Tableau4 牧草月 (プレリアール)
4-1 添い寝
甘い愛の苦しみとともに
果樹園の中で、あるいはカーテンの奥で
私が一緒になることを望む、あの人といるのでなければ、
天の恵みエリクサーを存分に得ることになる
(中世の吟遊詩人、ブライユのジャウフレ・リュデルの歌より)
迷迭香樹 (ローズマリー) 製のスプーンでスープを飲み終え、マルトは溜息をついた。昨日の夜からだろうか。喉が少し痛かった。一時的なものだろうと思っていたが、本日一日仕事を終えて帰宅した頃には少し熱っぽさも出てきて体が気怠さの重荷を背負ってしまった。
「風邪、かな。体調が悪くなってしまった」
ぽつりと呟いた小さな声を、ダイアリーが聞き取った。
「ご主人さま、申し訳ございません。今月になってから、朝夕は冷え込むけど昼間は気温が上昇して暑くなる、といった極端な天候が続いていましたので、ご主人さまの体調維持にもっと気を配るべきでした」
洗い物の手を止めて、ダイアリーはマルトの正面に立ち、腰を深く折って謝罪した。
「いや、ダイアリーが悪いわけじゃないよ。僕だって子どもじゃないんだから、体調管理は自分の責任だ。それに気をつけていたって、風邪をひく時には風邪をひいてしまうものだよ。生身の人間ならね」
そこまでしゃべって、喉がいがらっぽくなって咳き込んでしまった。慌ててダイアリーがマルトの背後に回り、背中をさすってくれた。
「だ、大丈夫だよ」
「ご主人さま、明日は仕事を休んで、一日寝て体力の回復に努めた方が良さそうです。無断欠勤にならないよう、ご主人さまの職場へはわたくしが赴いて事情をご説明してきますので、ご安心ください」
そこまでしてもらうのは申し訳ない、と言おうとしたが、マルトの体力不足は明らかだった。それだけの台詞を口にする気力すらも湧いてこなかった。
「そう、だね。ダイアリーの言う通りにするよ」
食事を終えたマルトは、寝間着に着替えて、すぐに寝ることにする。ベッドは買わなかったので、寝藁を布袋でくるんでその上にシーツを敷いて、毛布を掛けて寝る形だ。
体調が悪ければ、工人探しのための情報集めも進まない。まずは回復が優先だ。
「それにしてもご主人さま、残念でしたね。もうすぐ昇天祭なのに、体調がすぐれないようでしたら、参加せずに水車小屋で休んでいる方がよろしいですよね」
「あ、ああ、そういえば、また、お祭りがあったね。僕はお祭りにはそんなに興味が無いから別にいいけど。僕の誕生日が万聖節と同じ日だけど、あくまでも誕生日が大事なのであって、万聖節には興味が無かったかな」
お祭り、となると、若い男女が恋人同士に発展することも多い。そういう特別な日なので、そういう気分になりやすいのだ。だがマルトは昔から女性にあまり好かれることは無かった。リュートや他の楽器を弾いて音楽を奏でれば、男女問わず人気者になれるのではないか、と思っていたが、期待していたほどでもなかったのが現実だ。
牧草月 (プレリアール) はその名の通り、紫花苜蓿 (リュザルン) や二番生えの白詰草などの牧草が生い茂り、羊や山羊や牛などを放牧する、風薫る季節だ。お祭りに相応しい季節とも言えるので、各地で多数開催される。
牧草月の中旬には女神ジュリア昇天祭があり、下旬には聖霊降臨祭が行われる。それ以外にも上旬にはシャマルグ牧童祭があり、下旬の聖霊降臨祭とほぼ同時期にサント・マリー・ド・ラ・メール巡礼祭がある。後者二つはその地の祭りなのでダルレスにはあまり関係が無いが、前者二つは馨しの国全域で大々的に行われるものなので、ダルレスの街でも当然華やかにお祝いされる。
「プロヴェンキア地方に来てから知ったことなのですが、お祭りの時には広場にみんなで集まって、ファランドウロという民族舞踊を行うんですよね。楽しそうですし、ご主人さまも参加されてはどうかと思っていたのですが、今回の昇天祭は見送りですね」
ダイアリーが口にしたファランドウロとは、馨しの国最南部のプロヴェンキア地方や、南西に隣接する麗しの国のカタローニャ地方で行われる民族舞踊だ。老若男女が手を繋いで列になり、陽気な笛の音楽に合わせて輪になって踊る。
そこには当然、人と人との交流があり、新たな交流も生まれる可能性がある。
若い男女ならば、好きな人と偶然隣同士になって手を繋ぎ合いたい、とも考えるだろう。どこの地方でもそうだが、地域のお祭りというのは地域共同体の維持発展という重要な役割があり、若い男女の出会いの場でもある。
「ファランドウロに参加すれば、ご主人さまも、良い女性と出会えるかもしれませんね」
「それはどうかな」
女性と言われてマルトが最初に頭に思い浮かべたのが、ダルレスの街で会った娼婦だった。名を何といっただろうか。
マルトは現在二三歳だ。若い男性であるからには女性に対する性的な興味はある。だが、お金を払ってまでアルバートルを買って抱きたいかと問われると、答えに躊躇する。
