1-3 夢のはじまり

「あなたは、わたくしのご主人さまということになりましたので、これからはわたくしに対しては敬語抜きでお話しくださいませ。また、名前もさん付けではなくダイアリーと呼び捨てにしていただけますようお願いします」


「ええっ、いきなり呼び捨てですか」


「はい。わたくしは、ご主人さまのことを『ご主人さま』とお呼びしますので、これで主従関係を明確にできるものと認識いたします」


「なんというか、貴族様のようなエラい人でもないのに、ご主人さまと呼ばれるのは背中がむず痒くなるような感覚だなあ。何か他に気の利いた呼び方とか無いものかな」


「もしお望みでしたら『旦那さま』にいたしましょうか?」


 ダンナ様、と小さく口の中だけでマルトは呟いて、軽く身震いした。それではまるで夫婦のようではないか。結婚したわけでもない女性に旦那さまと呼ばれては、調律のずれた弦楽器を演奏しているようで落ち着かない。


「いや、それだったら、ご主人さまでいいよ。主従関係っていうと、なんか中世の騎士道物語に登場する君主とそれに仕える忠実な騎士みたいで、妙に堅っ苦しく感じるけど、僕は貴族様みたいにエラぶるつもりも無いので、気軽に接してくれるとありがたいよ、ダイアリーさん」


「呼び捨てでよろしくお願いします」


「あっ、そうだった。じゃあ、ダイアリー」


 ダイアリーは呼び捨てで名前を呼ばれると、向日葵の花が咲き誇ったかのような満面の笑顔を浮かべた。


 本人が嬉しそうだしこれでいいのかな、とマルトは自分の中でダイアリーの呼び捨てを納得させた。


「そ、それはそうと、こんな所でずっと立ち話というのも寒いし、まずは屋内に入ろうか、ダイアリーさん、じゃなくて、ダイアリー」


 二人とも水車小屋の中に入り、扉を閉めると、冬の風が遮られてそれだけで体が少し温かくなった。


 水車小屋の中は、小綺麗に片付いていた。ダイアリーが不法に住み着いてからそれなりの時が経っていて、自分が快適に暮らすために掃除も行き届いていたのだろう。マルトは適当な場所に担いでいた荷物を下ろした。


 マルトとしては、製粉用として稼働しなくなってから長期間放置されていた水車小屋と聞いていたので、長年の埃が溜まっていて蜘蛛の巣だらけだろうと想定していた。人が住めるようになるまで痛む右足を引き摺りながらの掃除の手間が大変そうだと覚悟していたので、その部分で労力が節約できて安堵していた。


「ところでご主人さま、大変申し上げにくいのですが、もうすぐ日が暮れるという頃ですが、現状、わたくしは夕食のご用意をすることができません。ここには調理器具が何もありませんし、食材も全くございませんので、明日の午後以降ならば調理器具も急いで調達いたしますし食材も準備して、万全のお食事をご用意いたしますので、本日のところはご寛恕くださいますようお願いいたします」


「いいよ、別に。長旅用の保存食として持ち歩いていたルジェ魚の干物と乾燥無花果の実がまだ残っているから」


 こうして、マルトの水車小屋での一人暮らしは二人で始まった。


■■■


 途中で大雪に見舞われたため、列車は予定よりも大幅に遅れてダルレス駅に到着した。眩しい陽光に彩られて温暖なことで知られるプロヴェンキア地方ではあっても、数年に一度くらいの頻度で雪が降り積もることがある。北西風ミストラルと北風トラモンターヌが協力して北から冬将軍を連れてきたものらしい。数年に一度の出来事なので、遭遇した旅行者は災難だったといえる。


 列車が停まると同時に、駅の係員たちが次の運行のために蒸気機関車に燃料の石炭を積み込み始めている。その一方、乗客たちは一様に疲れた表情のまま、列車を降りてダルレスの地に立った。吹く風の冷たさに身を震わせて、コートの胸元を掻き寄せている者も多い。


 風で羊毛の帽子が飛ばないように左手で押さえながら、ヴァンサンもまた乗客の一人としてダルレスの地に第一歩をしるした。さすがに乗客たちが歩行する場所は雪も既に踏み固められていて、一本の細い道ができているが、踏み固められていない場所ならば、大人の膝に達するくらいの積雪となっている模様だった。一本道なので、行き来する人同士がすれ違う場合は、どちらかが脇に避けてお互いに譲り合いながらだった。


