Tableau3 花月 (フロレアール)
3-1 カルドロン
本当に慈悲は失われたのだ
それなのに全く知らないでいた
慈悲を持つべき人が持っていない
全然持っていないのだ。どこを探せば見つかるのか
(中世の吟遊詩人ベルナデット・デ・ヴェンテドルンの歌、より)
ドヴェルグ族の工人を捜索する、という大目標はあるが、道のりは遠い。
足場を固めることも重要だ。二人の生活が快適なものでなければ、捜索に勤しむ余裕もなくなってしまう。
ダイアリーは精力的に働いていた。水車小屋の家事だけではなく、薬草を採取したり、緑の染料を採取するハンミョウを捕まえてきたりして、しっかりとお金を稼いでいた。
ダイアリーが作ってくれる料理は、叡王国風の料理がほとんど無くなり、現地プロヴェンキア地方風の料理が大部分になった。ダイアリーには料理のレシピは叡王国風も馨しの国風も、あるいは異国風も、既に搭載されているが、その中から何を使うかが問題である。マルトの好みを知るために、使える調理器具と食材の範囲で、まずは叡王国風料理から試してみた。
あれこれ試した結果、マルトはプロヴェンキア地方風の料理が好みに合っているらしいことが分かった。食べ物という観点からいっても、マルトがここプロヴェンキア地方に流れ着いたのは正しいことだったのだ。
馨しの国の最南端に位置するプロヴェンキア地方は、南は内海に面し、ラダン河の流れもあり、牧畜も行われているし麦や葡萄やオリーヴなど栽培されている作物も豊富だ。マルトもまた料理を得意としているので、自分の好みに合う風土の料理の作り方には常々興味を抱いて情報を収集していた。
そのダイアリー。どうやら大きな買い物をしたいらしい。ご主人さまであるマルトにも秘密にしていたので、マルトとしても無理に追求することはなかった。ベッドの時のように反対されることを警戒したのかもしれない。
春がたけなわとなってライラックや金雀枝 (エニシダ) や桃の木に花々が咲き誇る頃、答えが荷車に乗って、また工事の人工を従えてダルレスの街からやって来た。
「な、なんなの、これ……」
荷車に乗っている大きな釜を見て、マルトは目を丸くした。驚かそうと秘密にしていたダイアリーの企みは成功した形だ。
「これはカルドロンと言います。よく、童話の中で悪い魔女が、巨大な釜の中で不気味な材料を煮込んで錬金術の怪しい薬を作っている描写がございますよね。その大釜こそがカルドロンでございます」
「え、ダイアリー。これから錬金術でも始めるの?」
荷車に乗せてでなければとても運べない大きさの釜だ。しゃがめば、人間一人を入れることもできそうだ。それだけではなく、大量の煉瓦と石炭も載せている。
「違います。これはお風呂にするのです。ただカルドロンを置いただけでは下で火を焚くことができませんので、煉瓦で炉を作る工事も併せて頼んであります」
だから工事人工も来ていたのだ。
「でもこんなに大きな釜を、狭い水車小屋のどこに置くんだ」
「さすがに屋内は無理かと思われますので、屋外です。ここはダルレスの郊外で人通りもありませんから、入浴中に人に見られる心配もありませんし、大きな物なので盗まれる心配も不要です」
こんなカルドロンなど、誰が盗んで何に使うというのか。こんな物を欲するのはそれこそ童話の悪い魔女くらいのものだろう。
四十雀の鳴き声が遠く聞こえる。この月の下旬頃になると、卵を一〇個か、それ以上に産むのだ。だから四十雀にとっては今は恋の季節なのだろう。童話の魔女が作る媚薬があれば、意中の相手と結ばれることも容易になるのだろうか。
「ダイアリー、そこまでして風呂に入りたいのか」
一瞬、マルトは脳内でダイアリーの入浴の図を想像してしまった。清楚なメイド服を脱いでもダイアリーは美しくて魅力的だった。
「いえ、わたくしは義人人形であって、新陳代謝もございませんし、表面的な付着した汚れは拭き取るだけで十分ですので、風呂に入る必要性はありません」
そうだった。彼女があまりにも人間的なのでたまに忘れてしまうが、ダイアリーは義人人形だ。女性を模してはいるが性的な機能は無いと言っていたので、胸も平らなのだ。マルトは心の中だけで、すぐに卑猥な妄想に走ってしまう己の欲望の醜さを恥じた。
「これはあくまでも、ご主人さまが気持ちよくお風呂を楽しんでいただくためのものです」
「そ、そうなのか。なんというか、ダイアリーが自分で稼いだお金なんだから、僕のためじゃなくて、自分のために使ってほしかったな。まあ、これがダイアリーの望みというなら、それでもいいけど」
結局工事はその日の内には終わらず、翌日に続きが行われた。
馭者の仕事を終えたマルトがダルレスの街から帰宅すると、ようやくカルドロンの風呂は完成していた。
ドラード鯛とパルルド浅蜊貝の入ったブリードスープとパンとチーズの夕食を済ませた後、ダイアリーが風呂の用意をしてくれた。カルドロンに水を入れ、釜の下で石炭を焚いて湯を沸かす。そのまま入ると火傷をするので、円形の木の板が準備されていて、水の上に浮かんでいた。