娼婦のことを思い出したことを、ダイアリーには悟られたくなかった。マルトは淡い恥ずかしさを覚えて毛布を少し引っ張り上げ、眉の下辺りまで顔を隠した。ダイアリーは残りの家事を再開する。
杉菜 (スギナ) を撚 (よ) って作った食器洗いを使ってダイアリーが洗い物をする音だけが小さな水車小屋の中に聞こえる。静かな夜が更けてゆく。
さきほどダイアリーが言っていた通り、昼間は暖かくても夜になると気温が急降下する日が続いていて、本日も例外ではなかった。古い木造の水車小屋は、雨や風を防ぐことはできるが、細かな隙間から忍び込む冷気にはあまり防御力を発揮できず、急激に冷え込んできた。
寝藁をくるんだ布袋の上にシーツを敷いただけの簡易ベッドの上なので、背中から冷え込みが伝わってきて、まだ眠りに落ちていなかったマルトはくしゃみをして、小さく身震いした。
「寝ている最中も寒いですよね。湯たんぽでもあった方が良かったです。明日、ダルレスの街に行って買ってきますね」
マルトは毛布を下げて顎から上を出し、無言で頷いた。
「でも、肝心の今夜が、湯たんぽ無しだと、風邪の治りも遅くなってしまいますよね」
そこは我慢するしかないだろう。とマルトは心の中だけで言う。ダイアリーは、もう春になったからと使わなくなっていた石炭ストーブに火をつけて、部屋が暖まるのを待つ。
「燃料の石炭も、決して値段が安くはないので、節約を考えていましたが、ご主人さまがお風邪を召してしまうのでは本末転倒でした。本当に申し訳ございません。女神ジュリア様へも懺悔を」
別にダイアリーが責任を感じることではない。自分で発言した通り、マルトは既に二三歳で、子どもではないのだ。体調管理は自己責任だ。寒いなら寒いと主張してストーブを点すか、厚着するかすれば良かったのだ。
小屋の中が暖まり、ダイアリーが一通りの家事を終えると、灯りを消した。真っ暗になり何も見えなくなると、室内の静寂が耐え難くなった。マルトはわざと音を立てて鼻水をすすった。
「失礼いたします」
ダイアリーの落ち着いた声が妙に近くで聞こえたと思ったら、上に掛けていた毛布がめくられた。
真っ暗な中なので、何が起きたんだ? と一瞬思った次の瞬間には、マルトの右隣に暖かいものが寄り添ってきた。同時に優しくも爽やかなラヴェンダーの香りもふわりと漂った。
「義人人形にも体温がありますので、本日は添い寝をいたします。わたくしを湯たんぽ代わりにしてください」
焦りと混乱が一度にマルトの上にのしかかった。
「おいおい、風邪が移ったら困るだろう」
「義人人形ですから風邪はひかないです」
またもや失念していた。言われてみればそうだった。マルトは発熱のせいで頭がぼうっとしてそこまで思考が回らなかった。
「でも、不具合が発生するから直す必要があるんだろう? 変な話だよな」
「はい。分からないからこそ、ちゃんと工人を探して、どういうことなのかはっきりさせなければなりません。でも、工人探しに遠出に行くのも、あくまでもご主人様が元気になってからですね。ダルレスの街へ食料や生活必需品の買い出しに行かないわけにはいきませんが、それ以外は、ずっとご主人さまに付き添って、元気になるのを見守りますので。それより、どうですか、私の体は。暖かいですか?」
どんな物体にも表面温度はあるだろう。だが、気温が低ければ表面温度も低くなる。温かみがあるのは、中から熱を発している物体だけだろう。
右腕に触れるダイアリーの体には、ぬくもりがあった。
マルトは寝間着を着ているし、ダイアリーもまたメイド服を着たまま毛布の中に入ってきたらしい。暗いので明確には分からないが、灯りが消えてからダイアリーが潜り込んでくるまでの時間を考えると、メイド服を脱ぐほどの時間の長さは無かったはずだった。洗い替え用のメイド服を保管している衣装箱の中にラヴェンダーの小枝を入れているから、メイド服から香りが漂っているのだ。
「こういう時に、子守唄でも歌うことができれば良かったのですが、わたくしは残念ながら音楽の素養は無いようでございます。ご主人さまの風邪が治ったら、歌を聴かせていただきたいです」
マルトは静かに呼吸だけをした。寝たふりをすることで、ダイアリーの言葉が聞こえなかったふりをしたかった。
歌は、かつてはマルトの全てだった。中世の職業である吟遊詩人に憧れて、実際にやり始めてみた。若かったというよりは幼かったあの頃は、夢だけを見ていれば良かった。現実が見えていなくても前に進むことができた。
今は、どうか。
思考が黒い渦を巻いて、どこまでもどこまでも深く引き込まれていった。風邪で体力の落ちているマルトは、疲れて眠りについた。
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