第2話 〈残香の魔女〉

 石で出来た小さな鳥居、肩身の狭い木の祠、小さなブランコがひとつだけ設けられた神社。そこに祀られている神のご利益はどのようなものなのか、ふと思ったがそんな想いは優しく吹くそよ風に流されてどこかへと消えて行く。

 鳥居の上に腰掛ける緩いベージュの服に身を包んだ女は空を眺めて紙飛行機を飛ばす。

――会社であった酷いこと

 指を齧るような寒さの中、苛立ちと悲しみを紙飛行機に、落ち葉に、神社の中で抜いた雑草に込めて捨ててしまう。そうして想いを忘れることこそが〈残香の魔女〉松木 桃樺の能力のひとつ。忘れて消して、なかった事に。いつに日にか桃樺だけでなく他の人の想いまで世界のどこかに流してしまう、特に理由はなくても予感が語っていた。

 飛ばした紙飛行機は思いの外飛ばなくて、神社の敷地すら出ることは叶わない。

 地に落ちた紙飛行機をしばらく眺めていた。

――あの中に悲しみが苦しみが詰まっている

 それを思うだけで紙飛行機そのものすら憎たらしく想えてくる。

 紙飛行機に込めた想いが心の中に戻って来るのを感じながら重苦しい気持ちで紙飛行機を拾うために鳥居から降りる。

 地に足を着いてしゃがみ込み、手を伸ばす。想いという旅客を乗せて飛んですぐに墜落した紙製のそれに手が届きそうなその時、柔らかな感触が桃樺に触れる。柔らかな感触の持ち主は柔らかな笑みを浮かべた。

「お姉さん、ゴミ拾いなんて偉いね」

 その言葉の主は柔らかそうな体つきをニットのセーターの内に隠してた少女。柔らかなウェーブを描く薄茶色の髪の少女は柔らかな目をしていた。そして柔らかな声で勘違いしたまま思ったことを口に出していたのだった。

「違う、私はただ自分で投げた紙飛行機を……」

 桃樺は白状する。自分で投げた紙飛行機、投げたまま放置しようとしたことを。少女は桃樺の頭を撫でて優しい微笑みで包み込む。

「大人なのに紙飛行機折るなんて変わった人。放置しないの偉いよ」

 変わった人、そういう少女こそ変わった人だった。少女は柔らかな声で名を桃樺の耳へと運ぶ。

「私は『はんだ みつこ』、ご飯に田で『はんだ』って読むの」

 桃樺は聞いたことがあった。そんな地名が存在することを。

「そうね、少し読みにくいね、地名の知名度的に」

 桃樺は遅れて名乗る。

「私は松木 桃樺、木へんに華やかで樺なのに華やかさが無くて……」

 全体的に柔らかな蜜子を見ていると桃樺の心まで柔らかに解されていくように感じられるが、実際のところはそうでも無いのだろう。今すぐにでもまた地味で固く締まり、自信もない上にやる事なす事遅れて会社でも怒られ続けるような女。そこから変わるの事は容易ではないのだから。

 それからの会話で蜜子は15歳の受験生だと言う事を知り、1月の末である今、遅れて土地神さまにお参りをしに来たのだという。

「遅れてだなんてまるで私みたい」

 思わずこぼれた言葉。しかし、ふたりの事情は全く異なる。想いから逃げる為に神社に来た桃樺と受験という戦いを強い想いと祈りで乗り越える為に足を運んだ蜜子。事情どころか心すらかけ離れ過ぎたふたり。似ていると言うのは蜜子に失礼なことであった。

「ふふっ、そうだよね。お姉さんも仕事の細かいとこでワンテンポ遅れてるもんね」

 桃樺の心は何かを刺されたような痛みを感じた。頑張る蜜子と逃げる桃樺。何処も似ていないのだから。

 そんな会話のあとでふたりで和菓子屋カフェへと向かうのであった。



  ☆



 日本家屋の戸を開けばその向こうに広がるそこは紙に包まれた小さなお菓子がたくさん並んでいる甘美な場所。出迎える店員は鮮やかな紅い着物を纏っており、まるで楓を連想させる。和菓子屋の隣りの部屋へと入って行く。そこが抹茶と和菓子を味わう喫茶店なのだろう。蜜子は初めて感じた雰囲気に落ち着くことが出来ないでいた。

