第3話 雨秋

 頭を押さえていた麻海の目から一筋の涙がこぼれ落ちる。

「従姉妹が悲しみの想いを閉じ込めたティーカップ、それが真奈女の元に来たってワケ」

 麻海は頭を振って涙を拭い、真奈女を抱き締める。



 それはこの世界の外、現実の話。


 今どき携帯電話のひとつも持たない麻海のことを雇って働かせてくれたファミレスでのこと。


 忙しい中、鋭い目をどうにか緩めて優しい目を張り付けて働いて4ヶ月。


 もうやめようか、そう思い始めた頃のこと。


 ある少女が新しく入って来た。


 その少女こそが指宿 真奈女、17歳。


 真奈女は休憩時間に突然麻海の目を見て言うのであった。


 ――カッコいい。その辺の男なんかより全然イケてるね!


 随分下手なお世辞じゃあないか、そう返そうとした麻海だったが真奈女の表情、輝く瞳に温かな赤に染まる頬を見てその言葉を仕舞った。


 それからふたりは互いにバイトの入っていない日を指定して遊び、喫茶店で時間を共にして、ふたり満足していた。


 そんな日々を過ごした真奈女は麻海に対してこれまでにない暖かな陽だまりのような想いを抱いていた。


 その2ヶ月後の事だった。


 月末に麻海が辞める。


 耳に入った事実は真奈女の心を凍り付かせて震わせる。


 ――もう、会えないの?


 ――お別れなんて……嫌だよ



 きっとそんな想いに魔女の悲しみが共鳴してしまったのであろう。

 麻海は真奈女に精一杯優しさを込めた声で言った。

「安心しな、アタシもアンタとは別れたくない、こんな終わり方なんてアタシは知らないから」

 そして言葉を続ける。いつも通りの低く固い声で。

「魔女のチカラでこんなことになったとは言えどもアンタの意思も絡んでこうなってんの。元の世界に戻るにはアンタの意志が必要なワケよ。だからさ」

 頷いて戻る意志を示す。そのティーカップの底、そこから戻ろうと身体は浮いていく。上へ上へと舞うように。そんな中、真奈女は麻海にひとつ訊ねた。

「アサミの電話番号、教えてよ。まさか家にも電話ないわけじゃないよね」

 声高らかに笑う魔女。

「そこまで言われちゃあすこぶる機嫌が良くなるねぇ。安心しな、アタシの家、というか店にあるよ。説明抜きには使えそうもない黒いのが」

 そしてこう続けた。

「ただ、客がかけて来たりするからねぇ……それよりもっと良い方法をアタシは持ってるよ」

「待ってるよ」

「侍らせてやるよ」

「エラそうに」

「エロいのさ」

 ティーカップの底は遠くなっていく、ふたりは高く昇っていく。辺りは光り出し、目の前は美しい白に包まれた。



  ☆



 目を開いたそこに広がる景色は青空。金髪の女は身体を起こして見渡した。公園ベンチで寝ていたという事実、子どもたちが走り回りはしゃいで空の明るさに負けない雰囲気を出していた。

――行くよ

 地に足を着いて、走っていく。地面を踏む感触が固く、しかし優しくて、そよ風は急ぐ麻海に手を振っていた。

 日差しの笑顔から逃げるように、麻海が欲しい笑顔はそんな大きくて有名なものではない。


 走る、駆ける、急いで、早く、速く。


 景色の流れは速く、麻海には前しか見ている余裕はない。

――やることはふたつ

 やがて見えて来た気配。それはあるアパート。新しくはないものの、古いと言うには少しばかり年季の入った絶妙な建物。

 麻海はメモパッドと万年筆を取り出して走りながら幾何学模様を走り書きしていく。そして描いたものを破り取ってアパートの壁に叩き付けた。

「アンタの意志、その『防犯』の想いを煙に撒く。気配の元へとアタシを連行しな」

 麻海の〈煙の魔女〉のチカラによって想いは曇り、隠されていく。防犯の意志は上手くもない口によって煙に巻かれてあるドアが開いた。そこへと向かい、部屋の中へと入った麻海は食器棚を開けてある物を探す。皿、ボウル、器、コップ、カップ、ティーカップ。

「めっけ」

 麻海が手に取ったそれは白いティーカップ。内側に黒い渦を巻いているそれは紛れもなく狙いのもの。それを革の鞄に仕舞って次にある部屋へと向かう。そこは気配の煙が漂う部屋。ベッドにて眠る少女は頬を優しい赤色に染めて、幸せそうな寝顔を見せていた。

 麻海はそんな少女、真奈女の眠るベッドの中に入って真奈女の寝顔を眺め始めた。

「反則級だねぇ、レッドカードで退場クラスの可愛さ、世界新記録の愛しさよ」

 真奈女が目を開くまで、ただひたすら見つめていた。幸せそうな顔は麻海にまで幸せを与えていた。

「愛いやつめ、起きた時の言い訳でも考えておいてアタシは日本百合の会でもやっておいて下さいまし、って感じ」

 どれだけの時が経っただろう、やがて真奈女は目を開いた。そして目の前でひたすら自分を見つめてくる女を目にして顔を赤くして目を見開いた。

「ええ、えええ!? アサミがどうしてここに」

 麻海はぎこちなく微笑んだ。

「どうしてもこうしてもねぇ、気が付いたらここにいたものさ。風が運んだのかアンタの頭の中から出て来たからなのか」

 誤魔化しは通用したようで真奈女は無言で頷く。麻海はメモパッドを取り出して万年筆で何やら文字を書き始めた。そして紙を破り取り、真奈女に手渡す。

「どうだい? これでお別れはないってものよ」

 書かれた住所と店の名前を確認する真奈女はひとつ訊ねた。

「お店の名前、これって雨……秋?」

 麻海は美しい唇を動かし、真奈女が愛する声で答えた。

「昔からある店でさ、逆から読んでみて御覧な」

 真奈女が読み上げた店の名前、それが麻海がこれから働く古道具店の素敵な名前なのであった。

「これは……秋雨っていうんだね」

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〈煙の魔女〉 焼魚圭 @salmon777

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