「女神ジュリアよ、私をこの地に無事にお導きいただけたこと、まこと感謝いたします」


 ヴァンサンは首から下げた白銀の十字架に右手を添えながら、女神にひとしきり祈りを捧げた。焦茶色の鼻髭と顎髯に覆われた顔の輪郭は冬の風に吹かれても赤らむこともなく肌の白さを保っていた。眉根を寄せた目つきは鋭く、獲物を狙う鷹さながらだった。口に咥えたパイプから出る煙は、外気温が低いせいかいつもの黒さよりもかなり白い霧のようになっていた。


「さて、大昔に異端は撲滅したはずのプロヴェンキア地方に来るとは。雑草は根から引き抜かないとまた生えてくる、という外国の格言の通りでしょうか」


 とは独り言で呟いたものの、その格言がどこの国のものであるか、ヴァンサンは知らなかった。


 中世の時代、馨しの国がまだ統一されていなかった頃、プロヴェンキア地方を含む南部は女神ジュリア教の異端派閥が幅を利かせていた。ルテティアの都を含む北部から派遣された聖なる十字軍によって異端は撲滅され、南北の馨しの国は統一された。


「女神ジュリアよ、あなたの忠実なしもべ、十字架護持者ヴァンサンは、必ず、このダルレスの地で、石を持っている異端者を見つけ出し、処罰することを誓います」


 ヴァンサンは天を仰いだ。灰色の雲が低く垂れ込めて雪が降り続いている天候は、評判に聞いていた温暖なプロヴェンキア地方らしからぬものだ。これも女神の思し召しなのか。


 ヴァンサンは足早に駅を出ると、そのまま中世の城壁が所々残っている旧市街方面へ向かった。既に住むべき家は手配してある。


「ラマルティーヌ広場2番地。これか。黄色い壁の家とは、太陽の街に相応しい明るい色合いじゃないか」


 旧市街を囲む城壁のすぐ外側、円形の公園の隣に家はあった。厳密には、この建物の右半分だけを不動産業者から借りたのだ。


「異端探しも大事だが、季節の流れは待ってくれないからな。絵を描くことが優先になるかな」


 だが、冷静に考えると、財布も心許ない。


「いやいや、季節を描く絵も大事だけど、仕事もして目先のお金を稼がなければ。まずは女神ジュリア教会の日曜夕拝式で説教の仕事、あたりだろうか」


 異端探しも、季節の絵を描くのも、いずれにせよここが拠点となる。ヴァンサンは黄色い家を見て満足げに頷いた。


 これが、ヴァンサンにとってのプロヴェンキア地方における短くも悲痛な夢の始まりであった。


■■■


「美しい風景を見たい?」


 メイドのダイアリーに言われたことをそのまま復唱し、マルトは首を傾げた。観光客でもない限りはあまりに抽象的過ぎる願望だった。


「はい。ドヴェルグ族の工人は、神出鬼没で、一カ所に留まらない故になかなか見つからないのだと聞き及んでいます。噂では、絵を描くのが趣味で、きれいな風景を見つけて、その貴重な瞬間を永遠にするためにと絵を描いているのだとか。ですからわたくしは、居を構えた水車小屋の場所を拠点として、あちこち景観の良さそうな場所を訪ね歩きたいと考えております」


「雲を掴むような話だなあ。噂話にしても突飛すぎて、信頼性が無いな。一カ所に留まらないなら、工房ごと移動しているってことになるから、その設定には無理があるんじゃないかな」


 工人と言うからには、どこかに定住して工房を構えなければ仕事ができないのではないだろうか。そもそもを言えば、ドヴェルグ族なる者がいて手工業を得意としているなどといった説は、マルトは聞いたことすら無かった。吟遊詩人であったからには、そういった各地方の伝説や言い伝えなども耳に入れるように常々心がけてきていたにもかかわらず、である。


「ドヴェルグ族は、叡王国風の言い方をすればドワーフとなります。普段は地底の洞窟に閉じこもっているからこそ、きれいな風景を好むのだと聞き覚えがあります」


「僕はそのへんの噂はウソだと思うけど、ダイアリーが探したい場所を探せばいいと思うよ。僕は僕で、ダルレスの街で就職活動をするついでに、工人なんて人がいるのかどうか、噂話を集めてみるから」


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