 ふたりは水色の着物を着た少女に案内されて席に座る。ふたりを紅い着物に身を包んだ店員は怪訝そうな貌をして窺っていたが、特に何かを言及されるわけでもなくただ見ているだけ。蜜子は桃樺の耳元で囁く。

「どうしたのかな?」

 慣れたような顔を見せて答えるのであった。

「社会人と中学生だか高校生だかが一緒にいるんだもの。それで怪しまれただけと思う」

 風情のある木の机に肘を着いて桃樺はメニュー表に目を通す。蜜子はただただ和の雰囲気に圧倒されて縮こまりながら落ち着きなく辺りを見回していた。大人な桃樺だったが仕事でのことも態度も全く見本にはならない、若いどころか幼いとも言える蜜子でもそれは分かっていた。桃樺は右肘を机に着いたままメニュー表を閉じて蜜子に左手で渡す。受け取って様々なメニューを見て、蜜子の心は踊った。柔らかな大福、きな粉に身を包んだわらび餅、餅が餡子の湯に浸かる姿を思わせるおしるこ。悩み想い考える。どれもこれもが魅力的でみんなして蜜子のことを惑わし誘ってくるよう。

 結局、桃樺は羊羹と本玉露、蜜子は最中と抹茶を頼んだのであった。

 それからしばらく待って水色の着物の少女が運んで来たお菓子とお茶、それらをいただくのであった。桃樺はとても甘い羊羹を食べながら優雅に香る玉露のほんのりと優しく染み込み静かな余韻を残すような甘さを堪能する。羊羹の強い甘みに玉露の優しさは合うものだろうか、そんな疑問を心に仕舞って蜜子は餡子とがわが奏でる程よい甘さに笑顔を浮かべて苦い抹茶を口に含む。その贅沢な美味は蜜子に満足の二文字を抱かせるのであった。

「おいしい」

 思わずこぼれる言葉に桃樺は頷き、玉露を啜る。

 そんな素敵なひとときの後、蜜子はお礼に桃樺にある物を買って渡す。桃樺は礼を言って箱を開ける。中に収まっているもの、それはティーカップであった。白い体、しかし中では黒い渦を巻いているカップ。桃樺はとびきりの笑顔を浮かべて蜜子の肩に手を回して歩き出すのであった。



  ☆



 空が薄暗くなって来たその時、蜜子に手を振り桃樺は立ち去って行く。蜜子は今日のことを振り返り、「受験生を連れ回して……とてもおかしな人」ひっそりと言葉をこぼして家に帰って行った。

 桃樺の想いは柔らかなもので満たされていた。桃色の煙のような優しい温もりに包まれて、心は激しく波を打つ。頭のどこかで揺れるような衝撃を受けて、それが心地よくて、息が苦しくて、とても愛おしくて蜜子のことが頭から離れない。その想いに苦しみつつもその想いにいつまでも浸っていたい、そう思っていた。


 桃樺は気が付いていなかった。


 その想いが恋であるのだと言うことを。



  ☆



 それから特に勉強が出来るわけでもない桃樺は蜜子と会いつつもただ応援するだけ、蜜子は頼りなさを感じつつも応援に救われてもいることは分かっていた。なんと蜜子の勉強によって桃樺は感心したように頷いて時々妙な声を出して蜜子のことを褒め、勉強の内容については初めて聞いたかのような反応を取ることも多かったほど。

 そんな日々も過ぎ去って景色は移り変わり桜が咲き始めた頃、ある学校に置かれた板に張り出された紙に書かれた番号を確かめ、ふたりは笑ってはしゃいで抱き合っていた。蜜子の柔らかな感触に心を揺らされた桃樺は蜜子の顔に顔を近付ける。今にも付きそうなほどに近付いて、息がかかるくらいのそこで、ただただ出来る限り優しく笑うのであった。

 そんな様子をこの世の誰よりも間近な距離で目の当たりにした蜜子は思った。


 その距離感が気持ち悪い。


 しかしそれを口に出すことなどなく笑顔を塗って感情を覆い隠す。それが蜜子の仕事なのだと言わんばかりに。受験の合格発表に嫌な思いを隠す、晴れた空を覆う雲を無理やり薄めているようで違和感を覚えたのであった。



