3-2 桑摘みの季節

 マルトは仕事を終えて、ダイアリーに頼まれていた食材を買うためにダルレスの街の市場に来ていた。旧市街の中の市場は人で賑わっている。といっても夕方なので、家路につく人と店じまいの準備の方が慌ただしい。


 古くから河川交通で栄えたダルレスの街には古色蒼然とした香りがある。古代帝国の属州時代のアレーヌ円形闘技場があり。ダルレスで最も大きく格式の高い教会とされるサン・トロフィーム教会の塔が聳え立つ。建築物の屋根は尖った棘となって空を突き刺しているかのようである。それでいて近代化著しい馨しの国を南北に走る鉄道と蒸気機関車。石炭を焚いて盛大に煙を上げる工場。古いものと新しい物が共存して渾然一体となっている。そして都市から一歩出れば田園風景が美しい自然がある。


 そんなダルレスの街なので、必要な物は大概揃う。それは食材についても言える。駆け込みという形で必要な食材を買う。


 用事を終えて帰ろうとダルレスの街を出ようとすると、一人の女がマルトの目の前に立った。先日も会ったような記憶がある。娼婦だ。胸元が大きく開いた服を着ている。胸の谷間には十字架が銀色に輝く。


「お兄さん、また会ったわね」


「人違いではありませんか。初めてお会いすると思います」


「お兄さん、会った女の区別がつかなくなるほど、たくさんの女の人に会っていないでしょ」


 逆に言えば娼婦ならば、たくさんの男と会っているはずだ。それなのにマルトの顔を覚えていたということだろうか。よほど人の顔に関する記憶力が良いのだろうか。


 だが、工人に関する情報集めをしたいマルトとしては、娼婦に会いたいと思っていたところだ。都合良く向こうから会いに来てくれて手間が省けた。


「僕はすぐに家に帰るので遊んでいる暇は無いんですが、ちょっと聞きたいことがあるんです」


「なんだい? あ、アタシの名前はアルバートルだよ。白大理石っていう意味だ。もちろん本名じゃないけどね。覚えておいて。というか前にも名乗ったよね。どうして覚えてくれないのさ」


 娼婦は艶然と笑った。義人人形であるダイアリーにも表情はある。だがその表情は、こういう時にはこういう表情をするものだ、と機械的に記録されたものを再現しているに過ぎないはずだ。自然な心理の変化に伴う表情の移り変わりは、生身の人間の方が魅力があるように感じる。


「いや、別に名前を聞きたいんじゃなくて、プロヴェンキア地方のどこかに、ドヴェルグ族の工人がいる、という噂を聞いたんですけど、具体的にどこにいるかご存じですか」


 娼婦のアルバートルは眉を顰めた。その仕草一つをとっても色っぽい。ダルレスには美人が多いという話はよく聞くが、彼女は美人の部類に入るのかどうかは微妙だが、娼婦だけあって自分を魅力的な美人に見せる方法は知悉しているのだろう。


「プロヴェンキア地方のどこかって、随分範囲が広くて曖昧でしょう。ダルレスの街だけじゃなくて、アフィゴンもデニムもタラスクも入るわけよ。だったらついでに、捜索範囲を広げて東方の竜王国とか、黄金の島ワクワクとかにも、そんなヤツがいないかどうか情報を集めてみるつもりなのかい?」


 娼婦は楽しそうに笑った。


「情報を集めるのはいいよ。でも、その集めた情報をあんたに教えるのは、タダじゃできないね。そういうのって、枕語りでするもんなのよ。そうだろう?」


 そう言いながらアルバートルはマルトとの距離を詰めて、体の前面を密着させた。熟した桃二つのようなふくよかな胸が、マルトの胸部に押しつけられる。足が悪いマルトは機敏に回避することもできない。


 マルトも若く健康な男性である。女の肉体を意識すると、熱せられたお湯のように性欲が煮えたぎり始める。


「といっても、アタシの仕事は、室内の枕のある寝台ではなく、そのへんの物陰でさっさと済ませるんだけどね。安くしておくから、あんたも今、やっていかないかい?」


 女に迫られれば男としては悪い気はしない。たとえ相手が娼婦であってもだ。ただし、娼婦がタダでは情報を教えられない、と言っていたのと同様に、マルトもまた、情報をもらえないのならば安かったとしても娼婦を抱いてお金を消費することは躊躇われる。