「丁度良いお湯加減になりました。さあ、ご主人さま、お入りくださっても大丈夫です」
「いや、これ、本当に入るの?」
「もうすっかり夜ですから、暗くなっていて誰かに見られる心配もありませんし」
マルトは空を見上げた。既に日は沈んでしまっていて、頭上には星空が広がっている。冬の星座はまだ残っているが、夏の星座が登場するにはまだ早いらしい。
「ダイアリーは、ずっと、ここで見ているつもりなの?」
「はい。石炭の燃え具合を見ていないと、火が消えてしまったり、逆に激しく燃えすぎて熱湯になってしまったりしても困りますから。火の見張りは当然です……あ、ご主人さまのことだから、ダイアリーにばかり働かせるのは申し訳ないとか、そういうご心配をしておられるのでしょうか」
ダイアリーにとっては働くことが喜びでもある、というのは理解しているつもりだ。それよりも、ダイアリーがずっと同伴している状況だと、ダイアリーの目の前で自分が全裸になって風呂に入らなければならない。
「ずっとダイアリーに裸を見られているのは、恥ずかしいというか……」
「そう、で、しょう、か……それでしたら、わたくしもメイド服を脱いで全裸になれば対等ですので、ご主人さまが恥ずかしい思いをしなくても済みますね」
言ってダイアリーは青紫のリボンの蝶結びを解き、胸元のボタンを上から外し始めた。慌ててマルトが制止する。
「いやいやいやいや、それはまずいでしょう。もっと恥ずかしくなっちゃうよ」
「義人人形は性的な機能はございませんので、胸は平らですし、乳首もありませんし女性器もありませんので、ご憂慮には及びません」
「そういう問題じゃないんだよ」
とはいえ、せっかく労力を費やして風呂を沸かしてくれたのだ。貴重な石炭も燃やしている。ここまで来て風呂に入らないというのは、かえってダイアリーに申し訳ない。
マルトは服を脱いで全裸となり、股間を隠しながら浮いている板を踏んでカルドロンの中に入った。胸の真珠貝のボタンとリボンを直したダイアリーは釜の下の火を見ていた。マルトの裸体から目を逸らしていてくれたのか、単に偶然石炭の具合を気にしただけなのかは分からない。
「なかなか熱いな」
「それでしたら、桶で水を加えましょうか」
「いや、やっぱりこれで丁度いいかも」
外気で体が冷えていたので最初だけはお湯が熱く感じたが、板の上に胡座をかいて肩まで湯に浸かると、全身に暖かさが心地好く染みこみ、逆に疲れが抜け出て行くように感じる。
「確かにこれは、ダルレスの浴場では味わえない気持ちよさだな」
「ご主人さまに喜んでいただけて、良かったです。これって、季節によってお湯に柑橘類を浮かべたりして入浴剤にしても良いかもしれません。入浴剤ならば、立麝香草 (タイム) 、薄荷、ラヴェンダーなども良いですね」
「これも、ダイアリーが家事だけでなく、あちらこちらと外に出て薬草や食材になる物を探してくれているおかげだね」
マルトがダイアリーに微笑みかける。ダイアリーの顔は、石炭の燃える火の照り返しを受けて、夜闇の中で美しく浮かび上がっていた。ダイアリーが自分の方を見ていたので、マルトは視線を逸らして少し俯いた。今はカルドロンの中で胡座をかいているので裸体を見られているわけではないが、まるで全てを見透かすようなダイアリーの目に見つめられると、こちらの心の内まで見透かされそうで恥ずかしい。
「工人を探すためのわたくしの都合のついででございますので、お気になさらないでください」
「その工人って、見つかりそうな目処って立っているのかい? それに、そもそもダイアリーの寿命を延ばすって、どういうことなんだ?」
「寿命を延ばす、というのは、少し正確さを欠いていた言い方だったかもしれません。今後不具合が起こる可能性があるので、事前に予防策を講じるか、もし実際に不具合が起きてしまった時にすぐ対処できるように、工人を探せ、というものです」
「不具合か。そりゃあ、機械だって義人人形だって、故障が起きて部品交換が必要、なんてことは実際にあるものなのだろう?」
「噂では、元の要塞都市レ・ボーの地獄谷に妖精が住む洞窟があるとも言うので、そういった辺りでしょうか。不具合で自分が壊れるというのは、よく分からないので、実際に工人に会って聞いてみないことには始まらないですね」
ダイアリー一人で工人とやらを探すのは大変だろう。マルトも情報集めの部分では協力しているのだが、根も葉もない噂しか集まらない。もっと、核心的な情報に詳しい人がいないものか、と考えた時に、思い当たる節があった。娼婦ならば、枕語りで色々な情報を持っているのではないか。これまで全く興味の無かった娼婦に少しだけ会ってみたいと思うようになった。
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