  ☆



 それから2ヶ月が経過して、空から降り注ぐ光が眩しく暑くなってきた。太陽は何を思って人々を見つめているのだろう。正直に言うならば蜜子にとっては夏の暑さは迷惑そのものであった。

 迷惑なものに対して柔らかな声で本心を放つ。

「ああ、暑いんだよ」

 そんな暑い中、神社を集合場所に指定したあの社会人女性を半ば恨みつつ、しかし友だちだからと愛しい想いも持って鳥居をくぐる。伝えたいこともあり、心を振りながら来たのであった。しかしそこには蜜子ひとり、時計を確認すると約束の時間は5分ほど過ぎているにも関わらず桃樺はまだ姿を見せていないのであった。

「どうしたのかな」

 呟くも桃樺は姿を現すこともない。不安が胸を突く。何か事故か仕事の休日出勤か、そんな想像とともに黒くて重たい感情がのしかかってくる。

――桃樺……

 苛立ちを覚えることは多くとも一応は友だちなのだ、来なければ不安にも感じるのだろう。そんな想いに浸された蜜子が後ろを振り向いた時、走って近付いて来る女の姿をその目で捉えたのであった。

「蜜子! 待たせてごめんなさい」

「もう、遅れて! 会社でもそれだったらクビにされちゃうよ」

 不満をぶつけるも、無事を確認出来たことで心の中から重たい感情は去っていく、蜜子は胸を撫で下ろす。

「心配したんだよ」

 そして蜜子は目を輝かせて声を弾ませて祝うべきことを伝えるのであった。

「実はこの前カレシが出来たんだよ」

 桃樺は目を見開き、しばらくの間動くことすら出来なかった。桃樺の中に姿の見えない男に対するある想いが膨らんでいって、素直に喜ぶことなど出来やしない。

 そんな表情を見て取った蜜子は怪訝そうな顔を浮かべながら訊ねる。

「どうしたの?」

 桃樺は息が詰まり、心臓は不快な脈を打つ。あまりにも苦しいその感情を隠そうにもそれは出来なくて。

「もしかして、桃樺付き合った経験ない?」

 残酷な事実と世にも悲しい質問を突き付けてくる愛しい人に対して、桃樺は正直に話し始める。

「あの、あの……実は……」

「どうしたの?」

 息が苦しくて、頭が揺れているような感覚に見舞われて、それでもどうにか言葉を吐き出す。

「実は私……あなたに恋してたみたい」

 しばらくの沈黙、その後に蜜子は眉を顰める桃樺の顔を覗き込みながら言う。

「そっか」

 ひと言の後に紡がれる言葉。

「正直そういうの……気持ち悪いよ」

「え?」

 暗い表情を見せる桃樺に対して蜜子は容赦の無い言葉を紡ぎ、刺し続ける。

「女の子同士だよ。なのに恋してたなんて……気持ち悪い」

 桃樺の視界がブレても尚、言葉の棘を刺すことは終わらない。

「和菓子の時も合格発表の時もそれから会った時もずっとそういう目で見てたんだね? ただ仲良くしてただけのはずなのにあなたはそうやって人におかしい恋をして、それをカレシが出来た時に告白なんて」

 そして、次の言葉で全てが終わる。

「サイアク、もう……二度と近付かないで」

 怒りのこもった足取りで立ち去って行く、それはあまりにも激しく思えた。


 その場にひとり残された桃樺の虚しさはあまりにも大きすぎた。



  ☆



 想いは止まない、悲しくあれど、未だに恋の気持ちは終わらない。失恋したのだというのに、想うことをやめられない。

 桃樺は家に帰り、例のティーカップを手に取った。白いティーカップ、中に黒い渦が巻かれたティーカップ。黒い渦をなぞるように、〈残香の魔女〉はその破られた恋心をティーカップに流して閉じ込めていく。


 嬉しさも愛しさも苦しみも悲しみも何もかも全て忘れてしまえますように。


 桃樺の蜜子への想いを全て閉じ込めて、そして紙に包んで、ダンボールに入れて従姉妹へと贈る。想いを捨てても尚、ティーカップはこの世から消えようとはしない。虚しい想いは遠いどこかへと飛んで行って、桃樺はしばらくの間、空っぽの心に虚しさを注ぎ込み続けることをやめられないでいた。

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