「今日はもう帰るから。また今度で頼みますよ」


「何を真面目ぶっているんだよ。今の時期だったら、桑の葉を摘むためにスカートのままで木に登っている娘たちを下から覗いて喜んでいるんじゃないのかい?」


「そ、そんなことするわけないですよ。僕は忙しいんだ」


「ちっ、つれないお兄さんだね。てか、アタシは名乗ったんだよ、二回も。あんたも名乗りなさいよ」


「僕は、……マルトと言います」


 相手の名前は本名ではないので自分も偽名を名乗ろうかと思ったが、咄嗟に気の利いた名前が思い浮かばなかったのと、偽名を使う必要性もよく考えたら思いつかなかった。


「マルトか。いい名前だね。確か聖人の名前と同じだったかな」


「それは聖マルクのことですよね。マルトは、タラスクの街でラダン河に棲む竜を退治したという英雄と同じ名前です」


 ラダン河は、馨しの国を流れる河の中でも四大河川に数えられる有数の大河である。エマ国のシンプロン峠の東にあるサン・ゴタール山塊のフルカ氷河から流れ出したラダン河は、何本かの支流の水を集めて太くなって、エマ国と馨しの国の国境地帯にある三日月型のレ・マン湖に入る。湖の西岸から出てラダンの旅は続き、その後は南へ向かい、ダルレスの街の南で三角州を形成しながら内海に注ぐ。タラスクの街は、ダルレスよりも少し北の上流にある河川交通の要衝というべき港町だった。


「あ、ああ、竜退治の英雄の名前だったっけ。いい名前じゃないか」


 由来を間違えていたのだから、お世辞で言っているのは明らかだった。


「まあ、僕に英雄の名前は似合わないですよね。名前負けしている」


 マルトの声に自虐の色が加わった。


「なんだよ。自分の名前に誇りを持たないのかい」


「英雄は、戦争で活躍して味方を勝利に導く存在でしょう。それを言ったら僕は負の英雄ですよ」


 幼い頃から音楽が好きで歌うのが得意だったマルトは、中世に活躍した吟遊詩人に憧れた。だが、蒸気機関が発達して馨しの国を南北に縦断する鉄道が敷設されるような現代において、吟遊詩人という職業は成り立たなかった。大道芸人の一部としての弾き語りがせいぜいだった。


 意外なことに、吟遊詩人としてのマルトを必要としてくれる存在があった。それが、北方のプロシアン帝国との国境紛争での前線部隊だった。戦線が膠着している中で、戦意高揚のための歌を所望されたのだ。


 自分の歌でそこまで効果がでるとは思っていなかった。が、予想に反して効果は絶大だった。悪い方向性で。


 戦意が高揚した兵士たちは、無理な突撃を敢行して、敵の罠にはまったのだ。その結果、マルトが戦意高揚の歌を歌った直後の戦闘で、馨しの国の前線部隊は致命的敗北を喫してしまった。更には飛んできた敵の砲弾の破片が当たり、マルトは右膝を負傷し、更にリュートも壊れてしまった。その後、戦争に負けた馨しの国は、プロシアン帝国に対して、国境地帯の二州を割譲することになってしまった。その二州に跨る山地には、石炭を産出する鉱山があって、蒸気機関時代である現代においては極めて重要な意味を持っている土地だった。


 自分の歌が、兵士たちを死地へ追いやってしまったのではないか。そして、祖国が戦争に負ける直接のきっかけを作ってしまったのではないか。


 その責任感の重さに耐えかねて、マルトは吟遊詩人を廃業し、戦争から最も遠い南へ逃げることにしたのだ。


「悲惨な過去を抱えて、どうこうって話かい? そういうのは、アタシじゃなくて、一緒に住んでいる美人の胸に抱きしめてもらって慰めてもらいなよ」


「確かに仰る通りですよ。だから、あなたを買うのは、やめておきます。勧誘するなら、僕じゃなくて他の人にした方がいいですよ」


 相手が娼婦であっても、自分の胸の内に沈殿堆積している汚泥の黒さを打ち明ければ、少しは楽になれるかと思っていた。だが、事前に思っていた通りに進んで結果に繋がるなら、そもそもマルトは負の英雄の自責の念に苛まれていないはずだ。


 ダルレスの街から水車小屋までの帰路の足は、いつも以上に重かった。こんなことだったら、桑摘み娘のスカートの中を覗いて喜んでいるようなくらいの気楽さで生きている方が正しいのかもしれないとも思えた。


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