて別のことを考えて、ダイアリーへの気持ちが漏れてしまいそうになるのを払拭することにした。
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