Tableau2 芽月 (ジェルミナール)
2-1 二人暮らし
歌うことはほとんど役に立たない
その歌が心の底から出てきたのでないなら
心からの至純の愛がそこに無いなら
また歌は心の内から出てきたことにならない
(中世の吟遊詩人ベルナデット・デ・ヴェンテドルンの歌、より)
「ただいま戻りました、ご主人さま」
「おかえり、ダイアリー。ヴォークリューズの涌井はどうだった?」
「噂通りきれいな場所でした。円形の青い泉から大量の水が滾々と湧き出ていて、美しさと同時に迫力も感じました。古代帝国時代には閉ざされた谷を意味するヴォーク・クリューズという名で呼ばれていたというだけあって、歩いて行くのはなかなか大変でした。いかにも地底の洞窟に引き籠もるドヴェルグ族が好みそうな地ではありましたが、見つけることはできませんでした」
本日はダイアリーは遠出に行っていたため、帰宅したのはマルトの方が先で、日没後になってから帰宅したメイドを迎える形になった。
二人の今の目標は、工人を探し出すこと。
そのために、マルトは情報集め。ダイアリーは実際に足で訪問調査だ。
と、同時に、二人の生活を安定させなければならない。
「遅くなりまして申し訳ございません。すぐにお食事の準備をいたします」
「いや、いいよ。もう自分で準備して食べ終えたから。カシャチーズとヴァランス蜜柑」
「え、それだけでございますか。それじゃ質素すぎるのではないかと」
カシャチーズとは、発酵の過程で刺激が強くなりすぎてしまったチーズのことだ。値段は安いが、チーズの中ではあまり上等とは言えない部類だ。
「いや、さすがにそれだけだと物足りないので、おやつとしてクレスペウを作って食べた」
「クレスペウって、前菜とかで食べる物じゃないのですか?」
「さあ? 僕はおやつだと思っていた。その辺は自由でいいんじゃないのかな?」
クレスペウとは、色違いの野菜を層状にした見た目も楽しいプロヴェンキア地方風のオムレツである。マルトは馨しの国北部のルテティアの都の出身で、ダイアリーにいたっては外国である叡王国出身である。二人とも地元民ではないため、郷土料理の作り方は学んでも細かい部分や根本的な定義などについては無知な場合もあった。
以前にダイアリーがクレスペウを作った時には、赤いトマトと橙色のニンジンと、緑色のエピナール菠薐草を使っていた。
「それと、異教御柳 (ヒース) の花から作ったエール酒を飲んで、酒のアテに茹でた珊瑚草 (サリコルヌ) をつまんだよ」
珊瑚草 (サリコルヌ) は海辺に群生している明るい緑色の草であるせいか、しょっぱさが特徴だった。
「僕はこう見えて料理も得意だから、心配しなくても、ちゃんと美味しい物を用意して食べることができるから。ダイアリーは安心して、自分の目的のために遠出をしてもいいんだよ」
「さようでございますか。わたくしの方は、工人を見つけることはできませんでしたが、道中では、あれこれと薬草を集めることができました。こちらは、家で料理に使う分を除いて、明日にでも売りに行ってきます」
「そうか。ダイアリーの薬草採取の収入は頼りになるから期待しているよ」
食事と片づけを終えると、寝間着に着替えてマルトは床に敷いた毛皮の上に横になる。ダイアリーはメイド服のまま椅子に座った状態で休息する。
若く美しい女性と一つ屋根の下で夜を共にする。この状況に心臓が痺れてしまう感覚を味わいながらも、マルトは労働の疲れの中で眠りに落ちて行く。
成り行きで始まったマルトとダイアリーとの共同生活だったが、実際に始まってみると想像以上に快適だった。
まず、ダイアリーは有能なメイドだった。洒掃薪水 (さいそうしんすい) はメイドの本領、と公言するだけあって、ダイアリーの家事能力は高かった。マルト自身も料理は得意だし、他の自分の身の回りのことは当然自分でもできるのだが、どうしても足が悪いマルトならば、効率が悪かったり速度が遅かったりするところ、ダイアリーはてきぱきと諸事をこなした。
家事だけではなく、労働収入においてもダイアリーの存在はマルトを十分に補助してくれた。あちらこちらに出掛ける道中で、薬草であるとか、食材にすることができる草や木の実を採集してきてくれるのだ。水車小屋でマルトに提供する食事に使う食材以外は、売って金銭収入にすることができる。
「わたくしども義人人形は、元々は叡王国で王侯貴族や貴顕高官の方々にお仕えする用に製造された者です。確かにわたくしが以前にお仕えしていた生みの親の博士は、庶民的な叡王国料理を好んでおられましたが、本来的には上流階級向けの馨しの国風の高級料理のレシピを記憶として搭載しております。食材の知識も十分なデータ量です。それだけではなく、異国の高級料理のデータも入っております。ですから、東方の竜王国の全席料理なども、環境さえ整えば作ることができます」
ダイアリーはそう言って平らな胸を張っていた。
とはいえ、現実には、竜王国料理は強い火力を必要とされることが多く、水車小屋に設えられた簡易な調理器具では出来ることは限られてくるし、また竜王国料理ならではの珍しい食材を入手するのも困難なので、実際に作ることは不可能に近いのだが。
「ご主人さまのお仕事は順調ですか?」
「勿論だよ。たまに横柄で腹の立つ客はいるけど、上司が人情に厚い人で、足の悪い僕としては、そういった部分では恵まれているし、助かっているよ」
マルトは水車小屋に腰を落ち着けると、すぐにダルレスの街で職探しを始めた。
始めたのは良いが、丁度その時に数年に一度の大雪が降ってしまい、実質的には雪がとけて街が落ち着いてからの開始となってしまった。
給金が良さそうなのは、ラダン河を行き来する船の荷物を積み下ろしする港湾労働者の仕事だった。古代帝国時代の呼称だと沖仲仕だ。蒸気機関車の鉄道が開通してからは河川交通の重要性は下がったとはいえ、それでも過酷な仕事なので常に人手不足気味である様子だった。さすがに足が悪いマルトに務まりそうにはなかった。
マルトは料理を得意としていたので、料理屋で調理師の仕事も探した。だが厨房は戦場だ。調理が得意であっても、足が悪いとなると、他の同僚の料理人の邪魔にしかならない。
予想通りではあったが、足が悪いと、選べる職場は限られてくる。
求人掲示版で見つけた仕事は前歴不問の乗合馬車の馭者だった。この仕事はマルトに丁度良かった。
膝が悪くてもできる。
そういう職業であるから、高齢の労働者も多い。なので勤務も毎日びっしりではなく、休み休みで交代制だ。その分、給金も決して高額ではないのだが、マルトの場合は傷痍軍人年金をもらえるので、収入の高さよりも仕事内容が自分に合っているかどうかが重要だった。マルトの場合は更には同居人ダイアリーが薬草や可食植物などを採取してきてくれることによる世帯収入増もある。
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